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Photo bykani224

静寂の歌 2-6

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        六

     扉を開けてすぐ、ぎょっとして眼を見張った。床、壁、階段、天井、なにからなにまで、真っ黒い人型の影が貼りついている。どれも、走っている姿だとか、座っている姿だとか、ともかくそのようなものが、模様のように一面にはり巡らされているのだった。
     「よくこんな家で暮らせるな」
     「こいつは、すごいですね」
     後から、ひょっこりと顔をのぞかせた邪植が、口笛を吹いた。それに眉根をよせながら、壁にはりついている影の一つに触れる。そいつは、壁から離れると入り口に向かって走り出した。しかし、何かに足をとられたのか、引っ張られでもしたのか、つんのめって転んでしまった。それを何度もくりかえす。
     しばらくそれを眺めていたが、手にしていた塩を影に向かってふりかけた。ずるずると、変形し、頭から肩までなめくじのように、溶けていった。残った腰から下だけで、さきほどまでの行動をくりかえす。なるほどね、とうなずいて残った塩をみんなかけてしまうと、影は溶けてまったく無くなってしまった。
     「これは、山下とも子の影だ」
     「これ全部ですか」邪植は頓狂な声を上げて、天井を見渡した。
     「おそらくね」
     僕はしゃがみこむと、床板に手をあてた。影の溶けて消えたあとを、そっとなでる。途端、目の前に情景が浮かんだ。とも子は、顔面を腫らして、泣いていた。赤くただれた皮膚を押えて、必死に抵抗をくりかえし、玄関へと転がるようにして駆け出たが、すぐに無骨な手に腕を捕まえられ、引きずり戻された。そこで、情景は途切れ、またただの無機質な床板が目に入る。やはり、この影の群れは、山下とも子の思念体なのだ。
     「この中から、失踪当時のものを見つけよう。そうすれば、山下とも子の現在がおのずと知れる」
     ポケットに手をつっこみ立ち上がると、億劫そうにつぶやいた。邪植は、この中からですか。と、殊勝な声を上げて、辺りを見渡している。見た限り、ざっと、数百体はいるのだろう。ここに越してきてから数年分の影が、家の内側に貼りついて、はなれない。一種の怨念で、厚みのある層ができているんだから、辛気臭くもなる。
     「案外見つけるのは簡単だよ」
     「どうしてですか」
     「まあ、待て」
     ちょっと赤也さん、とうるさい邪植を無視して、玄関まで引き返すと、扉に貼りついていた影を、じっと見つめた。そら、と指さして見せる。
     「そこにうずくまっているのが居るだろう」
     「ええ、まあ」
     「あれだ」
     「なぜ」邪植は普段、あまり大きく開くことのない目を見開いて、驚いた声を上げた。「なぜって、お前もおかしなことを聞くね」頭をかきながら、玄関扉の前にしゃがみこむと、その影に触れた。さっきの影と同じように、扉から離れると、影は立ち上がった。しばらくぼんやりと佇んでいたが、ずるずる、と片方の足だけ引きずって、歩きだした。階段から落ちた時に、足でも悪くしたのだろう。とも子の影は、そのまま玄関の敷居を越えて、外階段を降りて行き、ゆっくりと門の外へと出て行った。僕は微笑を浮かべると、その後を追って、飛び出した。
     「ほら、行くぞ」
     「八枯れは良いんですか」と、あわてて僕の後を追いかけてくる邪植を振り返って、放っとけ、とつぶやいた。
     「子供じゃないんだ。なんとかするだろう」
     「あの様子じゃ、みんな喰いますよ」
     「その方が、あの家のためには良いんじゃないか?」
     「家主まで喰ったらどうするんですか」
     「それはその時だ」
     山下とも子の影は、ずるずると、一定の速度を保って前へと進む。公園通りを抜けて、坂道を上がり、住宅街を抜けた。大通り沿いに、足を引きずりながら、時折、立ち止まって休んでは、また足を進める。僕と邪植は、のんびりとその後を追いながら、辺りの様子をうかがう。おそらく、この影の行き着く先が、現在とも子が身をひそめている所なのだろう。
     「でも、よくあれが失踪前夜のものだってわかりましたね」
     邪植は、黒いコートの裾を合わせながら、白い息を吐きだした。
     「そりゃわかる。あれだけが、玄関の扉にくっついていたんだから」
     僕の言葉に首をかしげて、難しそうに眉根をよせていた。わからないのか。と、軽くため息をついて、ポケットの中から煙草を取り出し、くわえた。
     「他の影は、玄関から先には出ていなかった。壁も天井も階段にも、あれだけ無数の影がくっついていたが、外に飛び出していない。途中で、必ず妨害されていた。だから、あの一体だけが失踪前の山下とも子だと、すぐにわかった」
     「それじゃあ」邪植は、くっと、目を細めて声を低くした。「まるで監禁されていたみたいじゃないですか」
     「みたいじゃなくて、そうなんだろう」
     僕はマッチをすって、煙草に火をつけてそれを吸い込んだ。眼前でゆれる白い煙の向こうで、山下とも子の悲痛な泣き顔が浮かぶ。あれだけ殴られても、声が出せなかったのだとしたら、なお悪い。
     「どうするつもりですか」邪植は、珍しく険のある声でつぶやいた。僕は驚いて、その横顔を見つめた。
     「さあ。ともかく、まずは生死を確認しなくちゃ」
     「生きていたら、あいつに知らせるんですか。ようやく逃げ出したのに、金を出してきたからって、あんなクソ野郎に渡しちゃうんですか」
     邪植は、珍しく感情的になっているようだった。八枯れの言う通り、たしかになかなか可愛らしく成長してくれたらしい。僕は、喉を鳴らして笑うと、煙草を揉み消した。
     「さあ、どうしようかな」
     「赤也さん、俺は」
     「到着したようだよ」


       七へ続く




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