メインコンテンツへスキップ
見出し画像

アン、今日もフラれたな2🍙第4話 アレクサンドロス大王とブケパロス

    困ってる人レーダーが鳴ったのは、風太郎が時空つばめ号を道端へ止め、水筒のふたを開けた時だった。

    ピピッ。

    ハンドルの横にある画面へ、赤い光点がひとつ浮かんだ。

    「人か?」

    風太郎が顔を近づけると、右側のサイドカーで丸くなっていたアンも頭を起こした。

    もう一度。

    ピピッ。

    今度は音声も拾った。

    荒い鼻息。

    ドンッ。

    ドンッ。

    重いものが、何度も地面を蹴っている。

    アンの耳が前へ向いた。

    「馬やな」

    「分かるん?」

    「犬やで。鼻息くらい分かるわ」

    風太郎がもう一度音を聞いた。

    「怒ってる?」

    アンは少し首を傾けた。

    「怒ってるいうより、逃げたい音にも聞こえる」

    風太郎は水筒をしまい、時空座標器へ指を置いた。

    数字が流れる。

    やがて画面が止まった。

    紀元前4世紀
    マケドニア王国

    「また思い切って昔やな」

    アンが画面をのぞき込む。

    「お前の財布、紀元前では完全に紙くずやで」

    「現代でも、そんな偉そうにできるほど入ってへんわ」

    「知ってる」

    「知ってる言うな」

    クロノ・コアが紫色に光った。

    低い振動が足元から上がってくる。

    景色が白くほどけた。

    道も空も、音まで一度遠くなる。



    次の瞬間、乾いた風が顔を打った。

    土の匂い。

    藁の匂い。

    家畜の匂い。

    白い光が引いていくと、目の前いっぱいに大麦畑が広がっていた。

    金色の穂が風に押され、一斉に傾く。

    サラサラ。

    遠くでは羊が鳴き、その向こうを木の荷車が進んでいる。

    風太郎は真鍮ベルを鳴らした。

    チリン。

    アンが横を見る。

    「時空境やな」

    「旅の始まりはこれや」

    風太郎は機嫌よく鼻歌を始めた。

    「走れコウタロー」だった。

    これから始まる 大レース
    ひしめきあって いななくは
    天下のサラブレッド 四才馬
    今日はダービー めでたいな

    ところが二小節もしないうちに、原曲の方が逃げ出した。

    アンの眉間にしわが寄る。

    「コウタローより先に音程が逃げてるで」

    「時代に合わせてんねん」

    「紀元前の人に謝れ」

    風太郎は笑ってペダルを踏んだ。

    その腹が、グウウウウと鳴った。

    アンは前を向いたまま言った。

    「馬より先に腹鳴らすな」

    「朝から何も食うてへんねん」

    「時空移動する前に食べとけ」

    「タイムマシン乗る前の腹ごしらえなんか、旅行雑誌に載ってへんやろ」

    「宙太郎に書かせ」

    大麦畑の間を走っていると、前方で荷車が止まっていた。

    大麦袋と干し草を山ほど積んでいる。

    片方の車輪が、土のくぼみに深くはまっていた。

    一人の青年が肩を荷台へ押しつけている。

    背が高い。

    日に焼けた腕は太く、土を踏む脚にも力があった。

    「手伝うわ!」

    風太郎がブレーキをかけた。

    青年が顔を上げ、何か叫んだ。

    知らない言葉だった。

    なのに意味だけは、そのまま頭へ入ってくる。

    アンが小声で言った。

    「翻訳キット、紀元前でも元気やな」

    風太郎はうなずき、自転車を寄せた。

    「旅人や。話はあと。先にこれ出そ」

    青年は一瞬だけ警戒したが、すぐ荷車の後ろを指した。

    風太郎が横へ並ぶ。

    「せえの!」

    二人で押す。

    車輪が少し浮いた。

    土が靴の下で崩れる。

    「もう一回!」

    青年も歯を見せて笑った。

    「せえの!」

    ガタンッ。

    車輪が穴から抜けた。

    同時に風太郎まで前へ飛んだ。

    ドサッ。

    大麦袋へ顔から突っ込む。

    乾いた穀物の匂いが鼻いっぱいに入ってきた。

    アンがサイドカーから見ていた。

    「大麦に負けたな」

    風太郎が袋から顔を上げる。

    「荷車には勝った!」

    画像

    青年が腹を抱えて笑った。

    「フィロンだ」

    「風太郎」

    アンも身を乗り出す。

    「アンや」

    フィロンの笑いが止まった。

    「犬がしゃべった」

    アンは首を傾げた。

    「そこ?」

    「そこやろ」

    風太郎が突っ込むと、フィロンは二人を交互に見た。

    やがて、また笑った。

    「変な旅人だな」

    「よう言われる」

    「なぜ知らない俺を助けた?」

    風太郎は服についた大麦の殻を払いながら答えた。

    「困ってたからや」

    アンが続ける。

    「あと、この人めっちゃ腹減ってる」

    「余計な情報足すな」

    フィロンは荷車の向きを直した。

    「なら、うちへ来い。働くなら食事くらい出せる」

    風太郎の顔が一気に明るくなる。

    「行く!」

    アンがため息をつく。

    「人情より飯への返事が速い」

    フィロンの家は、大麦畑の向こうにあった。

    王都ペラの近くで大麦や干し草を育て、馬を飼う家や厩へ飼料を届けて暮らしている。

    庭には農具が並び、軒下には大麦袋が積まれていた。

    干し草から、陽に乾かされた青い匂いがする。

    フィロンの父は腰を悪くしていた。

    歩くことはできる。

    けれど大麦袋へ手をかけると、ほんの一瞬だけ眉間にしわが寄った。

    フィロンは何も言わず、その袋を取り上げた。

    「俺がやる」

    「まだ持てる」

    「知ってる。でも俺の方が速い」

    ぶっきらぼうな言い方だった。

    けれど父親が背を向けると、フィロンは袋を二つまとめて担いだ。

    その時、隣の畑から年配の男が手を振った。

    「フィロン! あとでうちの柵も見てくれ!」

    「昨日直しただろ!」

    「反対側が壊れた!」

    フィロンは額を押さえた。

    「またかよ」

    父親が笑う。

    「去年の収穫は、あそこの家をフィロンが三日も手伝ったんだ」

    風太郎が聞いた。

    「自分とこの畑あるのに?」

    「その前の年は、うちが助けてもらった」

