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第152講 東西両陣営の自由化・民主化

    152-1 西側諸国の新保守主義

    サッチャー首相の保守党政権

    連合王国(イギリス)初の女性首相となった保守党の1:サッチャー(任1979-1990)は、前任の労働党キャラハン内閣まで続いた福祉国家路線(大きな政府路線)を転換し、国有企業の民営化と競争促進政策、外国企業受け入れなど規制緩和をすすめ過度のインフレ抑制と政府や経済の効率化をめざす2:新保守主義の立場をとった。

    経済面では、米経済学者フリードマンらシカゴ学派の影響を受け、市場至上主義と個人の自由を重んじた。この立場を3:新自由主義という。

    *「新保守主義」とは、主に1970年代から1980年代にかけて、西側諸国で広まった政治的および経済的潮流を指します。この潮流は、伝統的な保守主義に加え、経済自由化と市場原理主義を重視する「新自由主義」的な側面を統合していることが特徴です。

    自由主義市場経済に信頼を置き、経済への介入を最小限にする政府を「4:小さな政府」という。

    労働党がすすめた福祉国家路線(大きな政府路線)は、高率の所得税と法人税や、国営企業の経営効率低下などにより5:ブリティシュ・ディジーズと揶揄された経済不振を深刻化させた。

    米共和党レーガン政権(81-89)や日本の中曽根自民党政権(82-87)、さらに西ドイツの6:コール中道右派連立政権(キリスト教民主同盟、任82-98)など、新保守主義が西側先進諸国の潮流となった。 フランス社会党の7:ミッテラン大統領(任81-95)も86年に保守連合が総選挙で勝利してからは、8:シラクを首相とし、この潮流に従った。

    新保守主義は、外交・軍事面では強硬路線をとった。1982年におきた9:フォークランド紛争では、英領フォークランド諸島(マルビナス諸島)の領有権を主張して占領を強行しようとしたアルゼンチンの軍事政権に対し、軍を送ってフォークランド諸島を奪回した。この結果、83年に軍事政権は崩壊し10:アルゼンチン民政移行が実現した。出兵に際し「この内閣に男はひとりしかいないのか!」と述べた。

    レーガン大統領と新冷戦(第二次冷戦)

    カーターの人権外交を批判して選挙に勝利し、1981年に就任した共和党の11:レーガン大統領は、ヴェトナム戦争やイラン革命とその影響で失われた合衆国の威信を回復し、財政赤字と貿易赤字の「双子の赤字」を解消するため、経済的には新自由主義、政治的には対外的に強硬な姿勢を取る新保守主義の立場をとった。*軍事費の増大により、実際には「双子の赤字」は解消されず、かえって増大した。

    日本は貿易黒字が続いたため、日米間の貿易をめぐる対立(12:貿易摩擦)がおこり、日本に対し自動車など工業製品の輸出規制や農産物などの市場開放を求めた。

    1985年9月、ニューヨークのプラザホテルでひらかれた先進5カ国財務相・中央銀行総裁会議で、円とマルクを高くし、ドル安に誘導することが合意された。これを13:プラザ合意という。1985年の1ドル=240円前後から1987年末には1ドル=140円前後へと、急速な円高が進んだ。

    レーガン政権は、ソ連のアフガニスタン侵攻以降再び鋭くなった米ソ対立(14:新冷戦(第二次冷戦))で対ソ強硬姿勢をとり、「15:強いアメリカ」をかかげ、スペースシャトルの成功(1981)など宇宙開発をすすめてソ連に対抗しつつ、ソ連の核抑止力の無力化をめざす16:戦略防衛構想 SDIをうちだした。

    カーターの人権外交を転換し、反ソ連、反社会主義の立場にたつ世界各地の政権を支援した。

    1983年、東カリブ海のグレナダに侵攻した(17:グレナダ侵攻)。グレナダでは、1979年からマルクス主義者のビショップ政権が続いていたが、ソ連と連携を深めるグレナダに対し、アメリカは「第二のキューバ」になると警戒を強めた。1983年にビショップ首相が失脚し、処刑された混乱に乗じて、アメリカはカリブ海諸国6か国とともにグレナダ侵攻を強行し、左派政権を打倒して親米政権を樹立させた

    中米ニカラグアでは、1979年の18:ニカラグア革命後、社会主義をかかげるサンディニスタ民族解放戦線と、保守派のコントラとのニカラグア内戦(1979~1990)が続いたが、レーガン政権はコントラ側を支援し、イランに武器を輸出して得た資金をコントラの支援にまわしたことが発覚(1986)した。この取引は議会が禁止していたニカラグアへの軍事支援を迂回するためだったが、なりふり構わず反共・反ソ勢力を支援する姿勢が批判を浴びた(イラン=コントラ事件)。


