
月を見る|シロクマ文芸部
私は十五日間、男を観測していた。
――そう思っていた。
一七一二。
対象を視認。
駅前の横断歩道で、男は転んだ老婆を助け起こしていた。
白いシャツの袖を肘までまくった、三十代後半。
整いすぎてはいない。
でも、女が二度見したくなる程度には、いい男だった。
老婆の頭上には、半月ほどの白い光が浮かんでいる。
私たちは、それを「ツキ」と呼んでいる。
満ちもする。欠けもする。
ツキのある人間は、文字どおりツイている。
男が老婆の腕を取った。
その瞬間。
老婆のツキが、ひと欠け消えた。
男のツキが満ちる。
私の任務は、対象の観測。
コードネーム、朔夜。
本名は、もうしばらく使っていない。
「こちら朔夜。月相変化を確認」
『了解。観測を継続』
距離、四十八。
十メートル以内への接近は禁止。
理由は知らない。
二日目。迷子を母親に返した。
親子のツキが、三日月ほど欠けた。
三日目。落とした財布を拾った。
持ち主のツキが、半分消えた。
四日目。
酔いつぶれた会社員に肩を貸す。
ツキは、細い弧だけになった。
そして男の頭上では、
ツキが異様な速さで満ちていく。
五日目。
雨の中、男は傘のない女子高生に自分の傘を渡した。
「でも、お兄さんは?」
「濡れて帰る」
「風邪ひきますよ」
男は笑った。
「君より丈夫そうだろ」
女子高生も笑う。
その瞬間、彼女のツキが大きく欠けた。
男は雨の中を歩き出す。
妙だった。
初日より、少し若く見える。
男は歩きながら、
舌先で唇を湿らせた。
観測九日目。
一八四七。
距離、七十三。
薄暮の雑踏の向こうで、男がこちらを見た。
一瞬、別人かと思った。
同じ顔なのに、妙に目を引く。
男の頭上では、ほとんど満月に近いツキが光っていた。
スコープ越しに目が合う。
そんなはずはない。
なのに、
見られている場所だけが分かった。
顔。
首筋。
胸元。
腰。
視線が、
服の上をゆっくりとなぞる。
私は無意識にジャケットの襟を寄せた。
触れられてすらいない。
それなのに、
首筋が熱い。
男が口元だけで笑った。
ぞくり、と背中が震える。
恐怖なのか、
別のものなのか。
判断するのに一秒遅れた。
「……気持ち悪い」
男はようやく視線を外す。
その横を通った女がハンカチを落とした。
男が拾う。
「ありがとうございます」
女のツキが、一気に半分ほど欠けた。
男はまた、
唇を舐めた。
十五日目。
満月。
二一一三。
対象は河川敷にいた。
距離、百二十。
空には月。
男の頭上にはツキ。
二つとも満月だった。
そのとき、男がこちらを向いた。
目が合った。
暗闇。
見えるはずがない。
それでも男は、
あの口元だけの笑いを浮かべた。
十五日間。
私はこの男を見てきた。
そう思っていた。
背後から交代要員が来た。
ナイトビジョンを渡そうとした。
受け取らない。
私を見て、絶句した。
いや。
見ているのは、私の頭上だ。
みるみる顔が青ざめる。
「……どうした?」
答えない。
私は振り返った。
満月の下。
男がこちらを見ていた。
視線が、
首筋から腰へ落ちる。
身体が覚えていた。
嫌悪だった。
そう思った。
そう思いたかった。
なのに、
身体の奥を、
かすかな熱が走る。
男が目を閉じた。
少し顎を上げる。
その瞬間、
身体の中から、
何かを抜かれた。
「あ……」
膝が緩んだ。
喪失感。
それなのに、
妙に甘い。
私は唇を噛んだ。
――最低。
そのとき、
ようやく分かった。
十五日間。
私が男を見ていたんじゃない。
あの男は待っていた。
私が満月になる、
たった一夜を。
男はゆっくり息を吐いた。
そして満足そうに、
腹を、
ぽん、と叩いた。
空には、
月だけが残っていた。
了

あとがき
静かな月見のつもりでした。
気づけば、
特殊任務 → 怪異 → 色気 → 捕食。
なんだこれ。
ジェットコースター掌編でした(笑)
ご乗車、ありがとうございました。
こちらの企画に参加させていただきました。