
逢魔伝(おうまでん) 1-11
十一
母さんはどこにいるのか聞くと、台所で葬式の馳走の準備をしていると、言った。
父さんの顔はどこか安らかで、穏やかな目をしていた。黒いネクタイを少しゆるめながら、向かいあって正座している僕を見つめ、微笑をこぼした。父さんのこんな笑顔は、はじめて見た。
「お母さんは、お前に力を残したそうだね」
そう言って、渡された手紙は、ばあさんの残した遺言書だった。
そこには、坂島の家守を僕、坂島赤也に引き継いでゆくことと、ばあさんの家守としての力を、僕に残してゆくことが書いてあった。
そして、財産らしい財産など、じいさんの借金でつぶれてしまっているから、なにも期待するな、とはっきり書いてあった。それを読みながら、ちらり、と父さんを見ると、父さんも苦笑をもらしていた。「財産分与で、兄弟がみなもめなくてすむが、まったく、お母さんらしいよ」と、その時だけは、坂島登紀子の息子の顔をして、笑っていた。
たしかに、遺品の整理をしていた時も、金になりそうなものは無かった。強いて上げるとしたら、この古い家と、古い着物と、護符の山と、古い和綴じ本の山、ぐらいじゃないだろうか。
その蔵書は、じいさんの物らしいが、書庫に入るのも、この家では父さんだけだ。あまり手入れのされていない古書は、虫に食われ、埃にまみれ、表紙さえも変色している。
手紙をたたんで、それを父さんに返そうとしたが、それはお前が保管しなさい、と僕に押し返してきた。
「お母さんから聞かなくても、わたしは、はじめから知っていたよ。赤也」
「僕がおかしいことを、ですか」
父さんの顔をまっすぐに見つめると、父さんはめずらしく表情を崩して、すぐに大きな声で笑い出した。
「おかしい、か。そうか。いや、すまん。わたしは、何も見えないし、そういう力を持たないが、お母さんの周りで、そうしたおかしなことは確かによく起こっていたよ。だからね、お前が生まれた時、ああ、そうか。と、思った。お前は、お母さんにそっくりだったからね。若い頃の写真を見れば、わかるよ」
「もう見ました」僕は、苦笑を浮かべた。それに父さんはうなずいた。
「うん。だから、お前がこの家のことを継ぐだろうと、思っていた。わたしにも、そういう力があれば、お前に妙な苦労を、かけることも無かったんだがね」
この時、はじめて父さんが何を言おうとしているのか、わかった。そうして、同時になんだか気恥しくなり、居心地が悪くなる。八枯れに「鬼」呼ばわりされているほうが、ずっとマシだった。
僕はつい、もじもじと膝の上で、指をいじった。父さんはそれに気づいたのか、先を口にすることなく、「ああ、喉が渇いた」とだけ、言った。僕はそれにホッと胸をなで下ろして、じゃあ、台所でお茶でももらって来ましょうか、と立ち上がった。「うん、頼む」と、父さんはいつものように、真面目な表情でうなずいた。
部屋を出る時、僕は襖の前で立ち止まった。ふり返ると、父さんもまっすぐに僕を見返してきた。
「平気ですよ」
「何がだい」
「僕は、大丈夫です」
「うん」
父さんはそれ以上、何も言わなかった。僕も黙って、部屋を出た。廊下を歩いていると、いつの間にか、八枯れが僕の後ろをついて歩いていた。鼻を鳴らして、「お前、ちと強くなったと思うとったが、登紀子と力を分けたのか」と、つぶやいた。
「猫が、人の話を立ち聞きするもんじゃないよ」
「毛づくろいをしていただけだ」
そう言って、尻尾を振りながら、僕を追い越した八枯れを見て、ため息をついた。
「いいよなあ、お前は」
「何がじゃ」
「畜生だから」
「貴様、わしを馬鹿にしとるな」
じとりと、僕を睨みつけてきた八枯れを見下ろして、もう一度、深いため息をついた。何か言い返す気力もわいてこない。のろのろと、台所に向かった。
「どうして書き残したりしたんだろう。ばあさん」と、独り言をもらすと、八枯れは怪訝そうな顔をした。
「嫌なのか?」
「別に」
「別に、と言う顔ではないぞ」
不思議そうに首をかしげていた黒猫と共に、台所に入ると、母さんが僕を見て、にっこりと微笑んだ。
「丁度いいわ。お父さんに、麦茶を持って行って」と、手渡された盆には、麦茶の入ったグラスが二つ、乗っていた。僕はそれを受け取り、また廊下に出る。
シュワシュワとうるさく鳴く蝉の声を聞きながら、「どうにか、うやむやにならないものかな」と、ひとり愚痴る。ばあさんが、決めたことだ。おそらく、無駄だろうと言うことがわかっているので、これは軽い抵抗にすぎない。
頬を伝って落ちた汗に、よく冷えた麦茶を一口飲んで、どちらともつかないため息を吐いた。縁側を歩きながら、庭の木々を見ると、晩夏を迎えた雑木の葉が、繁茂している。夏の強い日差しをあびて、青々としたその身は、まぶしく照り返っていた。