    152-2 東側陣営の変化とペレストロイカ

    Keyword 
    1:自主管理労組「連帯」 
    2:ワレサ 
    3:ヤルゼルスキ 
    4:ヨハネ=パウロ2世 
    5:ゴルバチョフ 
    6:グラスノスチ
    7:ペレストロイカ 
    8:アンドロポフ 
    9:チェルネンコ 
    10:チェルノブイリ原子力発電所事故 
    11:新思考外交 
    12:INF全廃条約 
    13:新ベオグラード宣言 
    14:アフガニスタンから撤兵

    ポーランド民主化運動

    ポーランドでは、1980年に 1:自主管理労組「連帯」が結成され、81年に2:ワレサが議長に就任した。

    一方、同81年に就任した3:ヤルゼルスキ首相は、民主化運動を押さえ込み、国内の政治的安定を保つため、1981年12月、ポーランド全土に戒厳令を布告した。

    1983年、初のポーランド出身のローマ教皇4:ヨハネ=パウロ2世が母国ポーランドを訪問し、「人間の顔をした社会主義」を求めた。ヤルゼルスキは戒厳令を解除、ワレサにはノーベル平和賞が贈られた。

    ソ連の改革


    ソ連では1985年書記長に就任した5:ゴルバチョフが、6:グラスノスチ(情報公開)を唱えて言論の自由化にふみきり、翌86年には7:ペレストロイカという全面改革路線を打ち出した。

    1980年代、ソ連では技術や経済の遅れが目立ちはじめ、改革の必要性が広く認識されはじめた。ソ連では、ブレジネフ第一書記(任1964-82)が死去したのち、8:アンドロポフ(任1982-84)政権、つづいて9:チェルネンコ(1984-85)政権が成立したが、いずれも指導力を発揮できずに短命に終わった。

    86年におきた10:チェルノブイリ原子力発電所事故で、ソ連が事故の情報を隠して非難を浴びた。ゴルバチョフはこれを機に改革を加速させた。

    *ゴルバチョフが提唱した「新思考外交」や「ペレストロイカ」などの改革派、ポーランド民主化運動やチェルノブイリ事故を経て加速した。

    外交面においては 11:新思考外交をうちだし、冷戦の抑制と対話を求めた。双子の赤字に苦しんでいたレーガン政権は歓迎し、1985年にはスイスでのジュネーヴ会談、1986年にはアイスランドでのレイキャヴィク会談と立て続けにゴルバチョフとレーガンのによる米ソ首脳会談が開かれた。

    1987年ゴルバチョフとレーガンはワシントンで12:INF全廃条約(中距離核戦力全廃条約)に調印し、初めて現実的な核軍縮が実現した。

    1988年ゴルバチョフは、訪問先のユーゴスラヴィアで13:新ベオグラード宣言を出し、ブレジネフ=ドクトリンで表明された制限主権論を放棄した。同88年にはジュネーヴでソ連はアフガニスタン、パキスタン、合衆国との間にアフガニスタン和平協定を調印し、翌89年に14:アフガニスタンから撤兵した。



    152-3 中華人民共和国の改革・開放


    Keyword 
    1:周恩来死去 
    2:華国鋒 
    3:毛沢東死去 
    4:江青 
    5:四人組を逮捕 
    6:鄧小平が復権 
    7:四つの現代化 
    8:経済特区 
    9:改革・開放 
    10:人民公社の解体 
    11:農業生産の請負制 
    12:日中平和友好条約 
    13:米中国交正常化 
    14:鄧小平 
    15:趙紫陽 
    16:胡耀邦 
    17:香港返還合意 
    18:一国二制度 
    19:李鵬 
    20:趙紫陽 
    21:江沢民 
    22:天安門事件 
    23:社会主義市場経済 

    改革・開放


    中華人民共和国は1976年、周恩来の死と毛沢東の死の後、左へ向かう文化大革命路線が否定され、右へ揺り戻す改革・開放路線に舵を切った。

    1976年、華国鋒の就任に際して、北京の天安門広場で江青らいわゆる四人組を批判する民衆運動が起こった。これを第一次天安門事件という。*一般的には単に「天安門事件」というと1989年の第二次天安門事件を指す。

    1:周恩来の死後、後任の首相に就任した2:華国鋒は、さらに1976年3:毛沢東死去後、党主席の地位を継ぎ、権力を維持し文化大革命路線を継続しようとした毛沢東夫人の4:江青らいわゆる5:四人組を逮捕した。

    *四人組とは江青・王洪文・張春橋・姚文元をいう。覚えなくて良い。

     1977年7月に6:鄧小平が復権したのち、8月には文化大革命の終結が宣言された

     翌78年には全国人民代表大会(全人代)第一回大会が開かれ、新憲法が公布されるとともに、生前の周恩来が提唱した「農業・工業・軍事・科学技術の7:四つの現代化」が基本路線とされ、8:経済特区を設置し、社会主義体制のもとで市場メカニズムを取り入れる「社会主義市場経済」を導入する9:改革・開放路線へと舵を切った。

