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第144講 アゞアアフリカ䌚議ず第䞉䞖界


    144-1 アゞア・アフリカ諞囜の独立ずナショナリズム


    北アフリカの独立運動

    1950幎代、北アフリカマグリブ地方で、独立の動きがあい぀いだ。

    むタリア領リビアトリポリ、キレナむカは、囜連決議にもずづき、1951幎にリビア連合王囜ずしお独立した1:リビア独立。19䞖玀にメッカで創蚭されキレナむカを拠点ずしたむスラヌム神秘䞻矩教団(2:サヌヌシヌ教団)の指導者むドリヌス䞖䜍1951-69を囜王ずしたが、王政は1969幎(3:カダフィ)のクヌデタで倒れ、共和囜ずなった4:リビア革呜。

    カダフィは、偉くなっおもなぜか「倧䜐」ず呌ばれた。

    フランスの保護囜チュニゞアでは、むンドシナ戊争の圱響を受け、1950幎代に独立運動が激化したチュニゞア独立運動。→モロッコずずもに1956幎独立を達成した5:チュニゞア独立、6:モロッコ独立。

    むンドシナ戊争の圱響を受け、アルゞェリアでは1954幎(7:民族解攟戊線)FLNが結成され、独立をめざす(8:アルゞェリア戊争)が開始された。58幎第四共和政にかわっお第五共和政が成立するず、ドゎヌル倧統領は1962幎゚ノィアン協定で(9:アルゞェリア独立)を認めた。

    ドゎヌルは、アルゞェリアを独立させる前、1960幎にアルゞェリアで栞実隓をやっおいる。同じ幎に、フランス領からアフリカカ囜を独立させおいる。政治や倖亀の駆け匕きに巧みな人物なので、圌が関わった出来事の因果関係や前埌関係に泚目しおおきたい。

    マグリブは、東から順に、゚ゞプト、リビア、チュニゞア、アルゞェリア、モロッコず䞊んでいる。叀代においおはロヌマ垝囜領だったが、䞭䞖はむスラヌム勢力に埁服され、アラブ人が䞻䜓の地域ずなった。近䞖はオスマン垝囜、近代は欧米列匷の怍民地にされた地域。叀代史から、「䞲刺し」にしお、たずめおおこう。

    むラン石油囜有化

    パフレノィヌ朝むランでは、1951幎(10:むラン石油囜有化)が宣蚀された。

    1951幎、むランの(11:モサデグ)銖盞が、英資本のアングロむラニアン石油䌚瀟が保有しおいたむランの石油利暩を囜有化するず発衚するず、英・米がペルシャ湟を封鎖し緊匵が高たったアバダン危機。

    アバダン危機の際、有名な日章䞞事件が起こっおいる。出光興産瀟長の出光䜐䞉が、ペルシャ湟の封鎖をものずもせず、日章䞞をむランに向かわせ石油を茞入したこずが問題ずなった事件。この経緯は、癟田 尚暹さんの小説『海賊ずよばれた男』で描かれおいる。

    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%AB%A0%E4%B8%B8%E4%BA%8B%E4%BB%B6

    モサデクは英・米に察抗するため゜連に接近し囜王(12:パフレノィヌ䞖)䜍1941-1979ず察立した。

    53幎、米で共和党の(13:アむれンハワヌ)が倧統領になり、゜連で(14:スタヌリンが死去)するず、チャヌチルずアむれンハワヌは石油利暩奪還のためパフレノィヌ2䞖を支揎しモサデク銖盞を倱脚させた。

    石油囜有化は取り消され、石油の利暩は米・英を䞭心ずした囜際石油資本の管理䞋に眮かれた。

    むラン石油囜有化は倱敗したものの、䞖界史䞊においお(15:資源ナショナリズム)の先駆けずなり、囜内においお1979幎のむランむスラヌム革呜ぞの出発点ずなった。

    ゚ゞプト革呜


    アラブ連盟の盟䞻゚ゞプトでも、パレスチナ戊争埌芪英米の立堎をずる王政ムハンマドアリヌ朝ぞの反発が匷たり、1952幎(16:゚ゞプト革呜)がおこった

    1952幎7月、(17:自由将校団)のナギブ、ナセル、サダトらが王政を倒しお共和政をたおた。

    ゚ゞプトはアラブ人の共和囜ずなり、(18:ナギブ)が銖盞翌幎倧統領ずなったが54幎には倱脚し、(19:ナセル)が暩力を握り、倧統領ずなった。ナセルは55幎アゞア・アフリカ䌚議に出垭、56幎ス゚ズ運河囜有化を実珟した埌述。

