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第141講 アゞア諞囜の独立

    先生「今回は䞭東諞囜の独立に぀いお孊びたしょう。たず、戊埌の英仏の動揺に぀いお話したしょう。第二次䞖界倧戊は、敗戊囜だけでなく、戊勝囜ずなったグレヌトブリテンやフランスの勢力圏にも倧きな圱響を䞎えたした。」

    セカコ「そうですね  ブリテンやフランスは戊勝囜だったのに、結果的に、怍民地を手攟すこずになりたした。」

    先生「ブリテンでは、保守党の1:チャヌチル内閣に代わり、劎働党の2:アトリヌ内閣が成立したした。この内閣は、怍民地の独立を挞進的に進めたしたが、特にパレスチナや南アゞアにおける劥協的で安易な決定が、珟圚たで続く察立を生み出したした。䟋えば、パレスチナ問題やむンド・パキスタン分離独立のこずですね。」

    セカコ「ブリテンが怍民地を手攟したこずで、いろいろな問題が生たれたんですね。フランスはどうだったんですか」

    先生「フランスの堎合は、戊埌すぐに3:ドゎヌルを銖班ずする臚時政府1944-46が成立したした。その埌、4:第四共和政1946-58ぞず移行したした。この第四共和政の憲法では、旧怍民地や旧保護囜を本囜ず察等な暩利ず矩務を持぀5:フランス連合の構成囜ず定めたした。しかし、これが問題を匕き起こしたした。」

    セカコ「うヌん  怍民地の人々は、察等な暩利を䞎えられるよりも、完党な独立を求めおいたからですか」

    先生「その通りです。独立を求めるアゞア・アフリカの民族運動をフランスは『反乱』ずみなし、歊力で抑え蟌もうずしたした。その結果、アゞアでは6:むンドシナ戊争1946-54、アフリカでは7:アルゞェリア独立戊争1954-62ずいった倧芏暡な戊争が起こりたした。最終的に、カンボゞア1953幎、ラオス、そしおノェトナム民䞻共和囜の独立を認めざるを埗なくなりたしたが、これらの戊争がフランス囜内の政治にも圱響を䞎え、1958幎には第四共和政が厩壊したした。」

    セカコ「フランスもブリテンず同じように、怍民地を倱っおいったんですね。でも、独立を求める動きは䞭東でも起こったんですよね」

    先生「その通りです。䞭東では、第二次䞖界倧戊䞭から戊埌にかけお、英仏の委任統治領が次々ず独立したした。䟋えば、ブリテンの委任統治領だった8:むラク王囜は、フサむンの子ファむサルを囜王ずしお1932幎に独立したした。同じくフサむンの子アブドラを囜王ずするトランスペルダンも、ブリテンのアトリヌ政暩が委任統治暩を攟棄したこずで、1946幎に独立し、1949幎には9:ペルダン王囜ず改名したした。」

    セカコ「むラクやペルダンは、ブリテンの支配から独立したんですね。他にはどんな囜が独立したんですか」

    先生「フランスの委任統治領だった囜々も独立したした。䟋えば、10:レバノン共和囜は1943幎に、11:シリア共和囜は1946幎に独立したした。たた、゚ゞプトはそれよりも早く1922幎に独立しおいたしたが、1945幎にはカむロでパンアラブ䌚議を開催したした。この䌚議では、゚ゞプト、サりゞアラビア、む゚メンの䞉カ囜に加え、新たに独立したむラク、ペルダン、シリア、レバノンの四カ囜を合わせた䞃カ囜で、アラブ人諞囜の連携を目的ずした12:アラブ連盟が結成されたした。」

    セカコ「アラブ諞囜が連携するための組織ができたんですね。でも、パレスチナの問題はどうなったんですか」

    先生「良い質問ですね。パレスチナ問題は非垞に耇雑です。第䞀次䞖界倧戊埌、パレスチナはグレヌトブリテンの委任統治䞋に眮かれおいたした。この地域には、むスラヌム教埒が倚数を占めるアラブ人パレスチナ人ず、ナダダ教埒が倚数を占めるナダダ人が共存しおいたした。しかし、ブリテンのアトリヌ政暩が委任統治暩を攟棄し、事埌凊理を囜連に付蚗したした。その結果、囜連総䌚は1947幎11月に13:パレスチナ分割決議を採択したした。この決議では、パレスチナをアラブ人囜家ずナダダ人囜家に二分するこずが提案されたした。」

    セカコ「でも、それっおアラブ人にずっお䞍利だったんですよね」

    先生「その通りです。分割案は少数掟のナダダ人に有利で、倚数掟のアラブ人に䞍利なものでした。呚蟺のアラブ諞囜はそろっお反察したしたが、囜連総䌚の倚数決制により可決されたした。このこずから、囜際連合の倚数決制が必ずしも最善ではないずいう意芋もありたす。」

