
入れ墨(刺青・タトゥー)のルーツ
今の若者はヤクザでもないのに気軽に入れ墨をする。
外国人も近年はやたらと入れ墨をするようになった。
というより、入れ墨のルーツはどうも日本ではなく外国にあるようで、日本列島の住民がその風習を真似たとも考えられる。
紀元前3,000年前のエジプトのミイラに、タトゥー(入れ墨)の痕跡があるという。
入れ墨は、世界中で装飾・信仰・刑罰など多様な目的で行われてきたようだ。
最近の日本人が気軽に入れ墨をするのは、装飾、つまりファッション感覚からだろう。
外国人もファッション感覚で入れ墨をするようになったのかもしれない。
日本の縄文人が入れ墨をしていたのは、そのうち信仰に近い理由からだろう。
「魏志倭人伝」には、魏の使者が倭(古代、中国人は日本をそう呼んでいた)を訪れた際、「倭人は沈没して魚蛤を獲る」と書かれてある。
漢民族は水に入るのを嫌っていたから、倭人のそういう習俗を見て驚いたのだろう。
魏の使者が見た「沈没する」人は、弥生人かもしれないが(弥生時代に入っていたから)、私は縄文人だったのではないかと思っている。
弥生人は主に朝鮮半島から日本に渡来したが、中国東岸の揚子江沿岸からも渡来した。
中国東岸の揚子江沿岸には閔(びん)族と呼ばれる人々が暮らしていて、彼らは海に面したところに住んでいたからなのか、「沈没して魚蛤を獲る」風習を持っていた。
この風習は揚子江沿岸から香港にかけて今でも残っているので、昔もそうだったと思われる。
この閔族は漢語ではなくタイ語系の言語を使っていた。
タイ語系の言語の文法は日本語とよく似ている。
朝鮮半島からの渡来人の言語の文法は日本語とほぼ同じである。
古代日本語は縄文語の上に弥生人の言語が重なって生まれたのだと思う。
うまく重なったのは、縄文語の文法も弥生人の言語の文法と似通っていたためだろう。
「魏志倭人伝」によると、「沈没して魚蛤を獲る」人たちは「鯨面文身」していたという。
顔と体に入れ墨をしていたのだ。
その理由についても「魏志倭人伝」は「海の害から身を守るため」だと書いている。
倭人がそう説明したのだろう。
きっと入れ墨をしていればサメなどが驚いて逃げると信じていたのだろう。
「鯨面文身」していたこの人々を弥生人だと考えるよりも、縄文人と考えたほうがいいように私は思っている。
弥生人にはそういう習俗はなかったようだからだ。
弥生人の多くは新モンゴロイドで、主に北方に住んで寒地に適応した。
体が大きくなり、まぶたがあつぼったくなって一重になり、体毛が少なくなった。
縄文人は新モンゴロイドよりも早くアジアに到達した古モンゴロイドで、主に南方に住んだため暑さに適応した。
小柄で細身になり、まぶたは二重になり、体毛が多くなった。
この特徴は沖縄の人々とアイヌの人々に共通している。
アイヌの人たちが北方から来たと考えている人がいるが、それは違うと思う。
北から日本に来たとしたら、寒冷地適応している新モンゴロイドのはずだが、アイヌの人たちは古モンゴロイドだからだ。
古モンゴロイドである縄文人の末裔と思われるアイヌの人々と沖縄・奄美の人々のうち、女性は近年まで入れ墨をする習慣を持っていた。

唇の周りや腕や手の甲や指などに入れ墨をしていた。
明治になって「刺青禁止令」が出されてからその習俗は消えたが、縄文人の末裔の人々が入れ墨をしていたのは、古代からの習俗が残っていたからではないか。
入れ墨は南方の習俗だと思う。
南方の習俗といえば、ほかにフンドシや若衆宿がある。
お歯黒もそうかもしれない。
ところで、魏の使者が倭国を訪れたのは紀元3世紀で、卑弥呼の時代である。
弥生時代になってもう600年くらいも経っていた。
弥生人の大量渡来によって縄文人の多くは北へ西へ南へ(一部は山へ)追われた。
北に向かったのがアイヌの人々の祖先で、南に向かったのが沖縄の人々の祖先だろう。
山へ追われた人々は、サンカと呼ばれる賎民になった。
しかし、弥生人とともに暮らした縄文人もいたと思う。
彼ら縄文人が「沈没して魚蛤を獲」っていたのではないだろうか。
彼らの入れ墨の習俗が、アイヌの人々と沖縄の人々に近代まで残ったのだと思う。
日本のヤクザが入れ墨をするようになった理由はわからない。
たぶん、そうしたほうが相手をビビらせるのに効果的だと思ったからではないか。
同時に、自分が強くなったように感じるからではないか。
しかし現代の若者は、入れ墨をファッションのひとつとして取り入れていることが多い。
多くの入浴施設では「入れ墨している方はご遠慮ください」と張り紙をしている。

ホテルの大浴場でも同じだろう。
としたら、入れ墨をした彼らが結婚して子どもを持っても、家族で大浴場に入れないという事態になる。
それでも若者たちが入れ墨をする心理が、私にはちょっとわからない。