    むラク革呜

    同じくアラブ連盟加盟囜のむラクでも、1958幎革呜が起こった。

    むラクでは1958幎、軍人(20:カセム)らがハヌシム家の囜王ファむサル2䞖を倒しむラク共和囜を暹立した。これを(21:むラク革呜)ずいう。

    その埌、アラブ民族䞻矩をかかげる(22:バヌス党)が政暩を握った。バヌスは「埩興」の意。

    頻出事項。むラク革呜の埌、革呜政暩はバグダヌド条玄機構䞭東条玄機構、METOを脱退した。これにより、残ったブリテン、トルコ、むラン、パキスタンは、䞭東条玄機構を䞭倮条玄機構CENTOず改称し、本郚をトルコのアンカラに移した。䞭倮条玄機構は、その埌も倧きな圹割を果たせないたた、1979幎のむラン革呜で消滅した。

     むラクはシヌア掟・スンナ掟の他、クルド人も倚くおり、囜内統治が困難だった。1979幎バヌス党の(23:サダムフセむン)が独裁暩力を握り、スンナ掟を支持基盀にシヌア掟ずクルド人を抑圧した。

    144-2 アゞア・アフリカ䌚議


    ネルヌずコロンボ䌚議、平和五原則

    1954幎開催されたコロンボ䌚議ず、呚恩来・ネルヌが発衚した平和五原則は、翌幎のアゞア・アフリカ䌚議を準備した。

    1954幎、むンド共和囜の(1:ネルヌ)銖盞の呌びかけで独立を達成した南アゞア・東南アゞアカ囜の銖脳がセむロンスリランカのコロンボに集たり、むンドシナ問題の倧囜による解決に異議をずなえ、(2:コロンボ䌚議)をひらいお共同宣蚀を出したコロンボグルヌプ。この堎でアゞアアフリカ䌚議の構想が瀺され、翌幎の開催に぀ながった。

    コロンボ䌚議参加囜コロンボグルヌプ
    ① むンド 
    ② むンドネシア 
    ③ セむロン 
    ④ パキスタン 
    ⑀ ビルマ 

    1954幎、䞭華人民共和囜の(3:呚恩来)銖盞ずむンド共和囜の(4:ネルヌ)銖盞が䌚談し、20䞖玀埌半の囜際関係の基準ずなるべき(5:平和五原則)に合意した。

    内容は、次の通り。

    1. 盞互の領土保党ず䞻暩尊重Mutual respect for each other's territorial integrity and sovereignty

    2. 盞互䞍䟵攻Mutual non-aggression

    3. 盞互䞍干枉Mutual non-interference in each other's internal affairs

    4. 平等ず盞互利益Equality and mutual benefit

    5. 平和的共存Peaceful co-existence


    アゞア・アフリカ䌚議

    1955幎4月、むンドネシアの6:バンドンにアゞアずアフリカの蚈29カ囜の代衚が集たり、7:アゞア・アフリカ䌚議が開催され、8:平和十原則が合意された。

    䞻催はむンドネシア倧統領9:スカルノ任1945-1967、䞭華人民共和囜の呚恩来銖盞、むンドのネルヌ銖盞、゚ゞプトの 10:ナセル倧統領らが䞭心ずなった。

    日本も参加した。正誀刀定で、日本は参加しなかった、ず蚀うひっかけ問題を時々芋かける。泚意しおおこう。埌述の「非同盟諞囜䌚議」には日本は参加しおいない。日米安党保障条玄ずいう軍事同盟を結んでいるのでそもそも参加資栌がない。区別しおおこう。

    これ以降、アゞアずアフリカで生たれた独立囜が、囜際政治における発蚀暩を増した。

    冷戊䞋にあっお、資本䞻矩陣営第䞀䞖界にも瀟䌚䞻矩陣営第二陣営にも属さない囜々を総称しお11:第䞉䞖界第䞉勢力ずよび、アゞア・アフリカ䌚議によっおその連垯が瀺された。

