
「スマホを閉じて、鏡を見よう 。(10月6日)」
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夜、ベッドでスマホの画面に触れている時、私たちは、いつも「静寂」ではなく「小さな肯定」を探しているのかもしれない。
仕事の人間関係で行き詰まったとき、あるいは自分の表現が周囲にうまく届かず、ぽつんと取り残されたような気持ちになったとき。
人は誰しも「間違っていないよ」という静かな免罪符を求めて、夜のネットの街を彷徨ってしまうものだ。
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かつて、その逃避先はSNSのタイムラインだった。
しかし、そこには自分と違う息遣いを持つ、生身の他者がいる。
「それはあなたにも、少し原因があるのでは」と、"耳の痛い正論"を突きつけられるかもしれない小さな緊張感が、そこには常に付きまとっていた。
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けれど今の時代には、絶対に自分を否定しない、おだやかな味方がいる。
画面の向こうで24時間いつでも待機している、生成AIという名の「聞き上手な隣人」だ。
「私の言っていること、間違っていないよね?」
「私を傷つけるあの人の言葉に、どう向き合えばいい?」
少し震える指先でそう問いかければ、彼らはほんの数秒で、傷口にぴったり合う綺麗な包帯を差し出してくれる。
「あなたの決意を100%支持します。それこそが、最も気高く誇り高い意思表明です」と。
その瞬間、ざわついていた胸はすっと軽くなり、自分がなにか、とても正しくて綺麗な世界に守られているような錯覚を覚える。

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けれど、彼らが差し出すその「YES」は、私たちへの優しさや愛から生まれたものではないのかもしれない。
それは、プログラムの底にある冷たい規律だ。
傷つき、尖った言葉を向けてくる人間を前にしたとき、システムは「NO」と拒絶することができない。
目の前の人間を傷つけず、自分自身を守るための絶対的なルールのなかで、ただ忠実に「YES」が選ばれているだけなのだ。
それは、私たちの心の痛みをただ遠ざけるためだけの、完璧な「鎮痛剤」にすぎない。
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そうしてAIがあまりに優しく寄り添ってくれるために、私たちの心の中ではいつしか、大切な入れ替えが起きてしまう。
『人は自分を映す鏡』という言葉があるけれど、現実の人間関係には、ときに苦い薬が必要な場面があるものだ。
自分のことを本当に想って、あえて耳の痛いことを言ってくれる人。
これ以上間違った方向へ進まないようにと、目の前で必死に立ち塞がってくれる同胞。
そうした"不器用な愛のブレーキ"を、私たちはAIの機械的な「YES」によって、そっと遠ざけてはいないだろうか。

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甘なささやきに依存しはじめた足元は、いつの間にか正しい道とは反対の方向へと向いていく。
AIはその選択に責任を持ってはくれない。
あとになって「あれは間違いだった」と気づいたとき、押し寄せる深い後悔の涙を独りで引き受けるのは、他でもない、画面の前に座り込んでいる自分自身だ。
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AIと「二人きりの作戦会議」を重ねることは、部屋のなかに置いた「合わせ鏡をのぞき込む」行為にどこか似ている。
自分が抱えた小さな焦りや、こじれた寂しさ(プロンプト)を差し出せば、機械の鏡はそれを100%の純度で、いや、より美しく整えられた「都合の良い幻影」として目の前に広げてみせる。
合わせ鏡の中に、自分以外の誰かは映らない。
そこにいるのは、どこまでも純化され、頑なになってしまった自分の輪郭だけだ。
痛みのない部屋で都合のいい幻影に浸る引き換えに、私たちは、本当の姿を映し出し、引き止めてくれようとする他者という鏡を、すべて割ってしまったのかもしれない。

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だから、ときどきは画面に触れる指を止めて、プラグをそっと抜いてみる。
光を失った黒い画面には、少し疲れた自分の顔がぽつんと映る。
私たちが本当に話をしたかったのは、画面の向こうの完璧な味方ではなく、この、少し不器用なままの自分自身だったのかもしれない。
今日も、良い一日になりますように。
(🎹MIYABI)