
待つ時間|シロクマ文芸部
待つ時間が、もう終わってしまうということ。
ピケはゴミ袋の中で、それを痛いくらいに感じていた。
朝、目覚まし時計が鳴ったとき、ピケはいつものようにベッドの中で、祥子の腕に抱かれていた。
すぐそばにある体温と、布団の隙間から入り込んでくる冷たい空気を感じる。
祥子は布団の中から手を伸ばし、目覚まし時計を止めた。やがてピケから体を離し、布団から抜け出していく。
その温もりが残る布団の中で、ピケはじっとしていた。
祥子はパジャマを脱ぐと、中学校の制服に袖を通した。
鏡の前で、セーラー服の赤いリボンを結ぶ祥子を、ピケは顔だけ出した布団の中から眺めていた。
「行ってくるね、ピケちゃん」
着替え終わると、祥子はベッドのふちに腰掛けた。
ピケを手に取り、そっと背中を撫でた。
そして再びベッドに寝かせ、布団をかける。
カバンを持って部屋を出ていく祥子を、ピケはいつものように布団の中から見送った。
ピケは毎日、誰もいなくなった静かな部屋で、祥子の「ただいま」を待っている。
窓から差し込む光がだんだんと低くなって、部屋の中が暗くなり始めたころ、祥子は学校から帰ってくる。
だからまだ明るいうちに、ドアが開く気配がしたとき、いつもとは何かが違うとピケは感じた。
足音が、ゆっくりと近づいてくる。
そこに立っていたのは、祥子の母親だった。
母親は何も言わずにベッドに近づくと、ピケを乱暴に掴み上げた。
手に持ったゴミ袋が、大きく口を開いていた。
放り投げられたような感覚と衝撃を、ピケは押し込まれたゴミ袋の中で感じた。
外を見ようとしても、薄い光が入ってくるだけで、ここがどこなのかはわからなかった。
誰かが近くで動き回る気配がする。
足音が近づいてきて、何度もゴミ袋を蹴った。
祥子が帰ってくるのは、まだずっと先のような気がした。
きっとそれまでに捨てられてしまう。
祥子が家に帰ってきて、ベッドに自分がいないと気づいたら、きっと悲しい思いをする。
どうしてこんなことをするのだろう。
まだ小さかった祥子がピケを抱いていると、あの人はいつも笑っていた。
そのときの顔を、ピケは覚えている。
いつしかまわりからは人の気配が消え、あたりはしんと静まり返っていた。
押し込められたゴミ袋の中で、ピケはずっと耳をすませていた。
それくらいしか、できることがなかった。
何度も祥子の声が聞こえた気がした。
「ピケちゃん」と、いつもの声で呼ばれた気がした。
でもすぐにわかってしまった。それはピケが聞きたいと思ったから、聞こえてきただけだった。
どのくらい経ったのだろう。
ふと、また祥子の声が聞こえた気がした。
でもそれは、いつも聞いている優しい声ではなかった。
遠くで、言い争う声が聞こえる。
しばらくすると、ドアが乱暴に開く音がした。
誰かの足音が、あわただしく近づいてくる。
体が揺れた。
ビニール袋を破る音。
差し込んできた光の中に、ゴミをかき出す手が見える。
そしてその手が、ピケを掴んだ。
その手の先には、泣いている祥子の顔があった。
祥子はピケを抱えて自分の部屋に駆け込むと、すぐドアに鍵をかけた。
ドアの向こうで、母親の怒鳴り声が聞こえる。
祥子はピケを抱えたまま、しゃがみ込んで動かなかった。
ドアを蹴る大きな音が部屋に響いた。
その振動が床から伝わってきたあとで、急に何も聞こえなくなった。
祥子はしばらく泣いていた。
あふれた涙が、何度もピケに染み込んだ。
ピケは祥子の腕の中で、震える体温を感じていた。
それでも、やがて祥子は立ち上がると、ピケをそっとベッドに置いた。
セーラー服を脱ぎ、白いセーターと黒いスカートに着替えた。
そして大きめのトートバッグに何かを詰め込むと、クローゼットから普段は着ない厚手のコートを取り出して、それを羽織った。
「行こう、ピケちゃん」
祥子はそう言うと、再びピケを抱えた。
音を立てないように鍵を開け、そっとドアを開く。
廊下には誰もいなかった。家の中にも、誰かがいる気配はない。
祥子はまっすぐに両親の部屋に向かうと、あちこちの引き出しを開けて回った。
そして何かのカードを見つけると、それをポケットにしまった。
そのとき、玄関のほうで急に音がしたので、祥子はあわててドアから死角になる場所に身を隠した。
音はこちらへはこない。
どうやらリビングに向かったようだった。
慎重に廊下をのぞき込むと、やはり誰もいなかった。
廊下の先に玄関が見える。
祥子の腕に、一瞬力が入ったのをピケは感じた。
息をとめた祥子は、一気に廊下を走り抜ける。
玄関で靴を掴むと、そのまま裸足で飛び出した。
母親の怒鳴り声が聞こえたけれど、祥子は振り返らなかった。
祥子は止まらずに走り続けた。
冬の色味のない空と街の景色が、ぐんぐんと通り過ぎていく。
刺すような冷たい空気が、ピケの体を撫でていった。
やがて祥子は、路地裏の隅に倒れ込んだ。
激しい呼吸に合わせて、白い息が黙々と上がっていく。
祥子はしばらく倒れ込んだまま、息を整えようとしていた。
頬がずっと小さく震えている。
それでも祥子は立ち上がると、手に持っていた靴を履いた。
ピケを抱え、再び歩き出した。
コンビニに入った祥子は、奥にある機械の前で立ち止まった。
ポケットからカードを取り出し、機械に差し込む。
いくつかのボタンを押すと、機械から紙の束が出てきた。
祥子は置いてあった封筒にその紙の束を入れると、すぐにコンビニをあとにした。
祥子はコンビニの裏手に回ると、その陰に体を隠した。
スマートフォンを取り出し、画面を指で何度も叩く。
しばらくすると、スマートフォンが震えた。
祥子は画面を見つめたまま、しばらく動かなかった。
やがて小さく息を吐くと、スマートフォンをポケットにしまった。
それから、祥子はずっとそこにいた。
駐車場のほうを気にしていて、車が入ってくるたびに、祥子の体は少し強張った。
けれど、どの車も少しの間停まっては、すぐに走り去ってしまった。
次に祥子のスマートフォンが震えたのは、大きな黒い車が駐車場に停まったときだった。
スマートフォンの画面を見た祥子は、しばらく何かを考えていた。
祥子の手が、ピケの背中を何度も撫でる。
その手は冷たかった。
「大丈夫」
そう呟くと、祥子は立ち上がった。
そしてピケを、トートバッグの中にそっと入れた。
ドアが閉まる音がして、ピケの体が後ろに押された。
小さな振動と、車の走る音がする。
トートバッグの中から、封筒が抜き取られていった。
男の人の声がする。でも、何を話しているのかはわからない。
トートバッグ越しに、祥子の腕の感触がある。
「構いません」
祥子の声が聞こえた。
でもその声は、いつもの声とは違っていた。
「できるだけ遠くに連れていってください」
トートバッグの中で、ピケは祥子の鼓動を聞いていた。
小牧さん、シロクマ文芸部の皆さん。
今回も参加させていただきます。
いつも素敵な安全地帯をありがとうございます。