
至極の一杯とは、飲み干せてこそ
美味いラーメンとは、麺を食べ終えた後のスープにこそ、その店の本気が溶けている。
家路の途中、闇に沈んだ道路の彼方に、一枚の赤い看板が浮かび上がった。
「あ、山岡家」
助手席の娘が、窓の外へ視線を投げる。

「ここ美味しいらしいよ。行ってみたい」
数刻前、同じ唇から「今日からダイエットする」という宣誓が発せられたことを、パパは記憶している。志というものが、かくも儚く陽炎の如く消え去るとは。
とはいえ、「時間、考えようや」と諭せるほど、清廉なパパやない。時計の針はすでに二十二時を回っている。夕餉には遅く、夜食にはあまりに重い。ラーメンをすするには、これ以上なく不適切な時刻である。
だからこそ、うまい。
白昼堂々とすするラーメンには決して宿らぬ趣が、深夜の一杯には確かに潜んでいる。店員が加えるでもなく、券売機で追加できるでもない。
「こんな夜更けにラーメンかよ」――そんな思いが頭をもたげるたび、味は一段深みを増す。
駐車場へ滑り込むと、幾台もの車が夜気の中に肩を並べていた。店内には、幾つもの人影がある。初めて訪れたパパを置き去りに、娘は迷いなく券売機へ続く列に加わった。
その背を見届けたパパが向かう先は、喫煙所である。

煙草に火を灯し、紫煙をくゆらせながら、店の裏手へと視線を流す。
「シャワー室」
白い壁に、そう記されていた。
もう一度、目を凝らす。
やはり、シャワー室である。

初めて訪れたラーメン屋で、まだ一滴のスープも味わわぬうちに、「客まで湯通しされよるんか」という情報まで授かるとは。
席へ戻ると、朱塗りのテーブル上に、湯気を纏ったラーメンが並んだ。

ラーメンの横には餃子。その横には、こんもり盛られた白飯。濃厚な豚骨の匂いが、むわっと鼻の奥でむせ返る。
レンゲでスープをすくい上げた。
ズズッ。
……。

娘はとうに麺を食べ終え、チャーシュー丼を脇へ押しやり、スマホの画面に顔を寄せていた。
パパの丼には、まだたっぷりとスープが残っている。表面には脂の膜が張り、湯気はもう立っていない。

「もう、出よっか」
先ほど二度見した「シャワー室」の文字が、夜気の中に白く浮かんでいた。煙草に火をつけ、店の明かりを背に時計を見る。
二十三時十六分。
……まだ、背徳には早かったのかもしれん。
