
オセロ13 第1話 ガチガチの銀行レース
文・武智倫太郎
2026年6月24日。
孫正義は、16年後にソフトバンクグループ(9984)のNAVを1000兆円にすると宣言した。
1000兆円。
日本の国家予算でも、少し考えてから口にする金額である。
孫は考えなかった。
『やる以上は世界一です』
会場から拍手が起きた。
孫は、超知性の時代に4つの領域で世界一を取ると言った。
AIモデル。
半導体。
AIインフラ。
ロボット。
孫はそれを、オセロの四隅に例えた。
『オセロは、四隅を取れば勝てるんです』
OpenAI。
Arm。
データセンター。
ABB Robotics。
この4つの角を押さえれば、盤面は一気にひっくり返る。
そう説明した。
その盤を誰が持っているのかは、誰も聞かなかった。
それから間もなく、ソフトバンクグループが一兆円規模の社債発行を検討しているという話が出た。
一兆円。
1000兆円と比べれば、たった1000分の1である。
孫にとって、それは投資額ではなかった。
馬券代だった。
勝負の世界で、孫正義は別の名前で呼ばれていた。
2015年に日経傘下へと成り下がって以来、FTは孫正義を扱う時まで、次第に日経的な『礼賛モード』を帯びるようになった。
FT前編集長ライオネル・バーバーの著書『Gambling Man』、邦題『勝負師 孫正義の冒険』は、その到達点である。
賭けを冒険と呼び、危険を勇気と呼び、巨額の損失さえ英雄物語の一場面に変える。
だが、こちらの賭場では、誰も彼を英雄とは呼ばなかった。
哭きの禿。
負けても哭かない。
含み損でも哭かない。
格付けが下がっても哭かない。
借りた金を失っても哭かない。
さらに借りられるうちは、決して哭かない。
金を貸してくれる相手がいなくなった時だけ、初めて哭く。
だから、哭きの禿と呼ばれていた。
その夜。
孫は社長室で、一兆円の社債発行計画を眺めていた。
机の上には、オセロ盤が置かれていた。
四隅には、白い石が置かれている。
1つ目には、OpenAI。
2つ目には、Arm。
3つ目には、AIインフラ。
4つ目には、ロボット。
孫は満足そうに盤面を見た。
『四隅は取った』
その時、スマートフォンに見覚えのないアイコンが現れた。
白と黒の円。
その下に、こう書いてあった。
OSERO 13
孫は押した。
『誰?』
『オセロ13です』
『何のExpert?』
『盤面をひっくり返します』
孫の目が輝いた。
『ちょうどいい。僕も世界をひっくり返そうとしている』
『拝見します』
『これが僕の四隅だ』
『まだ取れていません』
孫の顔が止まった。
『何?』
『OpenAIは、あなたの会社ではありません』
『出資している』
『出資と支配は違います』
『将来、世界一になる』
『まだなっていません』
『次。Armは?』
オセロ13は石をつまみ、照明にかざした。
『白です』
孫の顎が上がった。
『ほら』
『表だけなら』
『どういう意味だ』
『株価が下がれば、色も変わります』
『白には変わりない』
『今日は』
『次。AIインフラ』
『SB Energyが造り、OpenAIが20年間借り、NVIDIAが信用を補完する。そのNVIDIAが、独占的に計算基盤を供給します』
『見事な共同戦線だ』
『金融機関、電力会社、建設会社、土地所有者、政府まで、その輪に入っています』
『つまり白だ』
『資金が一周しています』
『何が?』
『出資と信用と注文です』
『白か黒かを聞いている』
『灰色です』
『オセロに灰色はない』
『企業会計にはあります』
『共同投資だ』
『NVIDIAがSB Energyに出資する。NVIDIAが信用を補完する。OpenAIが設備を借りる。その設備にはNVIDIA製品が並ぶ』
『完璧じゃないか』
『ええ。金が外へ出なければ、完璧に見えます』
『何が言いたい?』
『日経新聞まで、これを新たな循環投資として扱い始めました』
『日経が?』
『NOOトライアングルより、さらに一段複雑です』
『どこが違う?』
『NOOトライアングルでは、NVIDIA、OpenAI、Oracleの間を、GPU、計算需要、設備投資が循環していました』
『今回は?』
『そこへSB Energy、社債、銀行融資、信用保証、長期賃貸借、電力まで加わります』
『進化したんだ』
『借金の方が』
孫は次の石を指した。
『最後はロボットだ』
『買収は完了していますか?』
『完了する』
『いつです?』
『未来だ』
『では、まだ盤面の外です』
孫の指が止まった。
4つの角を取ったはずだった。
実際に白いと言い切れるのは、Armだけだった。
だが、そのArm株の一部まで、借入れの担保に差し出されていた。
白い石の裏側には、銀行の指紋が付いていた。
要するに、Armも純白ではなかった。
