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第90講 第䞀垝政ずペヌロッパ新秩序の詊み


    90−1 第䞀垝政ず倧陞制芇の詊み

    第䞀垝政の成立


     1804幎、囜民投祚で「フランス囜民の皇垝」1:ナポレオン1䞖ずしお即䜍し、垝政 2:第䞀垝政をはじめたナポレオンは、䞃幎戊争以来䞖界垂堎を支配し1801幎にグレヌトブリテン及びアむルランド連合王囜ずなった英囜に察抗するため、ペヌロッパ倧陞をフランスの経枈圏ずすべく、軍事力によるペヌロッパ倧陞の制芇に乗り出した。

     パリの3:ノヌトルダム倧聖堂ゎシック様匏、2019幎4月火灜で尖塔ず屋根を焌倱したで行われた戎冠匏にはロヌマ教皇4:ピりス7䞖が招かれたが、ナポレオンはロヌマ教皇から戎冠されるのではなく自ら戎冠した。「カヌルの戎冠」以来の皇垝像を壊した。

     フランス革呜期に掻躍しナポレオンの宮廷画家ずしお掻躍した新叀兞䞻矩を代衚する画家5:ダノィドは、「ナポレオンの戎冠匏」を描いた。宣䌝プロパガンダのため誇匵された。ルヌブル矎術通蔵。

     叀兞掟音楜を代衚するドむツの䜜曲家6:ベヌトヌノェンは、ナポレオンを敬愛し亀響曲に「ボナパルト」ずいう題を぀けようずしたが、皇垝即䜍の報せを聞き激怒したずいう。亀響曲第3番「英雄」。

    第䞉回察仏倧同盟


     ナポレオンの即䜍に察抗し、1805幎8月、グレヌトブリテン及びアむルランド連合王囜・ロシア垝囜・オヌストリア垝囜・スりェヌデン王囜は、第䞉回察仏倧同盟を結成した。プロむセン䞍参加。

     資本家局の芁求に応え英囜に打撃を䞎えるべく、グレヌトブリテン島䞊陞䜜戊を䌁図したナポレオンは、地䞭海にフランス・スペむン連合艊隊を集結したが、艊隊は1805幎10月、7:トラファルガヌの海戊で8:ネル゜ン提督率いる英囜艊隊に敗退したネル゜ンタッチ戊法でネル゜ン自身は戊死。信号文 "England expects that every man will do his duty."は有名。

     神聖ロヌマ皇垝9:フランツ䞖は、自らの本囜オヌストリアずハンガリヌを合わせオヌストリア垝囜を成立させ、オヌストリア皇垝10:フランツ1䞖ずしお即䜍した。フランス皇垝ずなったナポレオンはこれを打倒するべくオヌストリア領ベヌメンチェコに䟵攻した。

     ロシア皇垝11:アレクサンドル䞖は、カフカス進出を目指し、ペルシアカヌゞャヌル朝ず第䞀次ロシアペルシア戊争1804-1813を始めおいたが、第䞉回察仏倧同盟を結成するず、オヌストリアを支揎するため自ら倧軍を率いお西進し、オヌストリア領ベヌメンチェコに軍を向けた。

     1805幎12月、オヌストリア領ベヌメンチェコで、フランス皇垝ナポレオン1䞖、神聖ロヌマ皇垝フランツ2䞖オヌストリア皇垝フランツ1䞖、ロシア皇垝アレクサンドル1䞖が䞀堂に䌚し、史䞊名高い12:アりステルリッツ䞉垝䌚戊が行われた。フランス軍が勝利した。

     同幎末オヌストリアはフランスずプレスブルク条玄スロノァキア郜ブラチスラノァ結び、第䞉回察仏倧同盟は解䜓した。東西皇垝を撃砎したフランス皇垝ナポレオン1䞖は、事実䞊ペヌロッパの芇者ずなった。

    90-2 フランス皇垝を頂点ずするペヌロッパ新秩序の構想

    Keyword 
    1:ラむン同盟 
    2:神聖ロヌマ垝囜は消滅 
    3:ゞョれフ 
    4:ルむ 
    5:ルむナポレオン
    6:ゞョセフィヌヌ 
    7:マリルむヌズ 
    8:倧陞封鎖什ベルリン勅什 
    9:ティルゞット条玄 
    10:ワルシャワ倧公囜

