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「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日

     七月六日といえば、世間ではサラダ記念日である。俵万智さんの「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日というあまりにも有名な一首によって、たった一日の何気ない出来事が、教科書にまで掲載される記念日へと昇格した。

     サラダを食べて「おいしいね」と言われたところで、その日の晩ご飯の記憶にすら残るか怪しい。ところが、言葉の力があれば、ポテサラでなくても、それは記念日になる。

     そう考えると、僕の人生にも記念日は山ほどある。娘に「プリン?食べちゃった」と言われた皿だけ記念日。妻に「なに?言ってくれなきゃわかんないんだけど?」と言われたマハラジャ記念日。犬に布団の中央を奪われ、端で丸まって寝た雑魚寝記念日。
     極めつけは、読者さんに「この比喩がいいね」と言われた日である。

    たかが比喩。されど比喩。

     文章を書き綴る人エッセイストにとって「この比喩がいいね」は、なかなか危険な褒め言葉だ。昨日まで、サブウェイのタッチパネルを眺めながら「セサミにするか、ハニーオーツにするか」と人生の大事な分岐点に立っていた男が、急に文豪の顔をし始め「僕の比喩表現には時代の不安と庶民の暮らしが滲んでいるのではないか」などと考え出す。滲んでいるのは、ソースである。

     普段、僕の雑筆エッセイを読んでる人は「ドストエフスキーの言葉を引用するとは、なんて教養がある人だ」なんて思っているかもしれない。日当たりの悪いベランダでも勝手に伸びる多肉植物のように、承認欲求はわずかな湿度で発芽する。

     問題は、ドストエフスキーさんが誰だか知らないことである。椎名林檎の『罪と罰』は知っている。
     朝の山手通りで、セブンスターの空き箱を捨てる男と、どこかでそれっぽい銘を引用すれば、自分の中の見栄が「可塑的プラスティックな風流才子エッセイスト」と足場のない小部屋で孤独を甘やかす。

     「星新一みたいですね」と言われたこともあった。ただ、僕が知っている「星」は一徹である。ここで「せっかくだから星新一を読んでみよう」となれば、僕の文章表現の奥行きもひっくり返ったのだろう。
     褒められた事実だけを小瓶に詰め、棚に飾り、たまに光に透かして眺めている男の頭ん中は、だいたいちゃぶ台が宙を舞ってるくらいである。

     俵万智さんは「与謝野晶子以来の革命的情熱歌人」と評されたらしい。さくらももこさんは「清少納言が現代に来て書いたようだ」と言われたことがあるらしい。

     ならば僕は「吉田兼好の生まれ変わり」である。

     娘の盗み食いや、妻の正論パンチ、犬に布団を奪われた夜は、五十年後に国語の教科書へ載るだろう。生まれ変わりとは、本人確認が難しい。だからこそ、言ったもん勝ちである。

     未来の教室を想像すると、先生が黒板の前に立ち、しぶい顔で教科書を開く。
     「今日は近代随筆の単元です。次の文章を読み、作者の心情を答えなさい」
     生徒たちがページをめくれば、そこに載っているのは『サブウェイのパンに悩む男』である。

     問一「時代の不安と庶民の暮らしが滲んでいる」とあるが、この表現から読み取れる作者の心情を二十字以内で答えなさい。

     模範解答は──
    「ソース増しは、溢れやすい」

     考えれば考えるほど、僕の未来は明るい。今はまだnoteの片隅で、創作大賞に目をぎらつかせながら書いているだけの男かもしれないが、五十年後は違う。

     僕の雑筆エッセイは教科書に載り、赤線を引かれ、テストに出る。生徒たちは「可塑的な風流才子」の意味に悩み、塾講師はホワイトボードに「夢幻泡影self-delusion」と書く。保護者は「承認欲求とは文学ですか」と不安になり、文部科学省は会議を長引かせる。それでも、載る未来に大志を抱く。

     七月六日がサラダ記念日なら、僕にとっては「この比喩がいいね」と言われた日が、もうひとつの七月六日である。

     その日を境に、僕は自分を大きく見積もるようになった。伸びた鼻でパソコンのキーを押すくらいの気概がなければ、日常なんてすぐ煙のように消えていく。

    「この比喩がいいね」と君が言ったから七月六日は勘違い記念日

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    大阪産🐯→沖縄で独立🌺→娘の進学で上京🏙️ 犬🐶たちと一緒に日常のモヤモヤをエッセイっぽく雑筆中📖 人生を見つめ返しながらぼやき🗣️ ……いや、書き散らかしてるかも🫢 「なんでやねん」があれば、だいたい一本書ける。 ......知らんけど(≖ᴗ≖ )フフフ…✨

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