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第105講 むタリアの統䞀ずロシアの改革

    105-1 リ゜ルゞメント運動ずむタリア王囜の成立


    むタリア統䞀運動「リ゜ルゞメント」の展開

    19䞖玀、ナショナリズムず自由䞻矩の圱響䞋、むタリア人の間では、オヌストリア支配からの祖囜解攟ず民族統䞀をめざす「リ゜ルゞメント運動」が高たった。

    19䞖玀前半、たず秘密結瀟1:カルボナリが、むタリア各地で起こった独立運動の䞭心ずなり、オヌストリア支配からの解攟を目指しお掻動したが、床重なる匟圧を受けお倱敗に終わった。

    続いお2:マッツィヌニが亡呜先のマルセむナで組織した政治結瀟3:青幎むタリアが共和䞻矩ず民族統䞀を掲げ床々蜂起したが、倱敗した。

    1848幎革呜の圱響䞋ロヌマ教皇領では、ロヌマ垂民の支持を倱ったロヌマ教皇が亡呜、男子普通遞挙で成立した憲法制定議䌚が1849幎2月共和政府の成立を宣蚀した。

    この4:ロヌマ共和囜 La Repubblica Romanaは1849幎2月に共和政府を宣蚀。マッツィヌニが入り䞉頭政治を圢成し、進歩的な憲法を制定したが、7月に倧統領ルむナポレオンが掟遣したフランス第二垝政軍に倒された。

    フランス軍ルむナポレオン掟遣に倒された。

    ロヌマ教皇が埩䜍、フランスは守備兵を眮いおロヌマ教皇領を保護した。

    ロマン掟オペラの代衚的䜜曲家ノェルディ5:ノェルディによる1848幎革呜期の諞䜜品は、むタリア統䞀運動の象城ずなった。特にオペラ『ナブッコ』では、むタリア人の祖囜解攟の情熱を衚珟し、むタリア統䞀運動を錓舞した。代衚䜜「リゎレット」「怿姫」「アむヌダ」。

    『ナブッコ』ずは、叀代バビロニアのネブカドネザルのこず。『ナブッコ』の合唱曲『飛べよ、わが思い (Va, pensiero)』がむタリア統䞀の象城ずなった。

    サルデヌニャのむタリア統䞀戊争

    18䞖玀サノォむア家がサノォむア・ピ゚モンテ・サルデヌニャ島を領域ずしお暹立したサルデヌニャ王囜䞀般にピ゚モンテず通称されるは、りィヌン䌚議でゞェノノァを獲埗、1848幎革呜では囜王カルロアルベルトが憲法を定めオヌストリアに宣戊したがラデッキヌ率いるオヌストリア軍にノノァヌラの戊いで敗北した第䞀次察オヌストリア戊争。

    有名な『ラデッキヌ行進曲』は、この時凱旋したラデッキヌ将軍を称えお䜜曲された。

    埌継の囜王6:ノィットヌリオ゚マヌ゚ヌレ2䞖は、貎族出身の自由䞻矩的な立憲䞻矩者7:カノヌルを銖盞に登甚、囜内の近代化ず囜際的地䜍向䞊に努めた。

    クリミア戊争に参戊しお英仏に接近、むタリア統䞀に関心が高いフランスのナポレオン3䞖ず亀枉し1858幎8:プロンビ゚ヌル密玄を結び、察オヌストリア戊争におけるフランスの支揎を受けるこずず匕き換えに、14:サノォむアず15:ニヌスのフランスぞの割譲を取り決めた。

    1859幎9:むタリア統䞀戊争第二次察オヌストリア戊争をおこし、ナポレオン3䞖率いる第二垝政フランス軍ず結んだサルデヌニャ軍は、皇垝フランツペヌれフ1䞖率いるオヌストリア軍を10:゜ルフェリヌノの戊いでやぶった。䞻力は第二垝政フランス軍。

    スむス人11:アンリデュナンは、戊堎で負傷者の救護掻動を行い、圓時の人道的掻動の圱響を受けお、戊堎における䞭立的な救護機関の蚭眮を提唱し、1864幎ゞュネヌノ条玄により12:囜際赀十字を創蚭した。

    サルデヌニャの匷倧化を恐れ、囜内䞖論の反察に盎面したナポレオン3䞖は7月、単独でオヌストリアずノィアフランカの和玄を結んだため、サルデヌニャは13:ロンバルディアを回埩したにずどたった。

    トスカナなど䞭郚むタリアのサルデヌニャぞの合䜵垌望を぀かんだカノヌルは、14:サノォむア・15:ニヌスのフランスぞの割譲でナポレオン3䞖から合意をえ。諞囜で䜏民投祚を実斜、1860幎3月16:䞭郚むタリア諞囜を䜵合した。


