
第103講 太平天国と清の改革
103-1 中国各地の民衆運動・民族運動と太平天国
Keyword 1捻軍 2ミャオ族 3太平天国 4洪秀全 5拝上帝会 6上帝 7客家 8天京 9滅満興漢 10辮髪を廃止 11長髪賊 12纏足の廃止 13天朝田畝制度 14郷勇 15湘勇(湘軍) 16曾国藩 17淮勇(淮軍) 18李鴻章 19楚軍 20左宗棠 21常勝軍 22ウォード 23ゴードン
中国各地の民衆運動・民族運動
1850年代から60年代中国各地で民衆運動・民族運動がおこった。
1850~60年代、安徽省・河南省・山東省・江蘇省で塩の密売をおこなう武装集団(捻子)が政府に対して立ち上がった。これを1:捻軍という。68年に淮軍に鎮圧された。
貴州など中国南部の少数民族2:ミャオ族は、清代の改土帰流政策(同化政策)に抵抗し、18~19世紀、数次にわたって民族運動をおこした。
太平天国運動
1851年4:洪秀全を指導者とする3:太平天国運動がおこった。
3:太平天国の創始者4:洪秀全は、広東省の7:客家出身で科挙に失敗した。
キリスト教の影響を受け、独自の解釈を加え、広西省で宗教結社の5:拝上帝会を組織した。偶像破壊運動を開始して清朝と対立1851年、天王を称して3:太平天国を建てた。56年以降内紛が激化、64年の南京陥落前に病死した。
4:洪秀全が広西省で組織し、3:太平天国運動の中心となったキリスト教的宗教結社5:拝上帝会は、広西移民社会の下層民衆の支持を集めて、3:太平天国の母体となった。
19世紀キリスト教宣教師は「God」の訳として「6:上帝」を用いた。6:上帝は儒教では天上の帝王を指す。4:洪秀全は上帝(ヤハウェ)を唯一の神とし偶像崇拝を否定したが、拡大の過程で土着信仰の要素を加えた。
7:客家は4世紀五胡十六国の争乱をさけ、華北から南方に移住した人々の子孫と称する集団。独自の生活習慣や方言を維持し、先住の漢民族と対立することもあった。著名な出身者として、4洪秀全や劉永福、孫文、鄧小平、台湾の李登輝、シンガポールのリー=クヮンユーがいる。
太平天国の拡大と諸政策
4:洪秀全が5:拝上帝会を率い清朝に対抗して樹立した3:太平天国は、きびしい軍紀の下「9:滅満興漢」のスローガンで民衆の支持を集め、1853年に南京を占領し、長江中・下流域を支配した。
1853年南京を占領後8:天京と改称し、3:太平天国の都としたが、56年ここで3:太平天国が衰退に転じる内紛がおきた。*南京(建業、建康、金陵)は古代から幾度も陥落している。
3:太平天国は清朝打倒をめざすスローガン「9:滅満興漢」を掲げた。漢民族国家の復興をめざす「反清復明」を彷彿とさせ、地主を除く漢民族の支持をえた。彼らは清朝が漢民族に強制した10:辮髪を廃止し長髪にした。清朝は3:太平天国軍を11:長髪賊とよんだ。*地主は後述の理由により支持せ
太平天国の拡大と諸政策
洪秀全が拝上帝会を率い清朝に対抗して樹立した太平天国は、厳しい軍紀の下「9:滅満興漢」のスローガンで民衆の支持を集め、1853年に南京を占領し、長江中・下流域を支配した。
1853年南京を占領後8:天京と改称し、太平天国の都としたが、56年ここで太平天国が衰退に転じる内紛がおきた。*南京(建業、建康、金陵)は古代から幾度も陥落している。
太平天国は清朝打倒をめざすスローガン「9:滅満興漢」を掲げた。漢民族国家の復興をめざす「反清復明」を彷彿とさせ、地主を除く漢民族の支持を得た。彼らは清朝が漢民族に強制した10:辮髪を廃止し長髪にした。清朝は太平天国軍を11:長髪賊と呼んだ。*地主は後述の理由により支持せず。
太平天国は、幼女の足を折り曲げ布を巻き付けて足を小さく整形する風習12:纏足の廃止を禁止した。唐末五代に始まったとされるこの風習の廃止は、男女平等より、女性に仕事を分担させる目的があったとされる。