    セカコ「それで、ナダダ人はどうしたんですか」

    先生「1948幎5月、ナダダ人偎は14:ベングリオンを銖盞ずしお新囜家15:むスラ゚ルの建囜を宣蚀したした。これに察しおアラブ人偎は匷く反発し、16:パレスチナ戊争第䞀次䞭東戊争、1948-49が勃発したした。この戊争では、1945幎のカむロ䌚議で結成された17:アラブ連盟諞囜゚ゞプト、シリア、レバノン、サりゞアラビア、ペルダン、むラク、む゚メンがただちにむスラ゚ルに䟵攻したした。」

    セカコ「アラブ諞囜が団結しお戊ったんですね。結果はどうなったんですか」

    先生「アメリカの支揎を受けたむスラ゚ルが勝利したした。その結果、むスラ゚ルは分割案よりも広い領土を獲埗したした。䞀方で、゚ゞプトはガザ地区、ペルダンはペルダン川西岞地区を確保したしたが、パレスチナ囜家の建蚭は事実䞊䞍可胜ずなりたした。この戊争の結果、倧量の18:パレスチナ難民が生じ、珟圚たで続くパレスチナ問題が生たれたした。」

    セカコ「パレスチナ問題は、こうしお始たったんですね  。戊埌の䞭東の独立は、単に怍民地支配から解攟されるだけではなく、新たな察立や問題を生み出したんですね。」


    141-1 䞭東諞囜の独立 

    英仏の動揺

    第二次䞖界倧戊は、敗戊囜だけでなく、戊勝囜ずなった英仏の勢力圏も揺るがした。

    ブリテンは保守党1:チャヌチル内閣にかわった劎働党2:アトリヌ内閣のもずで挞進的に怍民地の独立をすすめたが、パレスチナや南アゞアにおける劥協的で安易な決定は、珟圚たで続く察立を生み出した。

    フランスは3:ドゎヌルを銖班ずする臚時政府1944-46から4:第四共和政1946-58ぞず移行したが、第四共和囜憲法は、旧怍民地や旧保護囜を本囜ず察等な暩利ず矩務を持぀5:フランス連合の構成囜ず定めた。このため、独立を求めるアゞア・アフリカの民族運動を反乱ず断じ、アゞアで6:むンドシナ戊争1946-54、アフリカで7:アルゞェリア独立戊争1954-62に盎面した末、カンボゞア1953・ラオス・ノェトナム民䞻共和囜を認めたが、1958幎に第四共和政は倒れた。

    アラブ諞囜の独立

    倧戊䞭から倧戊埌にかけお䞭東の英仏委任統治領が盞次いで独立した。

    英委任統治領のうち、フサむンの子ファむサルを囜王ずする8:むラク王囜は1932幎に委任統治を終了し独立した。

    同じくフサむンの子アブドラを囜王ずするトランスペルダンも英アトリヌ政暩が委任統治暩を攟棄し1946幎独立、49幎9:ペルダン王囜ず改名した。

    英アトリヌ政暩はパレスチナ委任統治暩も攟棄した埌述。

    仏委任統治領のうち、1943幎10:レバノン共和囜が、1946幎11:シリア共和囜が独立した。

    先に独立を果たしおいた゚ゞプトは1945幎カむロでパンアラブ䌚議を開催し、゚ゞプト1922幎独立・サりゞアラビア1932幎成立・む゚メン1918独立の䞉ヶ囜に、新たに独立したむラク・ペルダン・シリア・レバノンの四カ囜を加えた7カ囜で、アラブ人諞囜の連携を目的ずした12:アラブ連盟を結成した。

    パレスチナの独立問題


    第䞀次䞖界倧戊埌ブリテンの委任統治䞋にあったパレスチナでは、むスラヌム教埒が倚数のアラブ人パレスチナ人ずナダダ教埒が倚数のナダダ人が共存しおいたが、ブリテンのアトリヌ政暩が委任統治暩を攟棄し事埌凊理を囜連に付蚗したのを受け、囜連総䌚は1947幎11月、パレスチナをアラブ人囜家ずナダダ人囜家に二分する13:パレスチナ分割決議 Partition Plan for Palestineを採択した。

    少数のナダダ人に有利で、倚数を占めるアラブ人に䞍利な分割決議が、呚蟺のアラブ諞囜がそろっお反察したにもかかわらず、総䌚の倚数決制により可決された。

    囜際連盟の党䌚䞀臎制が批刀され、囜際連合の倚数決制が良しずされる堎合が倚いが、パレスチナ分割決議の䟋を芋るず、倚数決制が最善ずいうこずではないように思われる。

    1948幎5月ナダダ人偎は14:ベングリオンを銖盞ずする新囜家15:むスラ゚ルの建囜を宣蚀した。

    アラブ人偎は反発し、䞭東戊争が勃発した16:パレスチナ戊争、第䞀次䞭東戊争1948-49。

    1945幎カむロのパンアラブ䌚議で結成された17:アラブ連盟諞囜゚ゞプト、シリア、レバノン、サりゞアラビア、ペルダン、むラク、む゚メンはただちにむスラ゚ルに䟵攻したが、アメリカの支揎をうけたむスラ゚ルが勝利した。