    ガリバルディの千人隊によるシチリア・ナポリ埁服千人隊の遠埁


    1860幎愛囜的軍人17:ガリバルディが、18:千人隊赀シャツ隊、Il Milleを率いおシチリア王囜ずナポリ王囜を埁服、サルデヌニャ王に献じた。「資本の時代」には新匏銃など匷力な新兵噚が登堎し、導入した偎は旧匏の歊噚しか持たない偎に圧勝できた。戊蟰戊争が奜䟋。

    りィヌン䌚議でスペむンブルボン家が統䞀を回埩した19:䞡シチリア王囜は1860幎、新匏歊噚で歊装したガリバルディの千人隊Il Milleに埁服された。ガリバルディの20:シチリア占領。

    カノヌルがすでに教皇領ず䞡シチリア王囜領でサルデヌニャ䜵合のための䜏民投祚の手続きをすたせおいたため、同幎南むタリアに䞊陞したガリバルディは、埁服地をサルデヌニャ王に献じた。

    むタリア王囜の成立

    1861幎、トリノでむタリアの代衚による囜䌚が開かれ、サルデヌニャ王囜の憲法を基にした新たな統䞀囜家21:むタリア王囜1861-1946が成立し、サルデヌニャ王をむタリア王ずした。郜は匕き続きトリノ1861-65に眮かれたが、65幎にフィレンツェに遷郜、ノェネツィアオヌストリア領ず教皇領フランスが守備兵を眮いおいたが普仏戊争の敗北で匕き揚げたを回収・䜵合したのち、71幎にロヌマに遷郜した。

    1866幎、プロむセンオヌストリア戊争にプロむセン偎で参戊、講和のプラハ条玄でノェネツィアを割譲され、1866幎末に22:ノェネツィアを䜵合した。

    1870幎、プロむセンフランス戊争に乗じおノァチカンを陀く23:ロヌマ教皇領を占領したが、ロヌマ教皇は認めず「ノァチカンの囚人」ず宣蚀、21:むタリア王囜ず察立した。




    105-2 ロシア皇垝1アレクサンドル2䞖の改革


    Keyword 1アレクサンドル2䞖 2蟲奎解攟什 3ミヌル 4ポヌランド民族運動5プチャヌチン  6日露和芪条玄 7暺倪千島亀換条玄

    アレクサンドル2䞖の改革


    ロシアではツァヌリ皇垝による専制政治が続いおきたが、クリミア戊争の敗北でロシアの埌進性を痛感した新皇垝1:アレクサンドル2䞖䜍1855-81は、進出先をアゞアに転じ぀぀、囜内の近代化に着手、1861幎2:蟲奎解攟什を出し蟲奎に身分的自由を認めた。

    分䞎地の取埗は「買取金」支払いによる有償ずされた。分䞎地の倚くは「買取金」完枈たで、䌝統的な蟲村共同䜓である3:ミヌルに匕き枡された。ミヌルは、蟲民が土地を共同で管理し、集団生掻を送る䌝統的な圢態の蟲村共同䜓である。

    ミヌルは「買取金」返枈を連垯保蚌する矩務を負い、蟲民は解攟埌もミヌルに瞛られた。19䞖玀末には「買取金」の返枈が終わるず、郜垂に出お劎働力ずしお工業化を支えた。こうした動きは19䞖玀末、ロシアの産業革呜を埌抌しした。

    蟲奎解攟什ではじたったアレクサンドル2䞖の「倧改革」は、蟲奎制の廃止、工業化の掚進、地方自治機関の蚭眮など、ロシアが近代的瀟䌚制床を導入する契機ずなった。

    ポヌランド民族運動


    アレクサンドル2䞖の改革期に高たったポヌランドの民族意識が、1863幎の城兵匷化をきっかけに爆発した。これを4:ポヌランド民族運動 1863-64ずいう。

    民衆のみならず領䞻シュラフタ局も参加する倧芏暡な民族運動は、ロシア軍の匟圧ずポヌランドぞの蟲奎解攟什発垃により終息、領䞻シュラフタの倚くが没萜し合衆囜に亡呜する者も倚くいた。

    ポヌランド民族運動は、アレクサンドル2䞖の「倧改革」が反動化する契機ずなった。たた、ポヌランド民族運動を支揎した英仏の劎働組合掻動家が1864幎、ロンドンで第䞀むンタヌナショナルを蚭立した。

    アレクサンドル2䞖のアゞア進出


    クリミア戊争に敗北、1856幎パリ条玄で黒海・バルカン半島方面で南䞋政策を阻止されたアレクサンドル2䞖は、進出先を極東ず䞭倮アゞアに転じた。枅ず䞭倮アゞアに぀いおは埌述。

    1855幎海軍提督5:プチャヌチンが日本ず6:日露和芪条玄を締結した。千島列島の埗撫島ず択捉島の間に囜境線が匕かれ、暺倪は䞡囜民混䜏の地ずされた。1858幎日露修奜通商条玄を締結した安政の五カ囜条玄の䞉番目。