    父親は何でもないことのように言った。

    「畑は一軒だけで守れるもんじゃない」

    フィロンが遠くから叫ぶ。

    「父さん、しゃべってないで袋運んで!」

    「腰悪いんちゃうん?」

    風太郎が言うと、父親は笑った。

    「口は元気だ」

    アンがうなずいた。

    「そこは風太郎と一緒やな」

    「誰の口が元気や」

    その日、風太郎も仕事を手伝った。

    大麦袋を運ぶ。

    干し草を束ねる。

    馬へ水をやる。

    飼料箱を掃除する。

    昼前には、風太郎の腕が震えていた。

    その横を、フィロンが大麦袋を二つ担いで通り過ぎる。

    風太郎は目を疑った。

    「それ、二つ持たなあかん?」

    「一度で済む」

    「人生、効率だけで生きたらあかんで」

    フィロンが風太郎の腕を見る。

    「一袋で震えてる人に言われたくない」

    干し草の上でアンが笑った。

    「負け惜しみまで軽なってるで」

    休憩になると、フィロンは大麦を一粒取って口へ入れた。

    カリッ。

    風太郎が聞く。

    「腹減ったん?」

    「違う。乾き具合を見てる」

    フィロンは噛んだ粒を確かめ、畑へ目を向けた。

    「こっちは、あと二日だな」

    「何が?」

    「刈るのが」

    風太郎も一粒つまもうとした。

    ペシッ。

    手を叩かれた。

    「痛っ。なんでや!」

    「まだ触るな」

    「お前は触ってるやん」

    「俺は分かるから」

    アンが鼻を鳴らした。

    「大麦だけ急に偉そうやな」

    フィロンは笑わなかった。

    干し草を一本取り、匂いを嗅ぎ、指で折る。

    「馬が食うものだからな。湿りすぎたら腹を壊す。古すぎても食べない。食い方も一頭ずつ違う」

    風太郎は少し感心した。

    「大麦好きすぎるやろ」

    「好きだよ」

    アンがしっぽを振る。

    「大麦バカやな」

    フィロンが真顔でアンを見る。

    「それは悪口か?」

    風太郎も少し考えた。

    「たぶん褒めてる」

    「たぶんなんや」

    午後。

    近所の若者たちが畑へやってきた。

    休憩のついでに、木の棒を的へ投げる遊びが始まる。

    フィロンの番になった。

    軽く腕を振る。

    ヒュッ。

    棒は的の真ん中へ刺さった。

    「うまっ」

    二投目も真ん中。

    走れば速い。

    組み合えば、自分より大きな男でも一瞬で地面へ転がす。

    ドサッ。

    けれど相手が倒れると、フィロンは勝ち誇るより先に手を差し出した。

    「大丈夫か?」

    倒された若者が笑って、その手をつかむ。

    「やっぱりフィロンは軍へ行ったら出世するぞ」

    別の若者も笑った。

    「敵を何人倒すかな」

    「十人はいける」

    「二十人だろ」

    誰も悪意で言っていなかった。

    皆、本気でフィロンを褒めていた。

    フィロンも口元だけは笑っている。

    けれどアンは見ていた。

    「敵を倒す」という言葉が出るたび、フィロンの指が土をつまんでいた。

    一度。

    また一度。

    風太郎は気づかなかった。

    「確かに強いもんな。軍人向きや」

    フィロンは立ち上がった。

    「そう言われるよ」

    声だけが、少し遠かった。



    その夜。

    フィロンの家では旅人を迎える食卓が用意された。

    焼いた肉から脂が落ちる。

    ジュッ。

    煙と一緒に香ばしい匂いが広がった。

    平たいパン。

    大麦の粥。

    豆の煮込み。

    白いチーズ。

    果物。

    蜂蜜。

    風太郎が肉を一口食べる。

    塩気と脂の甘さが舌に広がった。

    「うまっ」

    その瞬間、フィロンの母がもう一切れ皿へ載せた。

    「いや、まだありますから」

    さらに載る。

    「ほんまにまだあります」

    また載る。

    アンが皿を見る。

    「断るたび増えてるで」

    「気づいてる」

    母親はニコニコしている。

    風太郎は観念して食べた。

    昨日まで名前も知らなかった人の家だった。

    それでも同じ火を囲み、同じ湯気の匂いを吸っていると、旅先という感じが薄れていく。

    食事の途中、父親が言った。

    「フィロンも、もうすぐ軍へ出る」

    風太郎は顔を上げた。

    父親は誇らしそうだった。

    「あれだけ強ければ心配ない。王国の役に立つ」

    フィロンは粥を見ている。

    「畑がある」

    「皆、同じだ」

    「父さんの腰も悪い」

    「それでも皆、行く」

    画像

    フィロンの手が止まった。

    父親は責めるようには言わなかった。

    だからこそ重かった。

    皆が行く。

    皆が耐える。

    皆が役目を果たす。

    「お前ほど強い男が行かなくてどうする」

    フィロンは何も言わず、食卓を離れた。

    外へ出る背中を、アンがじっと見送る。

    風太郎が立ちかけた。

    アンが前脚を上げる。

    「今は追いかけん方がええんちゃう」

    「なんで?」

    「まだ自分でも、何が嫌なんか言葉になってへん顔してる」

    風太郎は腰を戻した。

    「分かるん?」

    アンは鼻を鳴らす。

    「十三年も人間見てんねんで」



    翌朝。

    フィロンは何事もなかったように荷車へ大麦を積んだ。

    風太郎とアンも一緒に王都ペラへ向かう。

    道沿いの畑では、年配の男や女性が鍬を振っていた。

    大きな畑なのに、若い男が一人も見えない場所もある。

    代わりに、道の向こうから荷物を背負った若者たちが何人も歩いてきた。

    槍を持つ者もいる。

    家族らしい人が、道端で見送っていた。

    風太郎が少し速度を落とす。

    「若い人、みんな同じ方行ってるな」

    フィロンは前を向いたまま答えた。

    「軍へ行くんだ。今年は近くの畑からも何人も出る」

    その横を、老人が一人で小さな荷車を押していた。

    フィロンは黙って荷車を見送った。

    王都へ近づくにつれ、町の音が増えた。

    金属を叩く音。

    商人の呼び声。

    蹄。

    子どもの声。