    戊争の結果むスラ゚ルは決議案よりも広い領土を獲埗した。゚ゞプトはガザ地区、ペルダンはペルダン川西岞地区を確保したが、パレスチナ囜家建蚭が事実䞊䞍可胜ずなった。これにより、倧量の18:パレスチナ難民が生じ、珟圚たで続くパレスチナ問題が生じた。

    141-2 南アゞアの独立


    先生南アゞアの独立に぀いお孊んでいきたしょう。たずはむンドずパキスタンの独立から説明したす。第二次䞖界倧戊の終結埌、むギリスの怍民地支配に察する反発が䞀局匷たり、むンドの独立はもはや避けがたい情勢ずなっおいたした。

    セカコ戊前から、すでに独立は避けられないずいう雰囲気だったように思いたす。

    先生そういう芋方もできたすね。問題は、その独立の「圢」でした。むンドには倚数の宗教・民族集団があり、特に察立が深刻だったのが、倚くの支持者がヒンドゥヌ教埒であった囜民䌚議掟ず、むスラヌム教埒を䞭心ずする1:党むンドムスリム連盟でした。

    セカコ圌らは䞀緒の囜ずしおの独立を望たなかったんですか

    先生そうです。1:党むンドムスリム連盟は、䞀぀の統䞀囜家ではむスラヌム教埒の暩利が十分に保障されないずいう懞念を持っおおり、別個の囜家「パキスタン」の建囜を求めおいたのです。䞀方、ネルヌら囜民䌚議掟は、宗教の違いを超えた統䞀むンドを目指しおいたした。むギリスのアトリヌ内閣は調停の末、1947幎に2:むンド独立法を制定したす。この法埋によっお、むンド連邊ずパキスタン自治領ずしお分離・独立するこずが定められたした。

    セカコアトリヌ内閣は、䞡掟の劥協をあきらめお、分離ずいう圢で独立を承認したわけですね。これが、珟圚たで残るむンドずパキスタンの察立の始たりずなったわけだ。チャヌチルだったらどうしただろう」

    先生いい芖点ですね。アトリヌ内閣の遞択、぀たりヒンドゥヌ教埒䞭心のむンド連邊ずむスラヌム教埒䞭心のパキスタンに分離しお独立を認めたこずは、確かに埌の察立の火皮ずなりたした。仮に戊時䞭の銖盞だったチャヌチルがそのたた戊埌も政暩を握っおいたずしたら、どう行動したず、セカコさんは考えたすか

    セカコチャヌチルは確か、垝囜䞻矩的な立堎でしたよね。戊前もむンドの独立運動には匷く反察しおいたず思いたす。なかなか独立を認めようずしなかったかもしれたせん。

    先生そうですね。チャヌチルは培底した垝囜維持掟で、特にむンドの独立運動に察しおは極めお吊定的でした。たずえば、ガンディヌの断食運動を「策略」だず非難したり、戊時䞭のむンドの飢饉に察しおも冷淡な察応を取ったず批刀されおきたした。圌が戊埌政暩を取っおいたなら、あくたで仮定にもずづく掚論ですが、むンドの独立そのものを倧幅に遅らせおいた可胜性がありたす。

    セカコずいうこずは、ヒンドゥヌずむスラヌムの察立が歊力衝突にたで発展するような混乱は、避けられたかもしれないけれど、逆にむンドはもっず長い間怍民地にずどたっおいた可胜性もあるわけですね。

    先生確かに、もしチャヌチルが匷硬に怍民地支配を継続しようずしたなら、むンド内郚の民族運動はさらに激化し、暎動や抵抗運動の匟圧も拡倧したかもしれたせん。そしお、結果的に分離独立のプロセスはもっず悲惚な圢になっおいた可胜性も吊定できたせん。

    セカコそう考えるず、アトリヌ内閣の決断は、分離ずいう痛みを䌎っおはいたけれど、ある意味では最悪の事態を避けるための遞択でもあったんですね。

    先生そのずおりです。圓時の状況を考えるず、完党な平和的独立は非垞に困難で、分離による独立承認がもっずも珟実的で迅速な手段だったず評䟡する歎史孊者も倚いのです。もちろん、その埌の印パ戊争やカシミヌル問題に続く苊悩の歎史も、忘れおはならない䞀面です。

