
その者、白き合羽をまといて灰色の野に降り立つべし
窓の外から聞こえる雨音が、途中から明らかにおかしくなった。ザーザーでも、バシャバシャでもない。ドドドドド……。空から水の入ったバケツを何百個もひっくり返している。
最初は「今日はよく降るな」くらいだったのに、窓の外は白く霞み、景色の水分量が増していく。いつもなら自転車が走り、宅配便の車が止まり、近所の人が犬を散歩させている道路が、いつの間にか灰色の水面へ変わっていた。
歩道との境目も消え、マンホールも見えない。ゴミ袋らしき白い物体がぷかぷか浮かび、分類に困る腐海が、自宅の目の前に誕生していた。


問題は、この腐海を渡らなければ外へ出られないことである。
一階まで下りて外を見ると、水はすでに膝の上まで来ていた。コンビニへ行くにも覚悟がいる。長靴でどうにかなる水位ではない。
幸い、僕は一級船舶免許を持っている。
しかし、メーヴェが見当たらない。出来ることといえば、せいぜい「メーヴェ」とつけた紙ヒコーキを飛ばすことくらいである。
僕は免許を握りしめながら「まぁ、そのうち引くだろう」と水面を眺めていた。ところが、世の中には腐海を前にしても進む猛者がいる。
一台の白い車が現れた。運転手からすれば、見慣れたいつもの住宅街である。向こう岸も見えているし、「まぁ、いけるやろ」と思う気持ちも分からなくはない。
車は、そのまま腐海の中へ入っていった。タイヤが水へ沈み、車体の下でザバァッと大きく波が立つ。それでも車は進んでいく。
いけるのか。
ドュックン、ドュックン。
ほんまに、いけんのか?
……あかんかった。もう何もかも手おくれだ。

どうやら、王蟲の怒りに触れたらしい。エンジンがかからないのか、しばらくしても動く気配がない。さっきまで勇敢な探索艇に見えていた白い車が、急に腐海へ墜落した輸送船に見えてきた。
ところが、白い車の犠牲は後続車への警告とはならなかった。ナウシカなら駆け寄って「この先はお前の世界ではないのよ!」と叫んでくれたかもしれないのに、「ナウシカにはなれずとも同じ道はいける!」とユパの声でも聞こえたのか、一台、また一台と腐海へ突っ込んでいく。そのたびに途中で動かなくなり、気づけば水の中には八台ほどの車が取り残されていた。
王蟲の抜け殻ならぬ、文明の抜け殻である。
ハザードをチカ、チカ、チカ……と規則正しく点滅させている車もあれば、電気まで力尽き、完全に沈黙している車もある。腐海へ入った順番なのか、車種による違いなのか。
ここまで犠牲が積み重なれば、もはや水深を測る必要もない。しょせん血塗られた道だ。文明との往来を試みた抜け殻たちにより、我が家が完全に陸の孤島になったことを悟った。
家へ戻り、もう一度ベランダから外を眺めた。まるで迷子のキツネリスのように白い車はまだそこにいる。水面には雨粒が無数の輪を作り、いつもの住宅街が別世界へ切り取られていた。

今夜の金曜ロードショーは『風の谷のナウシカ』である。この雨は番宣だったのか。金曜ロードショーもずいぶん大掛かりになったものである。映画の放送に合わせて、視聴者の自宅前へ腐海まで用意するとは思わなかった。あとは王蟲が一匹流れてくれば完璧だ。
妻は、ナウシカを見るために実家へ帰っている。僕はテレビのない我が家で、窓の外に広がる実写版ナウシカを見ている。今ごろ妻は実家のテレビ前で、ナウシカが腐海を飛び回る姿を見ているのだろうとスマホを見ると……。
8月13日(木)の表示。
ナウシカを見るために家を出た妻は、もう帰ってこない。