    焼いたパンの匂い。

    風太郎が左右を見回す。

    「古代って、もっと静かやと思ってたわ」

    アンが呆れる。

    「お前、遺跡と生きてる町ごっちゃにしてるやろ」

    やがて大きな歓声が聞こえてきた。

    広い馬場を、二頭立ての戦車が土煙を上げて走っている。

    ドドドドッ。

    車輪が跳ね、観客が身を乗り出す。

    その中に、一人だけ妙な少年がいた。

    誰より真剣な顔で、馬の脚ばかり見ている。

    「三番」

    少年がつぶやいた。

    風太郎が横を見る。

    「何が?」

    「三番が勝つ」

    「なんで?」

    「後半の脚が違う」

    少年は腰の袋から硬貨を取り出した。

    かなりの量だった。

    「それ全部賭けんの?」

    「勝つから問題ない」

    アンが即座に言う。

    「それ、負ける人が一番言うやつやで」

    少年がアンを見る。

    「犬に賭博を説教された」

    「犬でも分かる」

    フィロンも三番の馬を見た。

    少年が脚を見ているのに対し、フィロンは腹と口元を見ていた。

    「三番は最後までもたない」

    少年が振り返る。

    「なぜだ」

    「朝、大麦を残した馬だろ」

    少年の目が少し大きくなる。

    「それだけで?」

    フィロンは眉を寄せた。

    「それが分からないなら、馬に金を賭けるな」

    競走が始まった。

    三番は速かった。

    途中まで先頭。

    少年の口元が上がる。

    ところが最後の直線。

    三番の脚が鈍った。

    別の馬に抜かれる。

    少年の笑みが消えた。

    フィロンが小さく言う。

    「だから言った」

    少年は少し黙ったあと、すぐ次の競走を見た。

    「次は勝つ」

    風太郎が叫ぶ。

    「まだやるんかい!」

    そこへ、身なりの整った男が人混みをかき分けてきた。

    「殿下!」

    少年の顔が一瞬でまずくなった。

    「何だ」

    「また王家のお金を競走に使われたのですか!」

    少年は周囲を見た。

    逃げ道を探す。

    次の瞬間。

    サッ。

    時空つばめ号の後ろへ隠れた。

    「ちょっと待て!」

    風太郎が振り返る。

    「俺まで共犯にすんな!」

    「少し黙っていてくれ」

    「王子が未来の自転車を盾にすな!」

    画像

    使いの男が頭を抱えた。

    「父王は、次に王家のお金を賭け事へ使えば、本当に宮から追い出すと」

    少年は時空つばめ号の陰から顔だけ出した。

    「増やして返すつもりだった」

    「ギャンブラーの一番あかん台詞や!」

    フィロンはさらに冷たかった。

    「その金で大麦が何袋買えたと思ってる」

    アンが二人を見る。

    「怒る場所が違う」

    そこへ馬の蹄が近づいた。

    少年の顔色が、使いの男が来た時より悪くなった。

    一頭の馬に乗った若い女性が近づいてくる。

    「アレク?」

    少年は時空つばめ号の後ろへ完全に隠れた。

    風太郎が振り返る。

    「知り合い?」

    「今は知らない人だ」

    「無理あるやろ」

    女性が馬を止めた。

    「そこにいるのは分かっています」

    アンが感心した。

    「王宮より怖い人来たな」

    その直後だった。

    近くを走った戦車の車輪が、小石を跳ね上げた。

    ガンッ。

    女性の馬が驚き、大きく身をよじった。

    女性の体が馬上で傾く。

    「危ない!」

    風太郎が走った。

    しかし女性は、崩れかけたまま手綱を引いた。

    馬の首を横へ向け、低い声で呼びかける。

    「大丈夫。止まって」

    馬の脚が乱れた。

    女性は体を立て直そうと踏ん張る。

    馬は数歩進んだところで止まった。

    その瞬間、女性の体だけが横へ滑りかけた。

    風太郎が腕と背中を支えた。

    二人の靴が土を削る。

    女性は地面へ落ちず、自分の足で立った。

    風太郎が息を吐く。

    「大丈夫ですか?」

    女性はまず風太郎ではなく馬へ近づいた。

    鼻先へ手を置く。

    脚を見る。

    呼吸を確かめる。

    それからようやく振り返った。

    「大丈夫です」

    「よかった」

    女性は服についた土を払った。

    「でも、馬は私が止めました」

    「はい?」

    「あなたは、私が落ちるのを支えただけです」

    アンが近づいてくる。

    「そこ、ちゃんと分けるんや」

    女性の頬が少し赤くなった。

    「大事です」

    風太郎は笑った。

    「ほな、半分ずつですね」

    「何がです?」

    「助かったん」

    女性は一瞬黙った。

    「そういうことにしておきます」

    アンが小声で言う。

    「ツン強めやな」

    「聞こえています」

    女性は馬の首筋を撫でた。

    さっきまでの強い声とは違い、ずっと柔らかい。

    「びっくりしたのね」

    風太郎はその横顔を見ていた。

    「馬、好きなんですか?」

    「好きですよ」

    女性は馬の鼻先を撫でる。

    「でも、好きだから人間の言うことを聞かせたいわけではありません」

    遠くの町へ目を向けた。

    「いつか、動物と人間がもっと仲良く暮らせる王国を作りたいんです」

    風太郎の顔が少し変わった。

    女性と目が合う。

    すると、彼女は急に顔をそらした。

    「別に、旅人へ夢を聞かせたかったわけではありません」

    アンが鼻を鳴らす。

    「夢までツンデレや」

    「何ですか、その言葉は」

    「未来の誉め言葉や」

    風太郎が慌てた。

    「たぶん違います」

    女性は少しだけ笑った。

    「カリステです」

    「風太郎です」

    アンも胸を張る。

    「アンや」

    カリステはもう一度馬へまたがった。

    走り去る後ろ姿を、風太郎はいつまでも見ている。

    アンが横からのぞき込む。

    「好きになった?」

    「なってへん」

    「早いなあ」

    「何が」

    「否定が」

    その日の昼。

    風太郎たちが飼料を届けていると、カリステの周囲へ数人の人が集まってきた。