1853年に南京を占領した後、太平天国が掲げた土地制度を13:天朝田畝制度という。地主(郷紳)の田畑を没収し、男女の別なく土地を均分、余剰生産物は国庫におさめた。計画のみで実施されなかった。
太平天国の鎮圧
正規軍の八旗や緑営は無力で、地方官や郷紳が組織した私兵団14:郷勇が鎮圧を主導した。
15:湘勇(湘軍)は、16:曾国藩が湖南で組織した郷勇。太平天国鎮圧の主力部隊となり、64年に南京を攻略した。上級指揮官たちは湖南の読書人で、戦功により高級官僚となった者が多かった。
17:淮勇(淮軍)は、18:李鴻章が曾国藩の命を受け、安徽省で組織した郷勇。太平天国・捻軍鎮圧に貢献した。近代装備を誇る清朝最強の軍隊となる。李鴻章の私兵的性格を持ち、権力を支える基盤だった。
19:楚軍は、20:左宗棠が率いた。彼の軍団は太平天国鎮圧後、イリ事件でロシア軍と争った。
21:常勝軍は、太平天国鎮圧のため欧米人を指揮官とし上海で組織された義勇軍。1860年アメリカ人22:ウォードが上海商人たちの要請で外国人兵士による洋槍隊を組織した。やがて中国人を兵士として徴募、常勝軍と改名した。ウォード戦死後63年英国軍人23:ゴードンが指揮官となり、淮軍と共に太平天国軍と戦い64年に解散した。*ゴードンは英領スーダン都ハルツームで戦死した英国軍の英雄。
103-2 アロー戦争
Keyword 1アロー戦争 2アロー号事件 3宣教師殺害事件 4天津条約 5円明園を破壊 6咸豊帝 7北京条約 8九竜半島南部 9外国公使の北京駐在 10外国艦船の長江通行権 11キリスト教布教の自由 12外国人の内地旅行の自由 13仇教運動 14中国人の外国渡航 15移民 16苦力(クーリー) 17東シベリア総督 18ムラヴィヨフ 19愛琿(アイグン)条約 20北京条約 21沿海州 22ウラジヴォストク
アロー戦争とブリテン仏露の極東進出
南京条約後も中国への工業製品輸出はのびず、条約改定の機会をうかがっていたブリテンは1856年フランスと共に太平天国(1851-64)渦中の清に対し1:アロー戦争をおこした。ブリテンは自由党パーマストン内閣(ヴィクトリア女王)、仏はナポレオン3世の第二帝政。第二次アヘン戦争ともいう。
ブリテンは1856年広州でおこった2:アロー号事件を開戦の口実とした。清朝官憲がブリテン国旗を掲げて広州に停泊中の帆船アロー号の水夫を海賊の疑いで逮捕した。ブリテン領事は、清がブリテン船籍のアロー号船員を不当に逮捕、国旗を侮辱したとして抗議した。
仏は1856年広西省でフランス人宣教師が違法な宣教活動をしたとして清朝官憲に逮捕された。3:宣教師殺害事件を開戦の口実とした。
ブリテン仏連合軍は広州・天津を占領し1858年後述する7北京条約の内容①~⑥を含む4天津条約を結んだ。
清朝政府が天津条約の批准を拒むと、ブリテン仏軍は北京に進軍、カスティリオーネの設計で乾隆帝時代に完成したバロック様式の離宮5:円明園を破壊、略奪した。
第9代皇帝6:咸豊帝(位1850-61)は弟の恭親王に事態をゆだねて熱河に逃れ、清は降伏した。
1860年、7:北京条約が結ばれ、①~⑥を含む天津条約の内容を認め、さらにブリテンに8:九竜半島南部(香港の対岸)を割譲した。
ブリテン仏両国への賠償金支払い → 天津条約では600万両、北京条約で800万両に増額された。
9:外国公使の北京駐在を認める → 政府との直接交渉のため、対等外交の容認*恭親王による総理各国事務衙門の創設(後述)。
10:外国艦船の長江通行権を認めること
12:外国人の内地旅行の自由を認める → 租界の外での商業活動の自由
11:キリスト教布教の自由をみとめること → 中国人の信仰の自由と内地でのキリスト教布教 *人々は外国への反感を強め13:仇教運動や「滅洋」をとなえる義和団の成立につながった。
