
恋に落ちる文章
娘の指先が、光る画面を無慈悲に弾く。
三秒。知らない誰かの歌声が途切れる。十秒。派手なメイクの少女が消える。三〇秒。カップルの痴話喧嘩に、娘の喉からゲラッと湿った笑いが漏れた。
リビングのソファでも、揺れる車内でも、娘の親指は止まらない。最近ではドラマまで「切り抜き」で観ているらしい。
「これ、結局どういう話なん?」
「知らんがな」
「なんでこの人、泣いてるん?」
「Tverで見ろや」
物語の前後を全部飛ばして、果汁のみを啜るとはずいぶん都合のいい視聴スタイルである。映画館の暗闇で、クライマックスに滑り込んできた客から「この人、誰ですか?」と耳打ちされているようでウザい。
世間ではこうした若者を「ドパガキ」と揶揄するらしい。短い刺激を次から次へと摂取し、ドーパミンに飼い慣らされた若者たち。
娘を見ている限り、ずいぶん的確な呼び名である。ただ、若者たちだけ――って話でもなかった。
僕もいつの間にか、本を一冊も読み通せなくなっている。
自宅で文庫本を開いても、十ページも進まないうちに指が疼き出す。通知など来ていなくてもスマホ画面を灯し、とりあえずno+eのアイコンを叩く。タイムラインをひとしきり漂流して本へ戻った頃には、さっきまで追っていた登場人物が誰だったのかさえ怪しい。
ところが、電車では読める。ahamo民の宿命か、電波が入らなくなると、諦めて鞄から本を取り出す。スマホという逃げ道さえ塞がれれば、僕だってちゃんと紙の匂いに鼻をくすぐられながらページを繰る。
娘と違い、TikTokよりも活字が好き。一日に三十本以上は誰かしらのno+eを読んでいる。コメントや返信まで含めれば、三時間以上費やしている日もある。
一記事が千字、二千字なら、だいたい終わりが見えてくる。三分空けば一本読めるし、五分あればコメントまで返せる。一方で、文庫本の残り二百ページは、「知らん、長い」と感じてしまう。
僕は活字までタイパで測り、短時間で得られる充足を細切れに摂取するようになっていた。娘をドパガキと笑っていたが、僕もまた、ドーパミンに住まう「ドーパ民」の一人である。
それでも、ときどきタイパでは説明できない文章に出会う。
no+eのトップページに新着通知がない。分かっているのに、僕は吸い寄せられるようにその人のページを訪れる。
効率を重んじるドーパ民ならば、新しい刺激はないのだからここで引き返すべきだろう。けれど、僕の指は過去の記事へと遡っていく。一度なぞったはずの行間を、もう一度、より深く指先で辿り直していた。
始まりに、ビビビみたいな予兆はなかった。
フォローされていたことにも気づかず、二週間ほど放置した。ある夜、「今日のあなたに」だったか、no+eのどこかで見覚えのある名前が出てきて、なんとなく開く。そこでようやく、「あ、この人か」と顔のない相手に輪郭がついた。
一読して「名文や」と膝を打ったわけでも、「好き」と雷に打たれたわけでもない。
ただ、文章の途中に置かれたリンクを踏んでいるうちに、気づけば時間を逆向きに辿りながら、何か月も前に考えていたことまで覗き込んでいた。新しい投稿を読むつもりだったはずなのに、いつの間にか思考の衣を一枚ずつ脱がせていくような、ひそやかな背徳感に浸ったことまで覚えている。
公開された投稿すべてに触れても指先に残る熱は引かず、僕は輪郭を確かめるように、その人のことを書き綴っていた。
その頃から、僕の中で「上手い」と「好き」と、その先にある何かが、少しずつ別物になっていった。
一目惚れではなかったからこそ、その毒はゆっくりと回った。そして、毎日読み続けていくうちに、ほんの少し調子が違っても分かってくる。前髪を一センチ切った人に「切った?」と気づくくらいの感覚で、文章の小さな変化まで拾ってしまう。
上手い文章は、感心する。
好きな文章は、また読みたくなる。
そして、更新されない夜にこそ、その重みを増していく文章がある。
ドーパミンを求めて動き続けていた僕の指は、熱を持った画面の向こうに、その人の残香を探す。
僕は、それを恋と呼びたい。