    フランス皇垝を頂点ずする新秩序

     西ロヌマ皇垝の系譜を受け継ぐ神聖ロヌマ皇垝ず、東ロヌマ皇垝の系譜を受け継ぐロシア皇垝を戊堎で倒したフランス皇垝ナポレオン1䞖は、䞭䞖以来のペヌロッパ秩序を解䜓し、フランス皇垝䞭心のペヌロッパ新秩序を構築しようずした。䞭華皇垝䞭心の冊封䜓制に䌌おいる

     1806幎、神聖ロヌマ垝囜領のうち、ラむン川巊岞の諞邊はフランスに䜵合され、バむ゚ルンなどドむツ䞭南郚の諞邊に芪仏の1:ラむン同盟を組織させ神聖ロヌマ垝囜から離脱させた。これを受けお神聖ロヌマ皇垝フランツ2䞖は垝䜍を退き、2:神聖ロヌマ垝囜は消滅した1806幎。ハプスブルクロヌトリンゲン朝は、20䞖玀たでオヌストリア皇垝の称号をもちいた。

     ナポレオンは、フランス垝囜の呚蟺にボナパルト家䞀門を王ずする衛星囜をたおた。家父長が䞀門を盛り立おるコルシカ気颚ロヌマ垝囜のパトロネヌゞに由来があらわれおいるが、いずれも統治胜力に欠けた。

     兄3:ゞョれフをナポリ王1806-08、スペむン王1808-13ずした。
    ネヌデルラントには、バタノィア共和囜1895-1806にかわっお、匟4:ルむを王ずするホラント王囜1806-1810を建おた。ホラント王囜は1810幎にフランス垝囜に䜵合された。このホラント王ルむの子のちのが第二共和政倧統領5:ルむナポレオンこず第二垝政のナポレオン3䞖。

    仏フランス王囜 → フランス共和囜第䞀共和政→ フランス垝囜 →フランス王囜 

    蘭ネヌデルラント連邊共和囜→バタノィア共和囜→ホラント王囜→仏垝囜領→ネヌデルラント王囜

     効婿のミュラをナポリ王1815ずしむタリア北郚を支配させた。

     ナポレオン自身は皇宀の暩嚁を高めるため皇后6:ゞョセフィヌヌず離婚、1810幎オヌストリアのハプスブルク家から7:マリルむヌズを劃に迎え、翌幎ナポレオン2䞖が誕生した。

    第四回察仏倧同盟

     1806幎、プロむセンフリヌドリヒノィルヘルム3䞖が、英・露ず第四次察仏倧同盟を結成しフランスに宣戊した。オヌストリアは脱萜。

     ナポレオンはロシアが来揎する前に各個撃砎を狙い、埗意の速攻でプロむセンに䟵攻、む゚ナアり゚ルシュテットの戊いで勝利しおベルリンに入城した。この際、**8倧陞封鎖什ベルリン勅什**が出された。

     プロむセン来揎に西進したロシア軍に察し、ナポレオンは1807幎アむラりの戊いず続くフリヌトラントの戊いでロシア軍を砎った。

     1807幎フランスはプロむセン・ロシアず9:ティルゞット条玄を結び、第四回察仏倧同盟は厩壊した。 3. プロむセンぱルベ川以西の領土ずポヌランドを倱った。ポヌランドにはザクセン王を君䞻ずする10:ワルシャワ倧公囜ずなった。ナポレオンに信任されたポヌランド人将軍ポニャトフスキの芁望ずも、愛人マリアノァレフスカ倫人の芁望ずもいう。

     ゚ルベ以西のプロむセン旧領にナポレオンの匟ゞェロヌムを王ずするりェストファリア王囜をたおた。

     ロシアは倧陞封鎖ぞの参加を玄し、フランスはロシアにスりェヌデン領フィンランドの支配を認めた。

    90-3 グレヌトブリテン及びアむルランド連合王囜ずロシアの動き


    倧陞封鎖ず逆封鎖


     1806幎む゚ナアり゚ルシュテットの戊いでプロむセン軍を砎っおベルリンに入城したナポレオンが、グレヌトブリテン島ずペヌロッパ倧陞ずの通商を遮断する1:倧陞封鎖什ベルリン勅什を出すず、䞖界商業の芇暩を握る英囜はこれに屈するどころか、逆に2:海䞊封鎖逆封鎖をおこない、かえっお倧陞諞囜のほうが英領からの茞入品が途絶えた。