    皆、頭を下げている。

    風太郎だけが普通に立っていた。

    アンが前脚で靴を叩く。

    「なあ」

    「何?」

    「お前だけ立ってるで」

    近くの男が青い顔で小声を飛ばした。

    「姫君に頭を下げろ」

    風太郎の首がゆっくりカリステへ向いた。

    「姫さん?」

    カリステは少し気まずそうに目をそらした。

    「言う必要がありませんでしたから」

    風太郎が慌てて頭を下げた。

    「昨日はえらい普通に」

    「今も普通で構いません」

    「ほな助かります」

    すぐ頭を上げる。

    アンが呆れた。

    「切り替え早っ」

    カリステのそばでは、王族の女性たちが楽しそうに話していた。

    「婚姻が決まればおめでたいことですね」

    「きっと素晴らしい妃になられます」

    誰も悪気はない。

    本当に祝っている。

    カリステも笑っている。

    ただ、その指だけが馬のたてがみを何度もなぞっていた。

    人々が去ると、カリステは長く息を吐いた。

    アンがそばへ行く。

    「疲れた?」

    「別に」

    「顔は疲れてるで」

    カリステは少し黙った。

    「皆、喜んでくれています」

    「うん」

    「だから、嫌だと言えば、私だけがおかしいみたいでしょう」

    アンはカリステの横へ座った。

    「嫌なん?」

    「分かりません」

    今までのカリステより、小さな声だった。

    「相手が嫌なのか。結婚が嫌なのか。それとも、勝手に決められたことが嫌なのか。自分でもまだ」

    アンはしばらく黙っていた。

    風が馬のたてがみを揺らす。

    「うちな」

    カリステがアンを見る。

    「一回、旅やめるって自分で決めたことあるねん」

    「それなのに、今は旅を?」

    「今のうちは、また走りたかった」

    アンは少し胸を張った。

    「自分で決めるいうんは、一回決めたら一生変えたらあかんってことちゃうで」

    カリステの指が止まる。

    「決め直してもいい?」

    「自分の人生やろ」

    画像

    カリステは馬の鼻を撫でた。

    「変な犬ですね」

    アンがしっぽを振る。

    「そこは知ってる」

    翌日。

    厩へ飼料を届けると、朝から大勢の人が集まっていた。

    中心に一頭の大きな馬がいる。

    テッサリアから連れてこられた、名のある血筋の馬だという。

    ブケパロス。

    人が近づくたび、前脚を高く上げて土を蹴った。

    ドンッ。

    鼻息が荒い。

    「誰も乗れん」

    「危険な馬だ」

    「使いものにならん」

    そんな声が飛び交う。

    人垣の向こうから、聞き覚えのある声がした。

    「いい馬だ」

    アレクだった。

    昨日、王家の金を競馬へつぎ込んで怒られていた少年王子が、今度は目を輝かせている。

    風太郎が呆れた。

    「昨日の反省、どこ置いてきた?」

    アレクは聞いていない。

    ブケパロスの脚。

    首。

    胸。

    呼吸。

    夢中で見ている。

    「速い。まだ本気で走っていない」

    「また賭ける気ちゃうやろな」

    「違う。探していたんだ」

    アレクが初めて風太郎を見た。

    「強い馬を」

    「何のために?」

    「馬だけで世界を統一するためだ」

    風太郎は黙った。

    アンも黙った。

    フィロンまで手を止めた。

    最初に口を開いたのはアンだった。

    「昨日より話でかなってるで」

    アレクは本気だった。

    「人間はすぐ嘘をつく。王族はもっと分からない。だが馬は分かりやすい」

    風太郎が笑う。

    「王族のお前が言うん?」

    アレクは少し嫌そうな顔をした。

    「婚姻、同盟、名誉、家のため。大人は簡単なことを遠回しに言う」

    アンがうなずく。

    「王族の言葉は分からんけど、馬の言葉は分かる王子か」

    「その通りだ」

    フィロンは餌桶を確認していた。

    「それより、この馬、朝からほとんど食べてない」

    アレクが振り返る。

    「また大麦か」

    「またじゃない。大事なんだ」

    その時、ブケパロスが大きくいなないた。

    周囲には、ただの馬の声にしか聞こえない。

    けれどアンと風太郎、そしてアレクには、はっきり意味が届いた。

    「触るな、二本脚!」

    アンの耳が立つ。

    「感じ悪い馬やな」

    ブケパロスがアンを見る。

    「犬に言われたくない」

    「初対面でケンカ売ったな?」

    「事実を言っただけだ」

    アンの目が細くなる。

    「もっと感じ悪いわ」

    風太郎が笑っていると、ブケパロスが急に地面を見て飛び退いた。

    ドンッ。

    「あれを何とかしろ!」

    アンが周囲を見る。

    「あれって?」

    「黒いやつだ!」

    「どこ?」

    「足元!」

    ブケパロスが一歩動く。

    影も動く。

    馬がまた跳ねた。

    アンは足元を見た。

    けれど何も言わなかった。

    横を見る。

    アレクがブケパロスを観察している。

    アンは口を閉じた。

    アレクが一歩近づく。

    「何から逃げている?」

    「逃げていない」

    「では、なぜ下がる」

    ブケパロスの耳が動いた。

    しばらく黙っていたが、やがて低い声を出した。

    「黒いやつが追ってくる」

    「どこにいる?」

    「下だ」

    「いつから?」

    「知らん。俺が動けば動く。走れば走る。しつこい」

    アレクの視線が地面へ落ちる。

    ブケパロスが動く。

    影も動く。

    太陽を見る。

    もう一度、地面を見る。

    アレクの口元が上がった。

    「影だ」

    ブケパロスの耳が立つ。

    「カゲ?」

    アレクはブケパロスを太陽の方へ向けた。

    「前を見ろ」

    さっきまで前へ伸びていた黒いものが消えた。

    「いない」

    「後ろだ」

    「なぜだ」

    「お前が作っているからだ」

    しばらくブケパロスは動かなかった。

    画像

    アンが聞いた。

    「怖かったん?」