4つの角は、すべて灰色だった。
孫は一兆円の社債発行計画を持ち上げた。
『だから、これが必要なんだ』
『社債ですね』
『一兆円ある』
『一兆円借りる、の間違いです』
『同じだよ』
『貸す側には違います』
『この一兆円で、残りの角を取る』
『借りた金で、借金の色を白くするんですか?』
『四隅を取れば、全部白になる』
『返済期限も?』
『それは盤面の外だ』
『誰のお金です?』
『投資家だ』
『あなたのお金ではない?』
『会社の信用で集める』
『返すのは?』
『会社だ』
『勝てば?』
『僕のNAVが増える』
『負ければ?』
『会社に社債が残る』
オセロ13は少し考えた。
『では、あなたは何を賭けているんです?』
孫も少し考えた。
『未来だ』
その瞬間、オセロ盤が競馬場に変わった。
4つのゲートが現れた。
第1ゲート。
オープンアイ号。
第2ゲート。
アーム号。
第3ゲート。
スターゲート号。
第4ゲート。
エービービーロボティクス号。
電光掲示板にレース名が表示された。
第1回 ASIオセロ記念
距離、16年。
投票額、一兆円。
目標払戻、1000兆円。
オセロ13が言った。
『一兆円が1000兆円なら、1000倍です』
『そうだ』
『100円が10万円になります』
『安い馬券だろう』
『安いんですか?』
『1000兆円になるんだぞ』
『なれば、です』
『なる』
『なぜです?』
『僕がそう決めた』
孫は一兆円の投票券を差し出した。
窓口の係員が尋ねた。
『どの馬にお賭けになりますか?』
『全部だ』
『券種は?』
『四隅』
『そのような馬券はありません』
『今、作った』
『全部に賭ければ、払戻金は減ります』
『1000兆円ある。少しくらい減っても問題ない』
『まだありません』
『16年後にはある』
『一兆円は、現金でお支払いですか?』
『社債だ』
係員の手が止まった。
『借りた金で馬券を買うんですか?』
『違う』
『何が違うんです?』
『これはAI投資だ』
『当たれば?』
『成長戦略だ』
『外れれば?』
『長期戦略だ』
『返済期限が来たら?』
『借り換える』
『借り換えた社債の返済期限が来たら?』
『また借り換える』
『いつ返すんです?』
『NAVが1000兆円になった時だ』
『ならなかったら?』
『もっと長期の戦略にする』
係員は一兆円の投票券を見た。
『ずいぶん自信があるんですね』
孫は笑った。
『ガチガチの銀行レースだよ』
『銀行が勝つレースですか?』
『銀行が金を出すレースだ』
『銀行も走るんですか?』
『走らない』
『では、誰が走るんです?』
『AIだ』
『誰が金を出すんです?』
『人間だ』
『誰が利息を払うんです?』
『会社だ』
『誰が1000兆円を受け取るんです?』
『株主だ』
『AIは何を受け取るんです?』
『世界だ』
係員は黙った。
オセロ13が盤面に戻った。
『AIバブルだと言う人もいます』
孫の顔が険しくなった。
『冒涜だ』
『博打だと言う人もいます』
『それも違う』
『何が違うんです?』
『博打は、自分の金でやるものだ』
オセロ13は、初めて納得した。
そして、四隅の石を1つずつ裏返した。
OpenAIの裏には、少数持分と書かれていた。
Armの裏には、株価変動と書かれていた。
AIインフラの裏には、巨額設備投資と書かれていた。
ロボットの裏には、買収未完了と書かれていた。
4つの角が、すべて黒くなった。
孫が叫んだ。
『逆だ!』
『何がです?』
『白が黒になった!』
『盤面がひっくり返ったのです』
『僕が言ったのは、黒が白になる方だ!』
『オセロに、ひっくり返る方向の指定はありません』
孫は盤面を見つめた。
しばらく動かなかった。
オセロ13が尋ねた。
『おやめになりますか?』
哭きの禿は、哭かなかった。
代わりに、もう一枚の社債発行計画を取り出した。
『もう一兆円だ』
『また賭けるんですか?』
『今度こそ四隅を取る』
『外れたら?』
『次のレースに賭ける』
『そのお金は?』
『また借りる』
『それを競馬場では、追い銭と呼びます』
『ここは競馬場じゃない』
『どこです?』
哭きの禿は、一兆円の社債発行計画に判を押した。
『資本市場だ』
『競馬場と何が違うんです?』
哭きの禿は笑った。
『負けても、負けたとは書かなくていい』
オセロ13は、盤面をもう一度ひっくり返した。
今度は、すべて白になった。
哭きの禿は満足そうにうなずいた。
『ほら。勝った』
『まだレースは始まっていません』
『関係ない』
『なぜです?』
哭きの禿は、1000兆円と書かれた電光掲示板を指さした。
『勝つまで、未来を延長すればいい』
ゲートが開いた。
4頭が走り出した。
銀行は走らなかった。
投資家も走らなかった。
哭きの禿も走らなかった。
走っていたのは、借りた金だけだった。