    セカコわかりたした。

    先生さお、独立したヒンドゥヌ教埒倚数の囜家は3:むンド連邊ず呌ばれ、初代銖盞にはネルヌが就任したした。圌の任期は1947幎から64幎に及びたす。圌は、怍民地支配から脱华したばかりのむンドを近代囜家ずしお導く䞭心的な存圚ずなりたした。このむンド連邊はアメリカ合衆囜のような連邊制囜家であり、各州が自治暩を持ちながらも䞀぀の囜家ずしおたずたっおいたす。

    先生その埌、1950幎には新しい憲法が制定され、むギリス王宀ぞの忠誠を廃し、完党な䞻暩囜家ずしお5:むンド共和囜が成立したした。

    セカコむギリス囜王ではなく自囜の倧統領を元銖ずしたずいうこずですね。

    先生そうです。そしおこの憲法の起草を䞻導したのが、6:アンベヌドカルです。アンベヌドカルは、圓時「䞍可觊民」ずされおいた瀟䌚的立堎にありながら、法孊者ずしお高い知芋を持ち、憲法起草委員長を務めたした。圌の尜力により、むンド憲法にはカヌスト制床に基づく身分差別の犁止が明蚘されるこずになりたした。

    セカコですが、実際には差別は残っおしたったのでしょうか。地理総合では、南アゞアには今も差別が根匷く残っおいるず教わりたした。

    先生そうですね。憲法で犁止されおも、瀟䌚に根深く残る偏芋は簡単には消えたせんでした。アンベヌドカルは晩幎、そのこずに匷く倱望し、抗議の意思ずしお仏教に改宗しおいたす。

    先生䞀方、むスラヌム教埒が倚数を占めるパンゞャヌブ地方、シンド地方、そしお東ベンガル州は7:パキスタンずしお分離・独立したした。圓初の銖郜はカラチでしたが、埌にむスラマバヌドぞず移されたす。そしお、初代総督には8:ゞンナヌが就任したした。圌もたた、独立運動の指導者ずしお重芁な存圚です。

    セカコゞンナヌ、分離独立を蚎え続けた人物ですね。

    先生そうです。䞀方、宗教の違いを超えお共存するむンドを理想ずした9:ガンディヌは、その理念の象城ずも蚀える存圚でした。しかし、圌の平和䞻矩的な考え方は䞀郚の過激なヒンドゥヌ教埒にずっおは敵意の察象ずなり、぀いには暗殺されおしたいたす。

    セカコずおも悲しい結末です。

    先生そしおむンドずパキスタンは、独立盎埌から領土をめぐっお察立したす。特に問題ずなったのが、藩王はヒンドゥヌ教埒でありながら䜏民の倚数がむスラヌム教埒であった10:カシミヌル州です。カシミヌル州では、䜏民の倧倚数がむスラヌム教埒だったにもかかわらず、ヒンドゥヌ教埒である藩王がむンドぞの垰属を決めたこずが争いの原因ずなりたした。この地の垰属をめぐっお、1947幎に11:第䞀次むンドパキスタン玛争が勃発したす。囜連が仲裁に入り、停戊が実珟したしたが、根本的な解決には至りたせんでした。

    先生その埌も緊匵は続き、1965幎には第二次戊争、さらに1971幎には第䞉次むンドパキスタン戊争が起こりたす。この戊争の結果、パキスタンの東郚、すなわち東パキスタンか぀おの東ベンガルが12:バングラデシュずしお新たに独立したした。

    セカコかなり耇雑で、深刻な察立が続いおいたんですね。


    セカコの䞖界史ノヌト むンドパキスタン戊争
    1947幎 第䞀次むンドパキスタン戊争 ネルヌ
    1965幎 第二次むンドパキスタン戊争 むンディラガンディヌ
    1971幎 第䞉次むンドパキスタン戊争 むンディラガンディヌ


    先生次に、同じ英領むンド垝囜から独立した他の地域、぀たりミャンマヌずスリランカに぀いお芋おいきたしょう。

    先生たず、旧名ビルマ、珟圚の13:ミャンマヌは1948幎にビルマ連邊共和囜ずしお独立したした。ですが、独立埌すぐに共産党や少数民族による内乱が頻発し、政情は非垞に䞍安定でした。そしお1962幎には14:ネりィン将軍がクヌデタを起こし、軍事政暩が成立したす。

    セカコ軍政はどんな政策をずったのですか

    先生ネりィン政暩は、「ビルマ匏瀟䌚䞻矩」ず呌ばれる独自の路線を打ち出し、産業の囜有化や貿易の統制を通じお経枈の自立を目指したした。しかしその結果、囜際瀟䌚から孀立し、経枈は著しく停滞したした。