    ブケパロスはすぐ胸を張った。

    「怖くない」

    その瞬間、横から別の馬の影が動いた。

    ブケパロスが飛び上がる。

    「ウワッ!」

    アンが即座に言う。

    「怖いやん」

    「今のは驚いただけだ!」

    「一緒や」

    「違う!」

    アレクが笑った。

    ブケパロスの顔が向く。

    「何を笑っている、ちび」

    アレクの眉が跳ねる。

    「誰がちびだ」

    「お前だ」

    「私はアレクサンドロスだ」

    ブケパロスは少し考えた。

    「長い」

    風太郎が腹を抱える。

    「ほら、馬も言うてる!」

    アレクがにらむ。

    「風太郎は黙っていろ」

    アレクがブケパロスへ手を伸ばした。

    馬がすぐ顔を向ける。

    「待て」

    アレクの手が止まる。

    「何だ」

    「誰がお前を乗せると言った」

    アレクは少し考え、手を下ろした。

    「嫌なら乗らない」

    ブケパロスが初めて少年をじっと見た。

    「さっきの連中は、俺を押さえつけようとした」

    「ああ」

    「お前は聞いた」

    少し間が空いた。

    ブケパロスが首を下げる。

    「乗れ」

    アレクの顔が一気に少年へ戻った。

    「言われなくても」

    ブケパロスが鼻を鳴らす。

    「調子に乗るな、ちび」

    「ちびと言うな!」

    アレクが背へ乗った。

    ブケパロスが走る。

    ドドドドッ。

    土が跳ねた。

    一周。

    二周。

    影はまだ地面を走っている。

    それでもブケパロスは前を向いていた。

    戻ってきた馬が誇らしげに鼻を鳴らす。

    「どうだ」

    アレクも興奮している。

    「速い」

    「それだけか」

    「かなり速い」

    「もっと言え」

    アンが呆れる。

    「褒め待ちする馬、初めて見たわ」

    フィロンは笑わなかった。

    ブケパロスの汗と餌桶を交互に見る。

    「今日はもう長く走らせるな」

    アレクが聞いた。

    「なぜ?」

    「食べてないからだ。強い馬でも、腹が空いていれば走れない」

    ブケパロスがフィロンを見る。

    「こいつは何者だ」

    アンが答える。

    「大麦バカ」

    「なるほど」

    フィロンには、ただのいななきにしか聞こえていない。

    「今、何て言った?」

    アンは少し考えた。

    「めちゃくちゃ褒めてる」

    「本当か?」

    「たぶん」

    フィロンが大麦を手のひらへ載せた。

    ブケパロスは匂いを確かめ、一口で食べた。

    「悪くない」

    アンが笑う。

    「今度はほんまに褒めたで」

    フィロンの口元が、わずかに緩んだ。



    その日の夕方。

    フィロンの家へ戻る途中、軍役へ向かう若者たちと出会った。

    昼に一緒に棒を投げた仲間だった。

    一人がフィロンの肩を叩く。

    「もうすぐだな」

    別の若者も笑う。

    「フィロンなら一番強い兵士になる」

    「敵がかわいそうだ」

    皆が笑った。

    フィロンも笑おうとした。

    けれど、笑えなかった。

    一人が冗談めかして言った。

    「まさか怖くなったんじゃないだろうな」

    フィロンは答えない。

    別の男が、悪気なく笑った。

    「あんなに強いのに臆病だったりしてな」

    風太郎の顔が変わった。

    「今なんて言うた?」

    アンが振り返る。

    若者も驚く。

    「冗談だよ」

    「冗談でも言うたらあかんことあるやろ」

    「俺たちは皆、軍へ行くんだ。フィロンだけ特別じゃない」

    風太郎の声が低くなる。

    「強いから人殺せるて、誰が決めたんじゃ」

    周囲が静まった。

    「走るん速い。槍投げうまい。それで人殺すん平気やて、なんで勝手に決めつけんねん」

    若者の顔から笑いが消えた。

    「お前に何が分かる」

    「分からんから言うてんねん!」

    風太郎が一歩出る。

    「分からんのに、臆病者やら何やら決めんな言うてんじゃ!」

    空気が張りつめた。

    フィロンが止める。

    「もういい」

    けれど風太郎は収まらない。

    その足元へアンが入った。

    「風太郎」

    大きな声ではなかった。

    それでも風太郎が止まる。

    アンはまっすぐ見上げた。

    「フィロンの味方すんのと、周り全部敵に回すんは別やで」

    「でも」

    「今、お前も勝手に決めてる」

    風太郎の眉が動く。

    「この人らがフィロンを傷つけたいって、聞いたん?」

    風太郎は若者たちを見る。

    誰も笑っていなかった。

    一人が気まずそうに視線を落とす。

    「俺たちも怖いよ」

    画像

    小さな声だった。

    「だから、強いフィロンが一緒なら安心だと思ってた」

    別の若者もうなずく。

    「臆病者ってのは悪かった」

    風太郎の肩から力が抜ける。

    アンが鼻を鳴らした。

    「ほら。まず聞かな」

    風太郎は頭をかいた。

    「すまん」

    フィロンが少し離れたところで全員を見ていた。

    「俺も話してなかった」

    その夜。

    フィロンは家の裏の畑へ出た。

    月明かりの下で、大麦の穂が揺れている。

    風太郎とアンも少し遅れて外へ出た。

    誰もすぐには話さなかった。

    サラサラ。

    穂が擦れる音だけが続く。

    フィロンは一粒の大麦を取り、指の上で転がした。

    「俺、戦うのが怖いんじゃないと思う」

    風太郎は黙って聞いた。

    「走るのは好きだ。競うのも好きだ。投げるのも、組み合うのも好きだ。勝ったらうれしい」

    フィロンは自分の大きな手を見る。

    「でも、人を殴れない」

    拳を作る。

    すぐ開く。

    「倒れた相手を見たら起こしたくなる。血が出たら止めたくなる」

    月明かりが掌へ落ちていた。

    「こんな手で人を殺せって言われても、俺にはできない」

    アンがフィロンの横へ座る。

    「それ、弱いん?」

    フィロンが見る。

    「うちにはよう分からん」

    「犬だから?」

    「ちゃうわ」