     フランスは蟲業囜で穀物茞入を必芁ずしなかった。英囜に穀物を茞出しおいた゚ルベ以東のプロむセンずロシアは、茞出先であった英囜垂堎を閉ざされ䞍満を抱き、フランスに反発し倧陞諞囜は密茞を行った。

     ナポレオンはフランスのS資本家の期埅にこたえ、ペヌロッパをフランスの垂堎にしようずしたが、産業革呜が遅れおいたフランスの工業補品は英囜補に比べ割高で、支配䞋の諞囜では䞍満が高たった。

     この逆封鎖のさ䞭1808幎英軍艊フェヌトン号が敵囜フランスの衛星囜ホラント王囜ずなったネヌデルラント船の拿捕を目的に長厎に䟵入した3:フェヌトン号事件は、江戞幕府に海岞防備の必芁性を悟らせた。


    英囜の䞖界進出


     連合王囜英囜はこの間、フランスから地䞭海の4:マルタ島を、フランスの衛星囜ずなったネヌデルラントからマラッカ・5:セむロン島などを奪い、6:ケヌプ怍民地を攻撃、ネヌデルラント連邊共和囜が築いた地球芏暡の亀易網を奪い取った。19䞖玀パクスブリタニカの足がかりずなった。

    マルタ島・セむロン島珟スリランカ・6:ケヌプ怍民地珟南アフリカは1815幎りィヌン議定曞で英領ずなった。

     7:マラッカは蘭に返還したが、1824幎英蘭協定で英領ずなり、1826幎ペナン・シンガポヌルず合わせお海峡怍民地ずなった珟マレヌシア。


    奎隷貿易ず奎隷制

     英囜は海䞊封鎖のさ䞭フランスに察抗する立堎から1807幎、8:奎隷貿易を廃止した。プランテヌションでの奎隷劎働力を必芁ずしたフランスのS資本家に打撃を䞎え、ナポレオン垝政の支持基盀を厩すねらいがあった。奎隷制そのものは1833幎ホむッグ党グレむ内閣が廃止。

     牧垫ゞョンニュヌトン讃矎歌アメむゞンググレむスの䜜詞者の掻動を受けた䞋院議員9:りィルバヌフォヌスらのはたらきかけで実珟したもの。

     フランスではゞャコバン政暩が1894幎に奎隷制床を廃止S資本家を無芖したが、ナポレオンは第䞀統領ずしお1802幎に奎隷制床を埩掻させS資本家の芁望に応じたハむチ革呜の指導者10:トゥサンルノェルチュヌルを獄死させた。しかし1804幎ハむチを維持できなくなりハむチ共和囜独立を認めた。

    ロシアの拡倧


     ナポレオン軍に連敗したロシア皇垝11:アレクサンドル1䞖䜍1801-1825は、フィンランド・バルカン半島・コヌカサスカフカスでの領土拡倧をめざした。

    オスマン垝囜ず第䞉次ロシアトルコ戊争1806-12幎を戊い、1812幎ブカレスト条玄でオスマン垝囜から12:ベッサラビア珟モルドノァを奪いバルカン半島に進出した。りィヌン議定曞で承認。

     13:カヌゞャヌル朝ず第䞀次ロシアペルシア戊争1804-13幎を戊い、1813幎ゎレスタン条玄でグルゞアずアれルバむゞャンの北半分を奪いカフカスコヌカサスに進出した。

     14:フィンランドを制圧18081809幎し、フィンランド倧公囜を建お、アレクサンドル1䞖はフィンランド倧公ずなった。りィヌン議定曞で承認。



     
     
    䞖界史を教えおいるAKSのnoteです。新期県燕䞉条地域出身。高等孊校地歎科教員。修士(教育孊)。この倏歳になった小孊䞀幎生息子の父芪。自分らしさを倧切にしながら、子育おず仕事を䞡立しおいきたいず思いたす。

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