
残されたメモ「一日あと」|拝啓文芸部
一日あと
「写真は捨てないでね」
台所から母の声がした。俺は、わかってる、と返し、押し入れの奥から引っ張り出した菓子箱を開けた。
実家の引っ越しを手伝うのは、これで三度目の日曜だった。兄も俺も家を出て、二階はほとんど使われなくなっていた。今度の家は駅に近いらしい。親父は階下で、持っていく食器棚の幅を何度も測っている。
箱には、アルバムに収まりきらなかった写真が束で入っていた。海水浴、運動会、兄の卒業式。どれにも見覚えがあったが、底の一枚だけは違った。
黄色い付箋が貼ってある。
〈あなたと出会えたことに、感謝。〉
母の字だった。夕飯は冷蔵庫、という書き置きと同じ、右上がりの丸い字。そのせいで、少しかしこまった言葉がかえって照れくさかった。
写真には、大学生くらいの男女が六人、湖を背に並んでいた。二人ずつ、肩が触れそうな距離に立っている。左端の男が親父だった。髪が多い。隣の母はカメラを見ず、親父の横顔を見上げて笑っていた。
こんな顔をするのか、と思った。
母の若い頃の写真なら見たことがある。けれど、どれも結婚式や、赤ん坊の兄を抱いた写真だった。この人はまだ、誰の母親でもない。親父が何を言ったのか、唇を少し開き、次の言葉を待っている。
「何かあった?」
上がってきた母に写真を向けると、あら、と声が高くなった。
「懐かしい。お父さんと初めて会った日だわ」
母は写真を覗き、俺の肩を軽く叩いた。耳にかけた髪が落ちた。写真の中の母も、片側の髪を耳にかけていた。
「お昼、うどんでいい? お兄ちゃん、今日は来られないって」
返事を待たずに母は階段へ向かった。途中で、親父に鍋の場所を尋ねる声がした。
高校のとき、熱を出して学校を休んだことがある。居間には、母が友達と出かけるための小さなバッグが置いてあった。俺が昼過ぎに起きていくと、母は普段の服で洗濯物を畳んでいた。
行かなかったの、と聞くと、また行けるもの、と答えた。それで話は済んだ。何を見にいくはずだったのか、俺は知らない。夕方には熱が下がり、友達と電話で笑っていたことだけ覚えている。
写真を持ち直した拍子に、付箋が剥がれた。膝に落ちた紙を拾おうとして、手が止まった。裏にも字があった。
〈これは、別れじゃない。〉
その下に、10月25日。
親父と一度、別れたのだろうか。
口喧嘩なら今もする。けれど、二人が別々に暮らすところは想像したことがなかった。
付箋に隠れていた写真の右下を見ると、橙色の数字が焼き込まれていた。10月24日。年は、兄が生まれるよりずっと前だった。付箋には年がない。
出会った日の、一日あと。
10月25日。小さい頃、台所の壁に掛かっていたカレンダーにも、その日を囲んだ丸があった。
兄と俺の誕生日には名前が書いてあるのに、そこには何もなかった。
「これ、誰の日?」
カレンダーを指す俺のそばへ来て、母はしゃがんだ。俺のパジャマのボタンが、一つずつずれていた。
母が一番下のボタンに手をかけた。俺は、自分でやる、とその手を押しのけた。
「お椀、こっちに詰めちゃった?」
顔を上げると、母が戸口に立っていた。俺は隣の段ボールを指した。
母が箱を開けている間に、膝の上の付箋を表へ返した。そして、写真と一緒に差し出した。
「これ、剥がれちゃった」
母は付箋の裏を見てから、写真の隅へ戻した。指で押さえても、端が浮いた。
「もう、くっつかないね」
俺が言うと、母はもう一度だけ指を滑らせた。それから写真ごと俺に預け、お椀を三つ重ねて立ち上がった。
母が階段を下りるのを待って、俺は箱の中の写真を何枚かめくった。兄の百日祝い。兄の入園式。やがて俺が加わる。
写真の束の下に、母子手帳が三冊あった。
さっきの写真をもう一度手に取って見る。
写真の母は、笑顔が眩しかった。この人は何を犠牲にし、何を手に入れたのか。いつも安心しきっている俺らの横で、全身全霊で生きていた。
写真に丁寧に付箋を重ね、袋へ入れた。
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