    アンは少し笑った。

    「人殴れんかったら弱いって、誰が決めたんかな思て」

    フィロンは大麦を見た。

    「父も、村の人も悪くない。みんな国を守らないといけないと思ってる。俺だって分かってる」

    風太郎が静かに聞いた。

    「ほんまは何したい?」

    フィロンはすぐ答えなかった。

    大麦畑へ歩いていく。

    穂を一つ、そっと手に取った。

    「畑が好きなんだ」

    「大麦も?」

    フィロンの口元が緩む。

    「もっと好きだ」

    アンが顔を上げる。

    「畑より上なん?」

    フィロンは、何を変なことを聞くんだという顔をした。

    「畑が好きなのは、ここで大麦が育つからだよ」

    穂を指先で撫でる。

    「種をまいて、水をやって、雨が降らなければ心配して。やっと穂が出る。それを刈って、粉にして、パンを焼く」

    少しずつ声に熱が入る。

    「腹を空かせてる子どもが、それを食べる」

    風太郎が聞く。

    「この辺の子ども?」

    フィロンは首を横へ振った。

    「もっと遠く」

    「どこまで?」

    フィロンは畑の向こうを見た。

    「世界中」

    風太郎もアンも黙った。

    「世界中の子どもたちに、パンを食べさせられるくらい大きな大麦畑を作りたい」

    少し照れたように笑う。

    画像



    「馬にも食わせるけど」

    アンのしっぽが動いた。

    「そこは絶対入るんやな」

    「大事だからな」

    翌朝。

    畑へ近所の農家たちが集まってきた。

    昨日、風太郎と揉めた若者もいる。

    フィロンが驚いた。

    「何だよ」

    年上の農夫が畑を見る。

    「お前が軍へ行ってる間、収穫はうちが手伝う」

    別の男が言う。

    「飼料運びは交代だ」

    フィロンが父を見る。

    父親は少し気まずそうに鼻をこすった。

    「昨夜、話した」

    フィロンは困った顔になった。

    「でも、みんな自分の畑があるだろ」

    年配の男が笑う。

    「去年、うちの収穫を手伝ったの誰だ」

    別の農夫も言う。

    「その前は、うちの荷車直しただろ」

    「それは」

    「返すだけだ」

    フィロンが黙った。

    すると別の男が畑を指した。

    「うちが先に刈る」

    すぐ反論が飛ぶ。

    「お前んとこ去年、刈るの遅かっただろ」

    「誰が遅い!」

    「大麦に聞け」

    「大麦がしゃべるか!」

    アンが横から言った。

    「助けに来た人らが、もう揉めてるで」

    フィロンは頭を抱える。

    「本当に任せて大丈夫なのか」

    アンが振り返った。

    「助けてもらう側が一番信用してへんやん」

    笑いが広がった。

    フィロンの父も笑っている。

    フィロンだけは、まだ畑を心配そうに見た。

    それでも昨日までとは顔が違った。

    風太郎が横へ立つ。

    「全部解決はせえへんな」

    「軍へ行くのは変わらない」

    「人殺せるようにもならへん」

    フィロンはうなずいた。

    「でも、帰ってくる場所は残る」

    その日の昼すぎ。

    風太郎はカリステを見つけた。

    馬へ水を飲ませている。

    周囲に王族の人間はいない。

    風太郎は髪を手で整えた。

    少し離れたところでアンが見ている。

    「何してんねん」

    「別に」

    「髪三回触ったで」

    「風強いねん」

    「無風や」

    風太郎は聞こえないふりをして、カリステへ近づいた。

    「カリステさん」

    「何ですか」

    「もし、また会えたら」

    カリステが振り返る。

    風太郎は少し照れた。

    「二人で町でも歩きません?」

    カリステの頬がわずかに赤くなる。

    風太郎の顔が明るくなった。

    「無理です」

    その顔が、そのまま固まった。

    「即答?」

    「婚約者がいますから」

    風太郎の肩が落ちる。

    「そうなんや」

    少し間を置いた。

    未練が勝った。

    「ちなみに誰です?」

    カリステは少し離れた場所を指した。

    アレクがブケパロスの脚を眺めている。

    風太郎の首が、ゆっくり回る。

    「アレク?」

    少年が顔を上げる。

    「何だ?」

    「お前なん?」

    「何が」

    カリステが答えた。

    「私の婚約相手です」

    風太郎はアレクを見る。

    アレクも風太郎を見る。

    「なんでやねん!」

    「なぜ私が怒られる!」

    アンが走ってきた。

    「紀元前まで来て、大王予定にフラれたな」

    「まだ大王ちゃう!」

    「そこしか勝てるとこないん?」

    ブケパロスがアレクを見る。

    「何の話だ」

    アンが答える。

    「風太郎が失恋した」

    ブケパロスは鼻を鳴らした。

    「弱いな」

    「馬にまで言われた!」

    カリステが口元を押さえて笑った。

    風太郎がそれを見る。

    少し期待する。

    カリステはすぐ真顔へ戻った。

    「勘違いしないでください」

    「何も言うてへんやん」

    「顔に出ています」

    「みんな顔読むのうますぎへん?」

    失恋騒ぎが落ち着いたあと、カリステはアレクを呼び止めた。

    風太郎とアンは少し離れたところにいた。

    カリステが先に口を開く。

    「婚姻の話です」

    アレクはブケパロスから目を離した。

    「嫌なのか?」

    カリステの眉が動いた。

    「ほら、それです」

    「何が?」

    「勝手に答えを決めるところです」

    アレクは黙った。

    「私は、あなたが嫌だとは言っていません」

    「では好きなのか?」

    「どうして二択になるんですか!」

    少し離れたところでアンが小声で言う。

    「馬は読めるのに女心は壊滅やな」

    風太郎もうなずいた。

    「そこは俺も勝てる」

    アンが横を見る。

    「お前、負けた直後やで」

    カリステは息を整えた。

    「たとえ婚姻を受けることになっても、私がやりたいことまで捨てるつもりはありません」

    アレクの顔から、少しだけ自信が消えた。