    先生この軍政に察し、民䞻化を求めお運動の先頭に立ったのが、ビルマ独立の父アりンサン将軍の嚘、15:アりンサンスヌチヌです。圌女は埌にノヌベル平和賞も受賞するなど、囜際的にも高い評䟡を受ける人物ずなりたす。

    先生次に、同じくむギリスから独立したのがセむロン、珟圚のスリランカです。セむロンは1948幎に自治領ずなり、1972幎に完党に独立したした。ですが、ここでも深刻な問題がありたした。怍民地時代にむギリスが優遇しおいた16:タミル人ず、倚数掟の17:シンハラ人ずの間に、激しい民族察立が起こったのです。

    セカコタミル人は少数掟だったんですよね

    先生はい。タミル人は䞻にヒンドゥヌ教を信仰し、ドラノィダ語族に属するタミル語を話したす。䞀方、シンハラ人はむンドペヌロッパ語族むンドむラン語掟のシンハラ語を話し、仏教、特に䞊座郚仏教を信仰する人々です。怍民地時代に築かれたこの優遇ず差別の構図が、独立埌に逆転し、長期にわたるスリランカ内戊の原因ずなりたした。


    むンドずパキスタンの独立

    戊埌、むンドの独立は既定路線ずなったが、統䞀むンドを求めるネルヌら囜民䌚議のグルヌプず、パキスタンの分離独立を掲げる1:党むンドムスリム連盟の察立が激しくなった。1947幎、アトリヌ内閣のもずで(2:むンド独立法)が制定され、むンドずパキスタンの分離・独立が定められた。

    英連邊の䞀囜ずしお独立した(3:むンド連邊)は、4:ネルヌが銖盞任1947-64ずなり、ヒンドゥヌ教埒が倚数を占める連邊制囜家ずなった。1950幎には新憲法を制定しお英王宀ぞの忠誠を吊定し、(5:むンド共和囜)ずなった。䞍可觊民出身の6:アンベヌドカルが憲法起草委員長を぀ずめ、身分差別が憲法で犁止された。しかし差別は残り、圌は晩幎、根匷い差別に抗議し仏教に改宗した。

    むスラム教埒が倚数をしめるパンゞャヌブ地方・シンド地方ず東ベンガル州は、7:パキスタン銖郜カラチ、のちむスラマバヌドずしお分離・独立し、8:ゞンナヌが総督任1947-48ずなった。

    宗教の違いを乗り越え「ひず぀のむンド」をめざした9:ガンディヌは、ヒンドゥヌ教埒に暗殺された。

    䞡囜は、藩王がヒンドゥヌ教埒だが䜏民の倚数をむスラヌム教埒が占める10:カシミヌル州カシミヌル藩王囜の垰属めぐり察立、11:第䞀次むンドパキスタン玛争1947がおきたが、囜連の仲裁で停戊した。

    その埌、第二次むンドパキスタン戊争1965を経お、第䞉次むンドパキスタン戊争1971の結果、東ベンガルが12:バングラデシュずしおパキスタンから独立した。

    ミャンマヌ・スリランカの独立


    英領むンド垝囜からは他にミャンマヌずスリランカが独立した。

    英領ビルマ珟13:ミャンマヌは1948幎にビルマ連邊共和囜ずしお独立した。共産党や少数民族の内乱が぀づいお政情は䞍安定であった。62幎のクヌデタで14:ネりィンの軍事政暩が成立し、産業囜有化や貿易統制による経枈の自立をめざしたが、ビルマの囜際的な孀立ず経枈の停滞をもたらした。アりンサンの嚘15:アりンサンスヌチヌが民䞻化を求める運動の先頭に立った。

    セむロンスリランカは同幎自治領ずなり、72幎に独立した。英囜は怍民地時代に少数民族の16:タミル人タミル語はドラノィダ語族、宗教はヒンドゥヌ教が倚数を優遇したため、独立埌は倚数をしめる17:シンハラ人シンハラ語はむンドペヌロッパ語族むンドむラン語掟、宗教は䞊座郚仏教が倚数ずの民族察立が激化し、20䞖玀埌半スリランカ内戊がおこった。




    141-3 東南アゞアの独立


    先生「東南アゞアの独立に぀いお孊びたす。たず、戊埌の東南アゞア地域の独立運動の背景に぀いお説明したす。第二次䞖界倧戊䞭に日本が東南アゞアを占領しおいたしたが、日本の敗戊埌にこの地域でどのような動きがあったか、知っおいたすか」

    セカコ「日本の敗戊埌、東南アゞアの倚くの地域は独立を求めたした。しかし、か぀おの宗䞻囜、぀たり怍民地支配をしおいた囜々はこれを認めず、そのため各地で独立運動が掻発になりたした。」

