
ラテアートが崩れるまで
花屋の前を通りかかった。店先に並ぶ紫色のクレオメが、風に吹かれて頼りなく揺れている。細い茎の先から蝶の脚のような長い雄しべを伸ばしたその姿は、どこか危うい。
僕はそのまま、向かいのカフェへ入った。
窓際の席に、一人の女性がいた。
三十代後半か、あるいはもう少し上だろうか。細いフレームの眼鏡をかけ、肩まで伸びた髪を耳にかけている。テーブルにはラテアートの施されたカップ。白いミルクの上には、丸い耳と小さな口を持つくまちゃんの顔が描かれている。彼女はまだ一口も飲まず、その愛嬌のある顔が静かに熱を失っていた。
彼女はスマホを両手で包むように持ち、親指の先で画面をなぞっている。背筋を伸ばし、一点を見つめるその後ろ姿は、午後四時という中途半端な時間によく似合っていた。
画面が光ると彼女の指が止まる。食い入るように文字を追い、次の瞬間、彼女の口元がふっと緩んだ。声も出さず、肩も揺らさない。ただ眼鏡の奥の目がわずかに細まり、唇の端が数ミリ持ち上がる。
それは誰かに見せるための愛想笑いではなく、自分一人の秘密を噛み締めるような、無防備で色っぽい笑みだった。
彼女はスマホのカメラを起動し、冷めかけたラテにレンズを向けた。シャッター音は店内の喧騒に消える。
指先が画面の上で迷うように動き、何かを打ち込んでは消し、また打ち直している。恋人と呼ぶには踏み込みが足りず、友人と言い切るにはあまりに体温が近い。そんな関係特有の、言葉選びの慎重さが指の動きに表れていた。
「今日はカフェ」
たったそれだけの報告を送るのに、彼女は何度も指を止める。
送信した直後、彼女はスマホをテーブルに伏せた。しかし、十秒も経たないうちにまた手に取る。ロック画面には何も届いていない。それでも画面を点け、ロックを解除し、何も届いていないことを確認してまた伏せる。
返事を待つ時間は、文明の利器への信頼を奪うらしい。
彼女がラテを啜ると、くまちゃんの頬が茶色の渦に飲み込まれ、片側からゆっくり顔を失っていった。
画面の向こうにいる相手の、顔も声も知らないのかもしれない。ただ、句読点の打ち方や、疲れてくると絵文字が消える返事、照れ隠しに話題を逸らすタイミングは熟知している。その断片を繋ぎ合わせながら、彼女はまだ見たことのない輪郭をなぞっている。
直接「会いたい」と打てば、この均衡は崩れる。
「寂しい」と零せば、大人の余裕という薄い皮が剥がれ落ちる。
だから、どうでもいい日常の話を選ぶ。お昼に食べたラーメンのことや、季節外れに咲いていた花のこと。行間に「あなたを想っている」という意思を薄く塗り込み、本当に伝えたい言葉を何重もの世間話で包み隠す。
彼女はまた笑った。
さっきより少し長く、眼鏡の奥の哀愁が光に溶ける。画面を見つめるその横顔には、さっきまで背中にまとっていた午後四時の影はなかった。
ラテアートはもう半分以上が崩れ、白と茶色の境目は曖昧になっている。
店を出る間際、もう一度、振り返った。
彼女はまだ、光る画面の中に閉じ込められた誰かと、終わりのない対話を続けている。
向かいの花屋を覗くと、先ほどまでクレオメの鉢が置かれていた場所には、濡れた輪染みが残っていた。