    「誰かに決められた場所へ、黙って置かれるだけの人生は嫌です。あなたの隣に立つとしても、自分で選んで立ちます」

    アレクは黙って聞いていた。

    アンが近づく。

    「アレク」

    「何だ」

    「ブケパロスには聞いたやろ」

    アレクが見る。

    「何が怖いん。何から逃げてんって」

    「ああ」

    アンはカリステを見る。

    それから少し離れた畑にいるフィロンを見る。

    「人には聞かへんの?」

    アレクはしばらく黙った。

    やがてカリステを見る。

    「では聞く」

    カリステもまっすぐ見返した。

    「君は、どうしたい?」

    画像

    カリステの表情が、ほんの少しだけ柔らかくなる。

    でもすぐ胸を張った。

    「今さらです」

    「今さらだ」

    「答えは急ぎません」

    「なぜ?」

    「私がいつ答えるかも、私が決めます」

    アレクは少し不満そうだった。

    それでも、

    「分かった」

    と答えた。

    ブケパロスがいなないた。

    「人間は面倒だな」

    アンが笑う。

    「お前もだいぶ面倒やで」

    出発の前日。

    フィロンの家では、大きな鍋で大麦を柔らかく煮ていた。

    風太郎がそれを見て、ふと思い出したように手を打った。

    「これ、おにぎりにできへんかな」

    フィロンが首を傾げる。

    「オニギリ?」

    カリステも聞き返した。

    「何ですか、それは」

    アンが干し草の上から顔を上げる。

    「出た。風太郎の食文化輸出」

    風太郎は気にせず、両手を丸めて見せた。

    「日本ではな、旅立つ人に米を握って持たせたりするんです。中に具入れたり、塩つけたりして」

    フィロンが鍋を見る。

    「米はない」

    「せやから、大麦でやってみよ」

    カリステが少し疑わしそうに鍋を見た。

    「握れば食べ物になるんですか?」

    「その言い方やと、だいたいの料理が不安になるな」

    柔らかく煮た大麦を少し冷ます。

    風太郎が手を濡らして、一つ取った。

    「こうして」

    ぎゅっ。

    形を整える。

    三角にしようとして、崩れた。

    アンが見ていた。

    「先生、失敗してるで」

    「大麦は米とちゃうねん!」

    フィロンが横から大麦を取った。

    大きな手で握る。

    ギュウッ。

    固い塊ができた。

    風太郎が目を見開く。

    「握りすぎ! 武器になってる!」

    アンが鼻を近づける。

    「投げたら敵倒せそうやな」

    フィロンの手が止まった。

    三人も一瞬止まった。

    それからフィロンが笑った。

    「これは人に投げない」

    画像

    風太郎も笑った。

    「それがええ」

    カリステは少量の白いチーズを中へ入れ、今度は力を入れすぎないよう慎重にまとめた。

    丸く、小さな大麦のおにぎりができた。

    風太郎が感心する。

    「うまいやん」

    カリステは少し得意そうだった。

    「これくらいできます」

    アンがすぐ言う。

    「褒められたら素直に喜んだらええのに」

    「喜んでいません」

    「口元」

    カリステは慌てて口元を引き締めた。

    フィロンが一つ食べる。

    大麦の香り。

    少し酸味のある白いチーズ。

    塩気。

    噛むと、穀物の粒が歯に残る。

    「悪くない」

    風太郎は笑った。

    「旅の途中で食うたら、もっと美味いで」

    フィロンが聞く。

    「なぜ?」

    風太郎は少し考えた。

    「家から離れたところで食うからかな」

    アンが続ける。

    「持ち歩ける故郷みたいなもんや」

    カリステは手の中の小さなおにぎりを見た。

    「なら、たくさん作りましょう」

    風太郎がうれしそうに笑う。

    「俺のために?」

    「アンのためです」

    風太郎の笑顔が止まる。

    アンがしっぽを振った。

    「またフラれた?」

    「まだその話ちゃう!」

    出発の朝。

    フィロンの母とフィロン、それにカリステが、大麦のおにぎりを布へ包んでくれた。

    形は丸かったり、平たかったり、大きさもバラバラだった。

    アンが一つずつ見る。

    「めっちゃ個性あるな」

    フィロンが言う。

    「同じ大麦でも、全部同じ形にする必要はないだろ」

    風太郎はその言葉に少し笑った。

    「せやな」

    時空つばめ号のそばで、風太郎は色紙を取り出した。

    目の前には大麦畑。

    フィロンが一粒の大麦を噛んでいる。

    カリステは馬の鼻を撫でている。

    少し離れたところでは、アレクとブケパロスがまた何か言い合っていた。

    風太郎は筆を動かした。

    大麦の
    穂先そろわず
    風に立つ
    影を連れても
    蹄は前へ

    左下に赤い字で、

    フータロー

    アンが色紙をのぞき込む。

    「珍しく、ちゃんと詩やな」

    「珍しく言うな」

    「字は相変わらず暴れてるけど」

    「そこは味や」

    「その味、毎回言うな」

    フィロンが近づいてきた。

    手には大麦の種を握っている。

    「これ、持っていけ」

    風太郎が掌を出す。

    小さな粒がパラパラと落ちた。

    「未来でも育つか試してくれ」

    風太郎は種を見る。

    「世界中の子どものパン用?」

    フィロンは少し照れた。

    「まずは一粒からだ」

    アンが言う。

    「大麦バカ、未来進出やな」

    フィロンは笑った。

    今度は、悪口かどうか聞かなかった。

    カリステも見送りに来た。

    「風太郎」

    名前を呼ばれ、風太郎の背筋が伸びる。

    「はい!」

    「助けてもらったことは忘れません」

    風太郎の顔が明るくなる。

    カリステはすぐ続けた。

    「勘違いしないでください」

    風太郎の肩が落ちる。

    アンが笑う。

    「ツンで始まってツンで終わったな」

    「アン!」

    少し離れたところで、アレクがブケパロスへまたがっていた。

    風太郎が声を張る。

    「アレク!」