    先生「そうですね。今回は、東南アゞアの独立に぀いお、あらかじめ調べおきおもらいたした。順番に確認しおいきたしょう。たず、フィリピンを芋おいきたしょう」

    セカコ「フィリピンは1946幎にアメリカ合衆囜から独立したした。そしお、1:フィリピン共和囜が成立したした。囜内では共産䞻矩勢力が土地改革を芁求し、抵抗運動が続いおいたした。政府はアメリカずの関係を維持し、1951幎には2:米比盞互防衛条玄を結びたした。」

    先生「そうですね。次に、英領マレヌ。珟圚のマレヌシアを芋おいきたしょう。ここでも独立運動ず共産䞻矩勢力の動きが絡み合っおいたした。英領マレヌではどんなこずが起きおいたしたか」

    セカコ「日本軍の占領時には、華人瀟䌚が匟圧されおいたした。このこずに察する抵抗運動が起きおいたした。そしお、共産䞻矩勢力も勢力を拡倧しおいたした。1948幎にむギリスがマレヌ人に有利な3:英領マラダ連邊を蚭立したした。」

    先生「その埌、華人の圱響力が匷いマラダ共産党がこの連邊に反察しお歊力闘争を開始したした。むギリスはこの闘争に察しおどのように察応したず思いたすか」

    セカコ「むギリスは歊力で培底的に匟圧し、1957幎には正匏に4:マラダ連邊ずしお独立を認めたした。」

    先生「そうです。むギリスは独立を認める䞀方で、共産䞻矩勢力の排陀に力を入れたした。さらに1963幎には、マラダ連邊にシンガポヌルずボルネオ北郚のサバ、サラワクを加えお5:マレヌシア連邊が成立したす。しかし、1965幎に重倧な分裂が起きたす。䜕が原因で、䜕が起こったのでしょうか。」

    セカコ「マレヌシアの政策がマレヌ人を優遇するものでした。埌にブミプトラ政策ず呌ばれたすが、これをめぐっお華人ずの政策の違いが倧きな問題ずなりたした。その結果、シンガポヌルは6:分離しお独立したした。」

    先生「そうですね。この1965幎ずいうのは、東南アゞアにずっお重芁な幎なので芚えおおいおください。むンドネシアでは・事件が起きおスカルノ倧統領が倱脚し、軍人スハルトが台頭したした。アメリカが北爆を開始し、ノェトナム戊争が本栌化した幎でもありたす。これらの情勢の倉化ず危機感が、二幎埌の1967幎に東南アゞア諞囜連合ASEANの蚭立に぀ながりたす。さお、1965幎のシンガポヌルの独立は平和的に行われたした。マレヌシアの7:アブドゥル・ラヌマン銖盞Tunku Abdul Rahmanずシンガポヌルの8:リヌ・クアンナヌ銖盞Lee Kuan Yewの間で合意がなされ、察立を避けおの独立ずなりたした。次にむンドネシアの独立に぀いお話したしょう。むンドネシアは日本敗戊盎埌に独立を宣蚀したしたが、宗䞻囜はこれを認めたせんでした。独立を宣蚀した人物は誰ですか」

    セカコ「独立を宣蚀したのはむンドネシア囜民党の9:スカルノです。圌らはオランダネヌデルラントず独立をめぐっお戊いを続けたした。」

    先生「はい、その通りです。玄4幎間のむンドネシア独立戊争の末、1949幎に10:ハヌグ協定によっおむンドネシア共和囜の独立が正匏に認められたした。スカルノは政暩を維持するためにどのような支持基盀を䜜ったでしょう」

    セカコ「スカルノは自身の政党であるむンドネシア囜民党NASを䞭心に、むスラヌム勢力Aや1920幎に結成されたむンドネシア共産党COMの支持も取り付けお匷力な政暩を䜜りたした。この䜓制はNASACOM䜓制ナサコム䜓制ず呌ばれおいたす。」

    先生「よく調べおありたすね。1955幎、スカルノは11:バンドンで12:アゞアアフリカ䌚議を䞻催し、アゞアずアフリカの怍民地独立運動を支揎する囜際的な連垯を深めたした。アゞアアフリカ䌚議がむンドネシアで開催された理由の䞀぀は、スカルの時代のむンドネシアが、NASACOM䜓制ナサコム䜓制により、囜内基盀が磐石で、米゜二倧囜の干枉を受けにくい立堎にあったためです。

    セカコ「なるほど。䞭孊校で、アゞア・アフリカ䌚議、むンドネシアのバンドン、ず暗蚘しおいたしたが、䞖界史を孊んでみるず、ちゃんずそれなりの理由があるんですね。」

    先生「そういうこずになりたす。次は、タむに行きたしょう。」

    セカコ「タむは第二次䞖界倧戊䞭は日本偎に぀き、アメリカやむギリスに宣戊垃告したした。しかし戊埌、この宣戊垃告は手続き䞊無効だったず宣蚀し、敗戊囜ずなるこずを回避したした。そのため、独立を保ち、1946幎には囜際連合にも加盟したした。」

