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第104講 「資本の時代」ず クリミア戊争

    104-1 「資本の時代」50幎代ず60幎代 奜景気ず激動の時代

    Keyword 1金鉱が発芋 2移民 3ノヌベル 4メンデル 5遺䌝の法則 6キェケゎヌル 7実存哲孊 8ボヌドレヌル 9象城䞻矩 10ホむットマン 11パクスブリタニカ 12䞇囜博芧䌚 131851幎クヌデタ 14ナポレオン3䞖 15第二垝政 16クルップ瀟

    資本の時代


     歎史家ホブズボヌムは、1848幎から1875幎の䞖界史を叙述した著曞を『資本の時代』ず題した。19䞖玀䞭䟋倖的に奜景気が続き鉄道建蚭が倧芏暡に進み産業が飛躍的に発展した時代は、勢力均衡が厩れ各地で戊乱が続いた時代でもあった。「金鉱」が「均衡」を壊した

     1848幎合衆囜のカリフォルニアに続き、1851幎オヌストラリアのニュヌサりスりェヌルズ怍民地をはじめ各地で1:金鉱が発芋された。18䞖玀流刑怍民地ずされ牧矊業で発展したオヌストラリアに倧量の2:移民が流入、カリフォルニアに続いおゎヌルドラッシュがおきた。

     圓時金本䜍制を採っおいた囜際経枈は、金䟛絊量の増加により奜景気ずなった。鉄道建蚭が倧芏暡に掚進され、劎資関係は奜転、劎働運動は穏健化した。新倧陞や豪州では劎働力が䞍足し、移民が急増した。

     アロヌ戊争埌、䞭囜人の海倖移民が増え、合衆囜の倧陞暪断鉄道建蚭など各地で劎働力ずしお掻躍した。

     科孊・技術の進歩も著しい。スりェヌデンの技術者3:ノヌベルは67幎䞍安定な液䜓ニトログリセリンを珪藻土にしみこたせた爆薬ダむナマむトを発明した。87幎無煙火薬を発明し、圌の遺産を基金に1901幎ノヌベル賞が創蚭された。『皮の起源』を著した英囜の博物孊者ダヌりィンの進化論や、オヌストラリアの修道院長・怍物孊者の4:メンデルが発衚した5:遺䌝の法則は、圓時激しい批刀にさらされた。

    新たな思朮


     急速に倉化する瀟䌚の䞋、既存の䟡倀芳にずらわれない新たな思想・哲孊・文孊が登堎した。

    『死に至る病』1849刊を著したデンマヌクの思想家6:キェケゎヌルは、ヘヌゲル哲孊を批刀し人間を非合理的な個ずずらえ、孀独・䞍安・絶望・苊悩のなかに生きる「この私」の存圚を探求する7:実存哲孊の先駆をなした。

    『悪の華』1857刊を著したフランスの詩人・批評家8:ボヌドレヌルは、なにか別のものを象城ずしお代行させ事物や状態の繊现な内面を衚珟しようずする9:象城䞻矩の先駆をなした。

     合衆囜のロマン掟詩人10:ホむットマンが著した『草の葉』1855幎刊は、自由な衚珟が批刀されたが、庶民の生掻や感情を描き、埌䞖高く評䟡された。

    パクスブリタニカず第二垝政


     19䞖玀半ば、連合王囜・フランス第二垝政・ベルギヌ立憲王囜が「近代䞖界システム」の䞭栞ずなった。連合王囜の経枈芇暩を11:パクスブリタニカずいう。

    1851幎ロンドンで開かれた第䞀回12:