
【エッセイ】モア
うちの猫の名前は「モア」という。
保護猫だ。
本名は moir 。
娘が名付けた。
なぜフランス語なのか、いまだにわからない。
辞書をめくってみても、それらしい意味は出てこない。
ただ、文字の並びは、どこか影のように淡く、夜に溶けていく月明かりのようで……猫には似合っている。
🌙
娘はもう、家を出ていった。
だからいま、この名前を呼ぶのは、わたしと妻だけだ。
けれどモア自身は、まるで「ほんとうの意味」を知っているかのように、いつも平然とこちらを見返してくる。
🌓
モアは警戒心が強くて、触れられるまでに七年かかった。
そのあいだも、わたしの生活のそばにいたけれど、決して手の届かないところにいた。まるで「人の世界」と「猫の世界」の境界線を守っているみたいに。
そして、モアにはひとつの不思議な癖がある。
エサを最後まで食べきらない。
必ず、食器の底に少しだけ残す。
わたしはずっと、それを「おかあさん猫の教え」だと思ってきた。
いつかの飢えに備えて、ほんの少しを残しておきなさい、と。
🌕
でも、ときどき考えるのだ。
モアが残しているのは、自分のためではなく、目に見えない誰かのためなのではないかと。
モアは残したひとかけらを前にして、じっと目を細めることがある。
その瞳は、空気の揺らぎを透かすように遠くを見ている。
わたしの目には何も映らない。
けれど、モアの耳だけが、誰かの足音を追っている。
それは階段を上り下りするような小さな音で・・やがて、気配は闇に溶けて消えていく。
モアは何事もなかったように身づくろいをして、ふっとこちらを見る。
まるで「見えなかっただろう?」とでも言いたげに。
だからわたしは、モアの残したひとかけらに手を出さない。
それは、この家にもうひとりいる住人への、小さな分け前なのかもしれないから。