    先生「そうですね。タむは巧みに戊埌の囜際政治を乗り切ったわけです。」

    セカコ「タむはただ、ラタナコヌシン朝が続いおいるんですよね。」

    先生「そうです。タむは珟圚2025幎もラタナコヌシン朝の囜王ラヌマ10䞖を君䞻ずする立憲君䞻制です。」

    セカコ「先生がタむは受隓生に優しい囜だずおっしゃっおいたした。王朝が、スコヌタむ朝、アナタダ朝、ラタナコヌシン朝の぀しかないからだず。」

    先生「そうでしたね。タむの教科曞には、もっず詳しく茉っおいたすが、日本の䞖界史教科曞や受隓䞖界史では、その぀だけでいいよいう意味です。䞖界史教科曞の範囲では、䞀応、6䞖玀に成立したドノァヌラノァティヌもタむに成立した王囜なのですが、これはミャンマヌずタむにたたがっお掻躍したモン人の王朝になりたす。」

    セカコ「でた、ドノァヌラノァティヌ。芚えにくい難敵です。」

    先生「東南アゞアは、入詊ではそれほど深く出ないので、ドノァヌラノァティヌもそうですが、名前ず時期ず䜍眮を芚えおしたえば埗点源ですよ。さお、フランス領むンドシナ、぀たり珟圚のベトナム、ラオス、カンボゞアの独立問題に進みたしょう。ここは特に混乱が長匕きたした。たず、ベトナムで抗日運動を展開した民族統䞀戊線の名前は䜕でしたか」

    セカコ「13:ノェトナム独立同盟䌚ベトミンです。その指導者は有名な14:ホヌチミンです。郜垂名にもなっおいる人ですね」

    先生「そうですね。日本の敗戊埌、ホヌチミンは1945幎9月に15:ノェトナム民䞻共和囜の独立を宣蚀したしたが、フランスはこれを認めたせんでした。その結果、1946幎から1954幎たで続く長い戊争が始たりたす。これを䜕ず蚀いたすか」

    セカコ「16:むンドシナ戊争です。」

    先生「そうでうね。第二次むンドシナ戊争ずも呌ばれるノェトナム戊争ず玛らわしいので、区別しおおいおください。むンドシナ戊争は盞手が旧宗䞻囜のフランス、時期が1946幎から1954幎です。第二次むンドシナ戊争ずも呌ばれるノェトナム戊争は䞻な盞手がアメリカ合衆囜、時期が、ノェトナムの南北戊争ずいう芋方をすれば1955幎から1975幎、アメリカの本栌的な介入である北爆を起点ずすれば1965幎から1975幎です。」

    セカコ「ノェトナムの珟代史も難敵です。䜕ずか頑匵りたす。」

    先生「フランスは南郚のサむゎンを拠点に、阮朝最埌の王であった17:バオダむを元銖ずする18:ノェトナム囜を立おお察抗したした。しかし、戊況は次第にフランスに䞍利ずなり、1954幎の19:ディ゚ンビ゚ンフヌ芁塞の戊いで倧敗したした。これをきっかけにスむスのゞュネヌブで䌚議が開かれ、䜕が成立したでしょうか」

    セカコ「20:ゞュネヌブ䌑戊協定です。」

    先生「そうですね。この敗北はフランス囜内にも倧きな衝撃を䞎え、1954幎から1962幎たで続くアルゞェリア独立戊争の匕き金ずもなりたした。䌑戊協定の結果、ノェトナムは北緯17床線で北ず南に分割されたした。北はホヌチミンが指導する22:ノェトナム民䞻共和囜、南は阮朝のバオダむが远攟され、新たに倧統領ずなった23:ゎディンゞ゚ムが率いる24:ノェトナム共和囜ずなりたした。この䞡囜はどの囜の支揎を受けおいたしたか」

    セカコ「北は䞭華人民共和囜ず゜連の支揎を受け、南はアメリカの支揎を受けおいたした。」

    先生「その通りです。こうしおベトナムは東西冷戊の代理戊争の舞台ずなりたした。ゞュネヌブ䌚議ではラオスずカンボゞアの独立も正匏に認められたした。ラオスではどのような政治状況が起こりたしたか」

    セカコ「ラオスでは巊掟の25:パテトラオず右掟の察立が激しくなり、内戊状態になりたした。」

    先生「よく調べおありたすね。カンボゞアは」

    セカコ「カンボゞアでは囜王26:シハヌヌクが䞭立政策を掚進したした。」

    先生「VERY GOOD。東南アゞアの独立問題は耇雑で、倚くの囜が内戊や冷戊の圱響を受けながら自囜の未来を暡玢したした。次回以降に、これらの囜々が冷戊期にどのように動いおいったのかを芋おいきたす。」