14:中国人の外国渡航を公認すること →15:移民が増え、合衆国では16苦力(クーリー)と呼ばれ大陸横断鉄道の建設(最初の横断鉄道開通が1869年)などに従事
南京など長江流域を含む新たな10港の開港 → 北京条約で天津を加えて11港となった
ロシアの極東政策
1847年ニコライ1世はシベリア東半からアラスカにいたる地域を統括する役職17:東シベリア総督を新設、総督府をイルクーツクに置き、軍人18:ムラヴィヨフを初代総督に任じた。
1858年、東シベリア総督ムラヴィヨフは、アロー戦争を利用して清に圧力をかけ、清露国境に関する19:愛琿(アイグン)条約を結び、黒竜江左岸(北岸)をロシア領、ウスリー川以東を共同管理地と定めた。復習 (黒竜江沿岸(右岸左岸とも)は、1689年ネルチンスク条約で清領と定めらた。
1860年アロー戦争で英・仏との講和を斡旋したロシアは清に要求し、清露間の20:北京条約を結び、アイグン(愛琿)条約で共同管理地とされたウスリー川以東をロシア領と定めた。
ウスリー川以東は21:沿海州と呼ばれ、1860年ムラヴィヨフは沿海州南端に海軍基地として22:ウラジヴォストクを建設、ロシア極東政策の拠点とした。
103-3 同治の中興と洋務運動
Keyword 1同治帝 2同治の中興 3西太后 4曾国藩 5李鴻章 6恭親王 7総理各国事務衙門 8洋務運動 9中体西用 10北洋艦隊 11威海衛 12ヤークーブ=ベク 13回民 14左宗棠 15イリ条約
同治の中興
第10代1:同治帝(咸豊帝と西太后の子、愛新覚羅載淳、廟号は穆宗、位1861-76)の治世(同治年間)、清朝が内政面で安定を取り戻したことを2:同治の中興という。
咸豊帝の側室で同治帝の母后3:西太后が、有能な満州人王族と協力し実権を握り、咸豊帝の皇后東太后とともに摂政となり、4:曾国藩、5:李鴻章、左宗棠ら郷勇出身の漢人官僚を起用、近代化をすすめた。同治帝は1873年親政をはじめたが、実権を握る西太后が改革を主導した。
満州人王族6:恭親王は1861年7:総理各国事務衙門を起き、西洋諸国との外交を担った。
洋務運動
1860年頃から清ではじまった、ヨーロッパの近代技術導入を中心とする富国強兵運動を8:洋務運動という。曾国藩、李鴻章、左宗棠らの漢人官僚が中心となって運動をすすめた。軍事工業部門からはじまり、70年代には軽工業にも拡大、鉄道建設や鉱山開発もすすめられた。
西洋文明導入を合理化するために、伝統的な中華文明が「本体」であり、西洋文明は利用すべき技術・手段にすぎないとする「9:中体西用」が洋務運動の基本的立場だった。
1888年、李鴻章が編成した新式海軍を10:北洋艦隊という。山東省の11:威海衛を基地として清朝海軍の主力となったが、日清戦争で敗れて壊滅した。
ヤークーブ=ベク運動とイリ事件
洋務運動の成果として、左宗棠が錬成した近代軍は、新疆でおこった回民の反乱を利用しようとした12:ヤークーブ=ベク運動を鎮圧し、イリ事件でロシア軍と対峙した。
西トルキスタンのコーカンド=ハン国出身の軍人12:ヤークーブ=ベクは、1870年代、東トルキスタンの13:回民の反乱を利用し、東西トルキスタンに独立勢力を打ち立てた(12:ヤークーブ=ベク運動)。
清は14:左宗棠率いる近代軍を派遣し、回民の反乱を鎮圧、ヤークーブ=ベクをおさえた。
1868年ブハラ=ハン国、1873年ヒヴァ=ハン国を保護国化したロシア(アレクサンドル2世)は、ヤークーブ=ベクを追撃し新疆に進入しイリ地方を占領(1871)、1876年コーカンド=ハン国を併合した。
左宗棠はロシア軍と対峙し、清は英仏の仲介で1881年15:イリ条約を結んだ。清はイリ地方の一部をロシアにゆずったが大半を取り戻し、ロシアに通商上の特権を与えた。