    1875幎明治新政府ず7:暺倪千島亀換条玄を結び、暺倪をロシア領、埗撫島以北の千島列島を日本領ずした。条玄は1905幎ポヌツマス条玄で倱効した。南暺倪を日本がえたため。

    105-3 むンテリゲンツィア運動ず写実䞻矩文孊


    keyword 1むンテリゲンツィア 2ナロヌドニキ人民䞻矩者 3ノナロヌド人民の䞭ぞ  4テロリズム 5アレクサンドル2䞖を暗殺 6写実䞻矩リアリズム 7トゥルゲヌネフ 8ドスト゚フスキヌ 9眪ず眰 10トルストむ 11戊争ず平和


    ナロヌドニキの運動


    高等教育を受けた知識人ロシア語で「1:むンテリゲンツィア」の䞭に公然ず瀟䌚批刀を行う者が珟れ、1860幎代埌半から70幎代にかけおナロヌドニキ運動が展開された。

    思想家・運動家を地䞻本䜍の䞍培底な「倧改革」を批刀、培底した改革を求め1870幎代蟲村に入っお宣䌝・扇動した人々を2:ナロヌドニキずいう。圌らは、官憲に厳しく匟圧され、運動は挫折した。

    1860幎代埌半に思想が圢成され、1870幎代、特に1874幎の『人民の䞭ぞkhozhdenie v narod』運動で数千人のむンテリゲンツィアが蟲村ぞ入り、蟲民の啓蒙・扇動を詊みたが、蟲民の反応が薄く、官憲の匟圧で倧半が逮捕され、運動は挫折した。

    圌らは西欧ず異なり、蟲村共同䜓がロシア再生の出発点ず考えた。

    ナロヌドニキの名は、青幎・孊生が民衆啓蒙のために蟲村に入る際に唱えた暙語「3:ノナロヌド人民の䞭ぞ」に由来する。

    政治目的実珟のために暗殺や暎力的行為の行䜿を肯定する思朮・思想を4:テロリズムずいう。

    改革運動が挫折するず、ナロヌドニキの䞀郚はテロリズムに走り、過激な手段を取った。ナロヌドニキの䞀掟「人民の意思」掟が1881幎5:アレクサンドル2䞖を暗殺した。

    ナロヌドニキの掻動は、19䞖玀末の瀟䌚革呜党゚ス゚ル結成ぞず぀ながった。

    写実䞻矩文孊

    アレクサンドル2䞖時代はロシア文化の黄金期ずされ、文孊や音楜の名䜜があらわれた。ロマン䞻矩に察する反動ずしお、瀟䌚・珟実をありのたたに描く6:写実䞻矩が、19䞖玀半ばのフランスで提唱され、ペヌロッパ党䜓に波及し、ロシア文孊でも党盛を迎えた。

    代衚䜜『父ず子』1862幎で、瀟䌚改革のために新しいむンテリゲンツィアの゚ネルギヌが必芁であるこずを描いた7:トゥルゲヌネフは、ロシ写実䞻矩を代衚する䜜家。「『猟人日蚘』1852で蟲民の人間性を描き、蟲奎制廃止1861幎ぞの䞖論を高めた。『父ず子』1862では貎族階玚出身でないむンテリゲンツィアずその苊悩する粟神を描いた。

    革呜運動に参加し、シベリアに流刑ずなった経歎を持぀8:ドスト゚フスキヌは、死刑を宣告された䜓隓を通じお神秘䞻矩ずロシア正教の擁護者にかわり、人間の魂の救枈を目指す倧䜜を発衚した。代衚䜜は『9:眪ず眰』1866幎刊は、殺人をおかした青幎ラスコリニコフの反省ず苊悩を題材に、時代の閉塞状況のなかでくすぶる人間回埩ぞの匷い願望を蚎えた。『カラマヌゟフの兄匟』1880刊は䞍朜の名䜜。

    クリミア戊争に埓軍埌、郷里で蟲村子匟の教育にあたる䞀方、文孊においおリアリズムず人道䞻矩の結合をめざした10:トルストむは、晩幎、党おの戊争ぞの反察ず無抵抗䞻矩を含む独自の宗教芳をずなえ、ガンディヌの非暎力・非協力思想などに倧きな圱響を䞎えた。代衚䜜『11:戊争ず平和』1869幎刊は、ナポレオンのロシア遠埁時におけるロシア囜民の抵抗ず個人の成長を描いた歎史小説。



     
     
    䞖界史を教えおいるAKSのnoteです。新期県燕䞉条地域出身。高等孊校地歎科教員。修士(教育孊)。この倏歳になった小孊䞀幎生息子の父芪。自分らしさを倧切にしながら、子育おず仕事を䞡立しおいきたいず思いたす。

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