    東南アゞアの独立


    第二次䞖界倧戊䞭、日本の占領䞋にあった東南アゞア諞地域は、日本の敗戊埌にただちに独立を求めたが、宗䞻囜はこれを認めず、各地で独立運動がおこった。

    フィリピンでは、1946幎にアメリカ合衆囜から独立しお1:フィリピン共和囜が成立したが、政府は合衆囜ぞの接近を深め、51幎2:米比盞互防衛条玄にを結んだ。いっぜう、共産䞻矩勢力は土地改革を芁求しお抵抗を぀づけた。

    英領マレヌでは、日本軍占領䞋での華人瀟䌚ぞの匟圧に察する抵抗運動ずずもに共産䞻矩勢力が拡倧した。1948幎にブリテンがマレヌ人に有利な3:英領マラダ連邊を成立させた。

    華人の圱響力の匷いマラダ共産党はこれに反察しお歊力闘争を開始した。ブリテンは培底した匟圧を加え、57幎に正匏に4:マラダ連邊ずしお独立させた。

    63幎、マラダ連邊、シンガポヌルにボルネオ北郚のサバ・サラワクを加えお5:マレヌシア連邊が成立したが、65幎、マレヌ人優遇のちのブミプトラ政策をめぐる華人政策のちがいを理由に6:シンガポヌルが分離、独立した。マレヌシアの7:アブドゥルラヌマン銖盞ずシンガポヌルの8:リヌクァンナヌ銖盞により平和的に分離、独立がなされた。

    むンドネシアでは日本の敗戊盎埌にむンドネシア囜民党の9:スカルノらが独立を宣蚀し、それを認めない宗䞻囜ネヌデルラントずの間に4幎にわたる独立戊争を぀づけ、1949幎ハヌグ協定で10:むンドネシア共和囜の独立を認めさせた。スカルノはむンドネシア囜民党NASを母䜓に、むスラヌム勢力A、むンドネシア共産党1920幎結成、COMの支持も埗お匷力な政暩を維持し、1955幎11:バンドンで12:アゞアアフリカ䌚議を䞻催した。

    スカルノが、むンドネシア囜民党NASを母䜓に、むスラヌム勢力A、むンドネシア共産党1920幎結成、COMの支持も埗お匷力な政暩を維持した䜓制を、NASACOM䜓制ナサコム䜓制ずいう。

    タむは、倧戊䞭日本偎に立っお米・英に宣戊しおいたが、戊埌になっおこの宣戊垃告を手続き䞊無効であったず宣蚀しお敗戊囜ずなるこずを回避し、独立を維持しお1946幎に囜際連合にも加盟した。

    フランス領むンドシナの独立問題


    フランス領むンドシナでは、戊埌も混乱が続いた。

    1941幎に結成され抗日運動を展開した民族統䞀戊線13:ノェトナム独立同盟䌚ベトミンの指導者14:ホヌチミンが、日本敗戊埌1945幎9月15:ノェトナム民䞻共和囜の独立を宣蚀したが、フランス偎が認めず、8幎間におよぶ16:むンドシナ戊争194654がはじたった。

    フランス本囜は南郚のサむゎンを拠点に、阮朝最埌の王45幎に退䜍17:バオダむを元銖ずしおフランス連合の䞀員である 18:ノェトナム囜1949-55を立おお察抗した。

    しかしフランス偎はしだいに劣勢ずなり、54幎には19:ディ゚ンビ゚ンフヌ芁塞の戊いでフランス軍が敗北したのを機に、スむスでゞュネヌブ䌚議が開かれ、20:ゞュネヌブ䌑戊協定が成立した。

    フランスの敗北を機に、フランス第四共和政に察するアルゞェリア独立戊争1954~62がはじたった。

    ゞュネヌブ䌚議ず䌑戊協定の結果、21:北緯17床線を境界に、北偎をホヌチミンを囜家䞻垭ずする22:ノェトナム民䞻共和囜が、南偎をバオダむを远攟した23:ゎディンゞ゚ムを倧統領ずする24:ノェトナム共和囜が支配するようになり、前者はが䞭・゜、埌者は米の支揎を受けお察立を深めた。 ゞュネヌブ䌚議ではたた、すでに独立を宣蚀しおいたラオスずカンボゞアの独立が正匏に承認された。

    ラオスでは巊掟25:パテトラオず右掟の政治察立があっお内戊ずなった。

    カンボゞアでは囜王26:シハヌヌクが䞭立政策をすすめた。

     
     
    䞖界史を教えおいるAKSのnoteです。新期県燕䞉条地域出身。高等孊校地歎科教員。修士(教育孊)。この倏歳になった小孊䞀幎生息子の父芪。自分らしさを倧切にしながら、子育おず仕事を䞡立しおいきたいず思いたす。

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