
僕の好きな最終回
僕は最終回が好きだ。
ドラマでもバラエティ番組でも、「これで最後です」と分かると、急に姿勢を正してしまう。終わりが来るということは、それだけでなんだか特別な意味を持つような気がするのだ。
じゃあ僕自身の「最終回」はどうなるんだろう。
ふと、そんなことを考えてしまった。
つまり、自分の葬式である。
どうせなら、たくさん来てほしい。
いや、死んだあとまで集客を気にするなよと思うのだが、指を折って知り合いを数えてみると、片手がなかなか忙しくならない。
頭の中で、勝手に僕の葬式が始まる。
大きな会場を取ったものの、いざ当日ガラガラだったらどうする。生前最後の見栄までバレてしまうじゃないか。「あの人、見栄っ張りだったのね」と囁かれる最終回なんて恥ずかしいぞ!
妄想の会場は、やけにだだっ広い。並べられた椅子が、僕の人生の薄っぺらさを象徴するかのように虚しく余っている。
おいおい、なんだか斎場のスタッフの人の方が多いじゃないか! 受付のお兄さん、いま欠伸したよね? 見てるぞ!
しかも祭壇のど真ん中に飾られている遺影。なんで僕、焼きそば食べてるところなの。しかも口の端に青のりついてるし!もっとマシな写真あっただろうよ!みんなクスクス笑ってるよ。
ああ、誰も泣いてくれないのか。僕の人生って、そんなもんだったのか。
そうだ、妻のトラ子さんはどうした。
参列者への挨拶やら、斎場とのやりとりやらで、あっちこっち忙しそうに小走りで動き回っている。
なんだよ。妻まで泣いていないじゃないか。
僕は妄想の中の分際で、勝手に深く傷ついて落ち込んだ。
やがて椅子の脚が床をこする音がして、みんな帰っていく。受付の灯りも消え、広い斎場に冷たい花の匂いだけが残る。
誰もいなくなった祭壇の横で、一人になったトラ子さんが、ふと肩を震わせる。
ぽろり、と。
小さな涙が、焼きそばの遺影の前に落ちた。
全部自分の頭の中の想像だというのに、その姿を思い浮かべただけで、パソコンの前の僕まで思わず涙ぐんでしまった。
すると、背後から声がした。
「あ~、何泣いてるの?」
現実のトラ子さんである。
「いや……こんなの書いてたんだけどね」
僕は、書きかけのこのエッセイをトラ子さんに読ませた。彼女は画面をスクロールして最後まで読み、僕の背中をポンと叩いた。
「ちゃんと泣いてあげるよ」
そう言って、ふふっと笑った。
僕の最終回は、そんな感じでいいんだろう。
相生エッセイ
「文藝大賞2026 エッセイ部門」に参加させていただきました!
(983 文字)
あとがき
「私の好きな◯◯」と聞いて、好きなものならいくらでもあるはずなのに、なぜか僕が選んだのは「最終回」でした。
なぜか、真っ先に浮かんでしまったんですよね(笑)
なんでお葬式?と思うかもしれません。
実は、僕は中学生の頃、「将来の夢」という作文で、こんなことを書きました。
「自分の葬式に、たくさんの人が来てくれること。たくさんの人が泣いてくれること」
……中学生のくせに、どこまで先の話を書いているんだって話ですよね~
普通は野球選手とか、社長とか、そのへんを書くと思うのですが、でも当時の複雑な家庭環境の中の僕は、わりと本気でそう思ってました。
たくさんの人が来て、たくさんの人が泣いてくれる。それはきっと、たくさんの人に必要とされ、惜しまれるような人生を送れた証拠なんだろう、と。
だからどこかでずっと、「そういう人間にならなければ」と思っていた気がします。
ところが今回、「私の好きな◯◯」を考えていて、ふと思いました。
僕が今いちばん好きで、欲しいもの。
それは、「僕がいなくなったら悲しんでくれる人」かもしれないなって。
僕はいろいろなことに興味を持って、馬鹿なことを考えたり、子どもっぽいものに夢中になったり、情けない失敗をしたりして、それをnoteでエッセイに書いているのですが、だいたい、その隣にはトラ子さんがいる。
考えてみれば、僕は今の暮らしがけっこう好きなんですよね。
中学生の僕が思い描いた葬式とは、ずいぶん違うものだと思うのですが。
それでも最後に一人だけ、泣いてくれる人がいる。
それが「私の好きな◯◯」だと思いました。
須川さん、まきさん、りっちゃんさん。
「文藝大賞」という楽しい企画をありがとうございます。
▽ note創作大賞2026に応募したエッセイ作品はこちらに収録しています。ぜひ読んでみてください。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました😌
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他にも、創作大賞にも応募している 日々の何気ない瞬間を切り取ったエッセイを綴っています。よかったら覗いてみてください。
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