    非同盟諞囜䌚議

    ゜連ず距離を眮いたナヌゎスラノィアの12:ティトヌがアゞア・アフリカ諞囜の動きに着目し、ラテンアメリカ諞囜も招いお1961幎、ナヌゎスラノィアセルビアの銖郜13:ベオグラヌドで第1回14:非同盟諞囜䌚議が開催され、軍事同盟に参加しおいないアゞア・アフリカ諞囜のほか、ペヌロッパからナヌゎスラノィアずキプロス、南米からキュヌバが参加した

    ゚ゞプト圓時はアラブ連合共和囜の15:ナセル、ガヌナの16:ンクルマ゚ンクルマ、むンドの17:ネルヌ、むンドネシアの18:スカルノら第䞉䞖界の指導者が䞀堂に䌚した。同61幎初頭に、合衆囜アむれンハワヌ政暩に断亀されたばかりのキュヌバ19:カストロ政暩も参加した。

    䞭華人民共和囜ずチベットをめぐっお察立したむンドが、1962幎20:䞭印囜境玛争をおこし゜連に接近したこずで、非同盟諞囜間の結束は倧きくそこなわれたものの、非同盟運動は珟圚たで続いおいる。

    144-3 アフリカ諞囜の自立ず連垯

    ス゚ズ戊争

    1956幎7月、゚ゞプトの1:ナセル倧統領が、アスワンハむダムの建蚭費を埗るため、2:ス゚ズ運河囜有化を宣蚀した。

    ナセルは、アゞアアフリカ䌚議を成功させお垰囜。平和十原則に掲げられた理想を、珟実の囜際政治で実珟させたいず願っおいた。

    これに反発したブリテン保守党3:むヌデン内閣ず第四共和政フランスは、゚ゞプトず敵察するむスラ゚ルをさそっお10月、ス゚ズ運河地垯に䟵攻したが、囜連での非難決議ず米゜二倧囜の反察により撀兵に远い蟌たれた。これを4:ス゚ズ戊争第二次䞭東戊争ずいう。第䞀次はパレスチナ戊争。

    合衆囜が、むスラ゚ル偎に立たなかった皀有な䟋である。1956幎は倧統領遞挙の幎であり、ナダダ祚が欲しいはずのアむれンハワヌ政暩が、むスラ゚ルの偎に立たなかった理由に぀いおは、諞説ある。倧倉、興味深い点である。

    ス゚ズ運河の囜有化を実珟したナセルはアラブの英雄ずなり、アラブ人の統䞀をめざす5:アラブ民族運動の旗手ずみなされた。1958幎にはシリアず゚ゞプトが連合しおナセルを倧統領ずする6:アラブ連合王囜 1958-61が成立した61幎に解消。

    サハラ以南のアフリカの独立

    1957幎ガヌナの独立英から、1958幎ギニアの独立仏からに続いお、1960幎は仏領を䞭心に17カ囜が独立を達成し「アフリカの幎」ずよばれた。

    1957幎に7:ンクルマの指導のもずにブリテンからガヌナが、58幎に8:セクトゥヌレ の指導のもずにフランスからギニアが独立した。

    フランスで第五共和政が成立するず、倧統領(9:ドゎヌル)の方針によっお、アフリカでは1960幎、フランス領からチャドなど15カ囜が独立を果たした。加えおベルギヌ領コンゎず英領ナむゞェリアを含め、党郚で17囜が独立を果たした1960幎は、10:アフリカの幎ずよばれた。ブリテン銖盞11:マクミラン保守党は「倉化の颚」挔説でこうした流れを是認した

    アフリカ統䞀機構ず内戊

    1960幎以降、アフリカでは各囜が連携する機運が高たり、1963幎に゚チオピアのアディスアベバで12:アフリカ諞囜銖脳䌚議が開かれ、13:アフリカ統䞀機構OAUが蚭立された。しかし、地域玛争や人皮差別に苊しむ囜もあり、各囜の足䞊みはそろわなかった。

    ベルギヌから独立したコンゎでは鉱物資源の豊かな南郚(14:カタンガ州)の分離独立を求める動き15:コンゎ内戊がおこった。(16:ルムンバ)銖盞は囜内鎮圧のため゜連の支揎を受けたが、合衆囜が支揎した軍人モブツが圌を逮捕し凊刑した。内戊䞭、囜連事務総長ハマヌショルドが事故死した。

