
借りた本|シロクマ文芸部
借りた本の返却日を、杏奈はいつも忘れている。
今日も夕食にお母さん特製のビックオムライスを食べて、リビングのソファでごろんとくつろいでいるときに、急にそのことを思い出した。
ソファから立ち上がり、早足で自分の部屋へ。
机の上に置きっぱなしにしていた本を開くと、挟まっていた感熱紙のレシートには今日の日付が印字されていた。
あぶねー、危うく延滞するとこだったぜ。
辛くもピンチを脱した主人公みたいなセリフ。
杏奈はカバンを手に取ると、その中に本と財布とスマホを放り込んだ。
着替えるのはめんどくさいので、白いTシャツに黒いカーゴパンツのまま、椅子にかけていた赤いパーカーに袖を通すと部屋を出た。
「本返すの忘れてたー、ちょっと図書館行ってくる」
杏奈はリビングに戻ると、ダイニングテーブルでテレビを観ていたお母さんと妹に伝えた。
「えっ、今から?」
妹は壁の時計を見る。
「もうすぐ閉館だよ」
「返すだけだから、閉まってても大丈夫」
杏奈はひらひらと手を振ると、そのまま玄関へと向かった。
ごちゃごちゃした狭い玄関で靴を履いていると、お母さんがやってきた。
「気をつけてね」
わざわざそれを言いにきてくれる。
「うん、行ってきまーす」
杏奈は手に持っていたカバンを肩に斜めがけすると、古びた玄関の扉を開いて外に出た。
3階から見下ろした団地の敷地は、もうすっかり夜の色に沈んでいた。
この団地にエレベーターはないので、階段で下までおりていく。
最近は暗くなるのも早くなったなと杏奈は思う。
日が落ちると、急に空気が冷たくなる。
杏奈はパーカーの袖口を引っ張って、指先まで手を隠した。
杏奈は冬が好きだ。
冬の澄んだ空気の中で、こうして丈の長い服を着ていると、なぜだかすごく安心する。
この前、「やっと寒くなってきた!」なんて言いながら冬服をクローゼットから出していると、「まだ早くない?」と妹に笑われた。
懲りずに、「みてみてー、萌え袖ー」なんてやっていると、今度は妹に呆れられた。
そんなあなたのお姉ちゃんは、もう二十歳をこえています。
杏奈はここ数年、冬になるといつも同じ上着を着ている。
今も着ているこれ。
赤くてやさしい色合いの、カーディガンとパーカーを、あいのこにしたような服。
前開きでボタンがついているからカーディガンに見えるけれど、フードがついているのでパーカーだと杏奈は主張している。
少し大きめのサイズで生地がとてもやわらかく、とにかく着心地がいい。
杏奈は流行には無頓着で、自分が気に入った服をずっと着ているタイプである。
そして異様に物持ちがいい。
杏奈は階段で下までおりると、正面にある道路へは出ずに、反対方向へ歩き出す。
建ち並ぶ団地のあいだを突っ切っていく。
こっちのほうが近道なのだ。
団地と団地のあいだには高低差があるので、短い階段を何度もおりていく。
敷地内には街灯が多く、いつだって無駄に明るい。
団地の端を通り抜けると、大きな道路に辿り着く。
車のヘッドライトが坂の向こうから上がってきて眩しい。
図書館は区の文化センターの中にある。
ここからだと歩いて30分くらい。
電車に乗れば一駅で着く。
さっきご飯を食べすぎちゃったし、ここは歩いていきますか。
杏奈はお腹をさすりながらそんなことを考えると、図書館へ向かって歩き出した。
杏奈が住んでいるこの街は、とにかく坂と階段が多い。
山と谷のあいだに、張り付くように住宅が広がっている。
標高もかなり高く、市内の海側よりも季節が一足先に進んでいる。
夏には気温が海側よりも2、3度低くなるため、昔は関西の軽井沢と呼ばれていたらしい。
戦後にベッドタウンとして発展する前は避暑地だったらしく、旅館やダンスホール、温泉なんかもあったらしい。
今でもところどころに、そのころの面影を残す古い建物や跡地がある。
ときどき車のヘッドライトに照らされながら、杏奈は大きな道を歩いていく。
ところどころガードレールの切れ間に階段があり、そこを下るとまた大きな道路に出る。
坂と階段を何度も上り下りしていると、だんだんと家が密集してくる。
区の文化センターがある駅の周辺はとくに建物が密集していて、杏奈が住んでいる団地が建ち並ぶ地域とはまた少し雰囲気が違う。
新しい家や古い家の建ち並ぶ坂道を下っていると、醤油と焼き魚の匂いが漂ってきた。
やっとこさ、区の文化センターに辿り着いた。
けっこう疲れた。帰りは電車にしよう。
そんなことを思いながら、図書館のある2階を目指す。
図書館の入り口の自動ドアの前には、「本日は閉館しました」の看板が建てられていた。
となりにある返却ポストの前で立ち止まる。
杏奈はカバンから借りていた本を取り出すと、パラパラとページをめくった。変なものは挟まっていない。感熱紙のレシートはくしゃっと丸めてポケットに入れる。
紐のしおりを一番前のページに戻すと、返却ポストへそっと差し込んだ。
ポストの向こう側で、本がカゴに落ちるガコンという音がした。
これでよし。
ありがとう返却ポスト、また開いているときに借りにくるよ図書館。
杏奈は図書館に向かって軽く頭を下げると、区の文化センターを後にした。
駅はすぐ近くにある。
ICOCAをタッチして改札を通ると、階段を上ってホームへ出た。
人影は少ない。
電車はついさっき出たみたいだ。次は15分後だ。
杏奈はホームのベンチに腰を下ろすと、カバンからスマホを取り出した。
通知がきている。
最近はじめたnoteの通知だ。
アプリのアイコンをタップすると、「*さんがあなたの記事にスキしました」と表示されている。
プロフィールを開くと、どうやら自分と同じように文芸コミュニティで小説を書いている人のようだ。
先週のお題で書かれた作品を読んでみる。
過酷な境遇にある二人の女の子が、出会い、お互いの拠り所になる過程が、丁寧に描かれているストーリーだった。
駅のホームで、まわりの音も忘れるくらい、杏奈はちょっと感動していた。
心を込めて、そっとスキのボタンを押す。
なにかコメントを送りたいと思ったけれど、なんて伝えたらいいのか分からない。
もっと自分の気持ちを素直に文章にできたらいいのに。
いつのまにか、電車はいってしまっていた。
また15分。
杏奈はいつもの猫背を、少し伸ばした。
よし、私も書こう。
夜の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んで、杏奈は電車がやってくる方向をじっと見つめた。
小牧さん、シロクマ文芸部の皆さん。
今回も参加させていただきます。
いつも素敵な安全地帯をありがとうございます。