    農村では新憲法にもとづいて10:人民公社の解体(1985年に完了)がはじまり、余剰生産物の自由な販売を認めた11:農業生産の請負制(生産請負制)が導入された。

    外交面でも新方針が掲げられ、1978年には12:日中平和友好条約に調印、79年には合衆国は民主党カーター政権との間で13:米中国交正常化が実現した(日中は72年、田中角栄内閣)。これに伴い、同79年、合衆国は台湾と断交し、中華人民共和国は中ソ友好同盟相互援助条約を破棄した。

    鄧小平指導体制の確立

    中華人民共和国では、最高指導者14:鄧小平のもとで、80年に華国鋒が国務院総理(首相)を辞任し、鄧小平の腹心の一人15:趙紫陽が後任となった。81年に華国鋒は党主席も辞任し、鄧小平の腹心の一人16:胡耀邦が第3代の党主席に就任した。*胡耀邦・趙紫陽は鄧小平の懐刀!両名の起用は鄧小平の権力基盤の安定と改革意欲を示す。

    82年に党主席は総書記と改められ、胡耀邦が初代総書記に就任、83年には李先念が国家主席になった。

    83年の体制 

    最高実力者:鄧小平 
    総書記:胡耀邦 
    国家主席:李先念 
    首相:趙紫陽

    84年に英サッチャー政権との間で懸案だった17:香港返還合意が成立した(97年返還)。香港には50年間社会主義を導入しないという18:一国二制度が盛り込まれた。

    1986年に民主化運動が高揚すると、翌87年に胡耀邦総書記が解任され、20:趙紫陽が第二代の総書記に就任した。首相には19:李鵬が就任し、88年には楊尚昆が国家主席となった。

    88年の体制
     
    最高実力者:鄧小平 
    総書記(第2代):趙紫陽 
    国家主席:李先念 
    首相:李鵬

    88年の体制
     
    最高実力者:鄧小平 
    総書記(第2代):趙紫陽 
    国家主席:楊尚昆 
    首相:李鵬

    天安門事件とその後

    民主化抑圧への不満もあって、89年には、学生や青年労働者による大規模な民主化要求運動がおこった。鄧小平は運動に同情的な20:趙紫陽総書記を解任して21:江沢民を後任とするとともに、人民解放軍を動員してこれを弾圧した。これを22:天安門事件(第2次天安門事件)という。*「六四天安門事件」といい、現中国ではタブーとされている。以後、共産党の一党独裁を維持して民主化を抑圧しつつ、社会主義体制のもとで市場メカニズムを取り入れる23:社会主義市場経済が既定路線となった。

    89年の体制 

    最高実力者:14:鄧小平 
    総書記(第3代):江沢民 
    国家主席:楊尚昆 
    首相:李鵬


    参考図書


    解説 

    単なる「防衛」構想ではなかった戦略防衛構想(SDI)


    冷戦の最中、アメリカは戦略防衛構想(SDI)を通じて、これまで続いてきた二極化構造を終わらせ、圧倒的な優位性を築くという壮大な目標を掲げました。

    アメリカとソ連という超大国が核兵器を互いに突きつけ合い、相互確証破壊(MAD)に基づく平和を保つ冷戦の構図は、実は非常に脆弱な均衡の上に成り立っていました。この状況を打破する鍵は、敵の攻撃を無力化し、防衛に特化した技術を手に入れることにありました。SDIは単なる防衛技術の開発ではなく、アメリカがソ連を含む他国に対して、軍事、経済、そして科学技術のあらゆる面で優位に立つことを目指した壮大な構想だったのです。

    レーガン政権が掲げたこの計画は、ソ連を軍拡競争に巻き込むための戦略的武器としての側面も持っていました。すでに経済的に疲弊していたソ連にとって、アメリカと同等の防衛技術を開発することは、莫大なコストを伴うものでした。アメリカはSDIを通じて、ソ連にさらなる経済的負担を強いると同時に、その技術的限界を露呈させることで、国際社会における自国の圧倒的な技術力を誇示しました。これにより、冷戦構造を支える二極化の力の均衡は徐々に崩れ始め、ソ連は軍事的優位どころか経済的持続可能性すら失うこととなったのです。

    このようにして、アメリカは冷戦という地政学的ゲームにおいて勝者となり、二極化状態から一極支配体制への移行を実現しようとしました。SDIは、技術開発が国際政治を動かし得ることを示す象徴的な存在であり、またそれを通じて世界秩序を自国主導のものへと変革しようとするアメリカの戦略的意志の表れでした。

    こうして築かれた一極支配体制は、冷戦後の国際社会において、アメリカが政治的、経済的、軍事的リーダーシップを発揮する基盤となり、今もなおその影響を見せ続けています。

    SDIそのものは実現しなかったものの、その背後にあった戦略的意図とその結果は、アメリカが覇権を握る道筋を作り上げた重要な一手であったと言えるでしょう。

     
     
    世界史を教えているAKSのnoteです。新潟県燕三条地域出身。高等学校地歴科教員。修士(教育学)。この夏7歳になった小学一年生息子の父親。自分らしさを大切にしながら、子育てと仕事を両立していきたいと思います。

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