    「何だ!」

    「もう王家の金で賭けんなよ!」

    アレクは堂々と答えた。

    「次は自分の金でやる」

    「そこちゃう!」

    フィロンも叫ぶ。

    「その金で大麦買え!」

    「なぜ全員、大麦を買わせたがる!」

    ブケパロスが鼻を鳴らす。

    「俺は大麦でも構わん」

    フィロンには、ただのいななきにしか聞こえていない。

    「今、何て?」

    アンが訳した。

    「大麦、もっと食わせろ言うてる」

    フィロンの顔が一気に明るくなる。

    アレクがアンを見る。

    「少し意味が違う」

    ブケパロスも言う。

    「勝手に盛るな」

    アンはしっぽを振った。

    「本人喜んでるからええやん」

    ブケパロスが今度は少し低い声で言った。

    「アン」

    初めて犬ではなく、名前で呼んだ。

    アンの耳が動く。

    「なんや」

    ブケパロスはアレクを一度見た。

    「俺は、こいつを世界の王にする」

    カリステとフィロンには、力強いいななきにしか聞こえない。

    二人が首を傾げる。

    アンが伝えた。

    「アレクを世界の王に育てる言うてる」

    アレクが驚いた。

    「私を?」

    ブケパロスは胸を張る。

    「馬を見る目だけはある」

    「だけ?」

    「金を見る目はない」

    風太郎が吹き出した。

    「そこは全員一致や」

    「人を見る目も、まだ足りん」

    アレクはむっとする。

    「お前に育てられる覚えはない」

    「なら、まず賭博をやめろ」

    アンが笑った。

    「世界の王への第一歩、賭博やめるとこからやて」

    カリステも口元を緩めた。

    「それは賛成です」

    アレクだけが納得していなかった。

    風太郎が時空つばめ号へまたがろうとすると、アレクが呼び止めた。

    「風太郎」

    「なんや?」

    アレクは少し言いにくそうにブケパロスのたてがみを撫でた。

    「お前は、馬を見る目はない」

    風太郎の眉が上がる。

    「別れ際にケンカ売ってんの?」

    「最後まで聞け」

    アレクは風太郎を見た。

    「だが、人を見る目は少しある」

    風太郎が黙った。

    アレクはすぐ付け足す。

    「怒り方は下手だが」

    「褒めるん下手すぎるやろ!」

    アレクの口元が少し上がった。

    「次に来たら競走を見せてやる」

    「賭けへんで」

    「賭けなくてもいい」

    風太郎が少し驚いた。

    「成長したやん」

    「王子だからな」

    アンが横から言う。

    「昨日まで王家の金隠してたけどな」

    アレクが目をそらす。

    風太郎は笑った。

    「ほな、またな。アレク」

    今度はアレクも、

    「またな、風太郎」

    と返した。

    ブケパロスの足元には、朝の長い影が伸びていた。

    アンがそこを見る。

    「まだ影おるな」

    ブケパロスも見た。

    「ああ」

    「怖い?」

    少し前なら、すぐ否定したはずだった。

    ブケパロスはしばらく黙る。

    「少しな」

    アンは笑った。

    「それでええやん」

    ブケパロスが前を向く。

    「怖いから走らないとは言っていない」

    アレクが手綱を整えた。

    「行くか」

    ブケパロスは鼻を鳴らす。

    「後ろはお前に任せる」

    「何?」

    「俺は前を見る」

    画像

    アレクの顔に笑みが広がった。

    「任せろ」

    ブケパロスが走り出した。

    ドドドドッ。

    影も一緒に走る。

    消えてはいない。

    それでも、もう逃げるための走りではなかった。

    風太郎もペダルへ足をかける。

    アンが右側のサイドカーへ乗った。

    真鍮ベル。

    チリン。

    時空つばめ号がゆっくり動き出す。

    アンは振り返った。

    フィロンは大麦を噛んでいる。

    カリステは馬の鼻を撫でている。

    少し遠くでは、アレクとブケパロスが何か言い合いながら走っていた。

    誰も同じ形ではない。

    大麦のおにぎりと同じだった。

    丸いのもある。

    平たいのもある。

    少しくずれたのもある。

    それでも、ちゃんと腹は満たせる。

    風太郎が前を見たまま聞いた。

    「アン」

    「なんや」

    「みんな、だいぶ勝手やったな」

    「ええやん」

    「そうか?」

    アンはサイドカーの縁へ顎を乗せた。

    「同じ風が吹いても、大麦の穂、全部おんなじ向きちゃうかったやろ」

    風太郎は少し笑った。

    「犬がええこと言うた」

    「十三歳やからな」

    「見た目六歳くらいやけど」

    アンの目が細くなる。

    「そこ言う?」

    「すみません」

    風太郎は布包みから大麦のおにぎりを一つ取り出した。

    少しいびつな丸。

    ひと口かじる。

    大麦の香り。

    チーズの塩気。

    指には、まだ少し穀物のざらつきが残った。

    「うまいな」

    アンが横を見る。

    「誰が握ったやつ?」

    風太郎は形を見る。

    「たぶんカリステさん」

    「なんで分かるん?」

    「美しい形してる」

    アンが鼻を鳴らす。

    「フィロンのやで、それ」

    風太郎がむせた。

    「ゴホッ!」

    「味変わった?」

    「変わってへん!」

    クロノ・コアが紫色に光り始めた。

    白い光が時空つばめ号を包んでいく。

    最後に聞こえたのは、遠くの蹄の音だった。

    ドドドドッ。

    そして景色が消える直前。

    困ってる人レーダーが、小さく鳴った。

    ピピッ。

    画面の端に、新しい赤い光点がひとつ灯る。

    アンの耳が立った。

    風太郎もそれを見る。

    真鍮ベルが、もう一度だけ鳴った。

    チリン。


    つづく

    画像
    画像
    画像
    画像
     
     
    マニアを卓越して、柴犬変態を目指しています Shiba Inu novel / talking dog / Animal Fiction

    あなたへのおすすめ