
noteユーザーの最大の関心事は『note』であるという衝撃
私小説も生成AIも町中華も、最後にはダッシュボードに敗北する
文・武智倫太郎
noteでは、ある者は過去の痛切な失恋を、ある者は最先端の生成AI活用法を、またある者は近所の町中華で食べた炒飯について、米粒を包む油のテカリ具合まで書いている。
小説、詩、育児、介護、投資、転職、旅行、料理、哲学、日記。note公式が謳うように、この『創作の街』は多種多様なテーマとクリエイティビティで溢れかえっており、ショーウィンドウには色とりどりの文章が並び、誰もが表現者として自分の店を構えている。
もっとも、華やかな店先だけを眺めて、この街の本当の主力商品を見誤ってはいけない。
住人たちが血眼になって読んでいるものは、見知らぬ誰かが書いた一万字の私小説でも、高度な経済分析でも、読後に心が少し温かくなるエッセイでもない。この街で最も安定した需要があり、景気循環にも左右されず、次々と類似商品が投入される圧倒的なキラーコンテンツは、『note』そのものについて書かれた記事である。
『noteを始めて一か月で分かったこと』
『スキが増えない本当の理由』
『毎日投稿を百日続けた結果』
『フォロワー千人になるまでに私がやったこと』
『読まれるタイトルの付け方』
『noteをやめようと思った夜』
創作の街で最も繁盛しているのは、創作物を売る店ではなく、創作物をどうすれば売れるのかを教える店なのだ。
これは、本を買いに来た客が、並んでいる小説や専門書には目もくれず、入口に置かれた『この書店で注目されるための七つの方法』というパンフレットだけを熱心に読み込み、翌日には自分の店で『私がこの書店で学んだ八つのこと』という記事を売り始めるようなものである。
七つだったはずの方法が八つに増えているところだけが、辛うじて創作と呼べる部分なのかもしれない。
ダッシュボードの数字と長くにらみ合った経験がある者なら、この残酷な法則に薄々気づいているはずだ。自分の人生を切り刻み、過去の傷口を開き、血を吐くような思いで書き上げた一万字の私小説よりも、休日の朝に布団の中でスマートフォンを触りながら書いた『noteでスキを増やす三つの方法』のほうが、はるかに多くのPVとスキを集める。
全身全霊を注いだ作品にはスキが三つしか付かなかったのに、『スキが三つしか付かなかった私が気づいたこと』と書き直した途端、三十個のスキが付く。
敗北さえ再資源化できるのだから、noteは環境省が表彰してもよいほど完成度の高い循環型社会である。
本来、noteは何かを伝えるための手段だったはずだ。ところが、投稿を重ねるうちに、何を書きたいかよりも、何を書けば読まれるかが気になり始める。やがて、読まれるために工夫したことを書き、その記事が読まれなければ、今度は『noteで読まれなくなって分かったこと』を書く。
気がつけば、創作のためにこの街へ来た者が、noteという生態系を観察する昆虫学者のようになっている。違いがあるとすれば、自分自身も観察箱の中に入っていることくらいである。
この構造は株式市場にもよく似ている。
投資家は本来、企業の技術力や収益力、事業の将来性を分析するために市場へ来たはずだった。ところが、相場に長くいるうちに、企業が何を作っているかよりも、明日ほかの投資家がその株を買うかどうかのほうが重要になる。事業を見るはずだった者がチャートの形と出来高を眺め、最後には企業価値ではなく、他人の期待を売買するようになる。
noteでも、文章の中身より投稿する曜日と時刻、読者に何を届けたかよりフォロワーが何人増えたか、作品そのものよりダッシュボード上の小さな折れ線グラフが気になり始める。
目的と手段が入れ替わった瞬間に、大げさな警報が鳴るわけではない。ただ静かに、創作がダッシュボードの数字を動かすための金融商品へ変わっていく。
『創作大賞』のような大型企画が始まれば、街は祭りのようにざわめき、皆がハッシュタグという名のゼッケンを付けて一斉に走り出す。しかし、沿道で他人の作品を応援しているように見える者も、片手には自分の順位が表示されたスマートフォンを握っている。
他人の作品を読みに来たはずなのに、いつの間にか自分がどう見られているかばかりを確認している。この意味で、noteは創作の街であると同時に、精巧に設計された巨大な鏡の迷路でもある。
右を見ても左を見ても、そこに映っているのは、何かを表現したい人ではなく、表現した自分を誰かに見つけてもらいたい人の顔である。
『あなたの記事を読みました』という顔をして近づいてくる者の背中には、たいてい『ところで、私の記事も読んでください』という看板がぶら下がっている。
もちろん、私はその看板を他人の背中だけに見つけて笑っているわけではない。この記事を書いている私の背中にも、同じ看板が、しかも人より少し大きめにぶら下がっている。
そもそもこの記事自体が、『noteユーザーはnoteについて書かれた記事を好んで読む』という仮説を利用して、noteユーザーに読まれようとしている。承認欲求を批判しながら、その承認欲求からPVとスキを回収しようとしているのだから、空き巣が防犯講習会を開き、参加者の留守宅一覧まで手に入れようとしているようなものである。
それでも私は、この街を虚栄心の掃き溜めだとは思わない。人間は、自分が書いたものを誰かに読んでほしいし、自分の考えが誰かに届いたという証拠がほしい。広大な世界の片隅で、自分が確かに存在したという痕跡を残したいのである。
一兆円を調達して歴史に名前を刻もうとする者もいれば、画面上の小さなハートマークを一つ受け取って安心する者もいる。金額の桁は違っていても、誰かに自分の存在を認めてもらいたいという渇きに、それほど大きな違いはない。
だから今日も、私はこの巨大な鏡の街で画面に向かい、『noteユーザーの最大の関心事はnoteである』という、見事なまでに自己言及的なnoteの記事を書いている。
公開ボタンを押した後は、おそらく何度もダッシュボードを開くだろう。
この記事が読まれなければ、私の仮説は外れたことになる。しかし、もしこの記事がバズったなら、本文の正しさはnoteユーザー自身によって証明される。
なお、ここまで読んだ方は、すでにその実証実験に参加している。