    ブリテンから独立したナむゞェリアでは、資源の豊かなビアフラ州に䜏むむボ人が独立をめざした(17:ビアフラ戊争)が起こった。

    人皮差別ずの戊い

    南アフリカや南ロヌデシアでは、癜人政暩が黒人を公然ず差別する政治䜓制が続いた。

    南アフリカ連邊は、1961幎ブリテン連邊から離れ(18:南アフリカ共和囜)ずなったが、黒人に察する人皮隔離政策アパルトヘむトがずられ、囜際的な非難をあびた。差別撀廃を求めたアフリカ民族䌚議の指導者(19:マンデラ)は64幎逮捕され、長く獄䞭生掻を匷いられた。

    1965幎(20:南ロヌデシア)が独立したが、癜人少数掟政暩が行ったもので、黒人の政治参加は拒吊され人皮差別が぀づいた。80幎遞挙でアフリカ人組織の連合政暩が成立し囜名を(21:ゞンバブ゚)ず改称した。



    コラム: カヌタヌ倧統領ず「人暩倖亀」の成果—南ロヌデシアの厩壊ずゞンバブ゚の誕生


    1970幎代埌半、アメリカ合衆囜の倖亀政策における䞀぀の重芁な朮流が圢成されたした。それがカヌタヌ倧統領民䞻党、任−の「人暩倖亀」です。この政策の䞋で、アメリカは囜際舞台における人暩の保護ず促進に重きを眮きたした。その成果の䞀぀が、南ロヌデシアからゞンバブ゚ぞの移行です。

    南ロヌデシアは、むギリスからの独立を求める動きず、癜人少数掟の支配䜓制ずの間で深刻な察立を抱えおいたした。1965幎、南ロヌデシアは䞀方的に独立を宣蚀し、むギリスずの関係が断絶。癜人支配者による政暩は囜際瀟䌚からの承認を埗るこずができず、経枈制裁や囜際的な孀立を招いおいたした。䞀方で、アフリカ民族解攟運動は独立ず人暩の回埩を求め、歊装闘争を展開しおいたした。

    カヌタヌ倧統領は、1977幎に就任し、「人暩倖亀」を掲げたした。この政策の栞心は、囜際政治における人暩の保護ず民䞻䞻矩の促進でした。カヌタヌ政暩は、南ロヌデシア問題に察しおも積極的に介入したした。カヌタヌは、南ロヌデシアの癜人支配䜓制に察しお囜際瀟䌚からの圧力を匷化し、民䞻的な解決を促進するための倖亀的努力を行いたした。

    カヌタヌ倧統領のリヌダヌシップの䞋で、囜際瀟䌚は南ロヌデシア問題に察しお䞀貫した姿勢を取りたした。

    1979幎、ロヌデシア・ゞンバブ゚協定が成立し、南ロヌデシアはゞンバブ゚ずしお独立するこずが決定されたした。この協定は、カヌタヌ政暩の倖亀努力ず囜際瀟䌚の圧力が結実した成果ずされおいたす。1980幎には、ゞンバブ゚が正匏に独立し、ムガベが銖盞に就任したした。

    カヌタヌ倧統領の「人暩倖亀」は、南ロヌデシアの政治的倉革に察する重芁な圱響を䞎えたした。

    しかし、この政策には限界もありたした。南ロヌデシアの問題が解決したずはいえ、ゞンバブ゚の独立埌も囜内での政治的䞍安や経枈問題は続きたした。

    たた、「人暩倖亀」のアプロヌチが他の地域においおも同様に機胜するかどうかは疑問が残りたす。

    カヌタヌ倧統領の「人暩倖亀」は、南ロヌデシアの厩壊ずゞンバブ゚の誕生においお顕著な成果を䞊げたした。この政策は、囜際政治における人暩の重芁性を再認識させ、アメリカの倖亀政策の䞀぀の方向性を瀺すものでした。



     
     
    䞖界史を教えおいるAKSのnoteです。新期県燕䞉条地域出身。高等孊校地歎科教員。修士(教育孊)。この倏歳になった小孊䞀幎生息子の父芪。自分らしさを倧切にしながら、子育おず仕事を䞡立しおいきたいず思いたす。

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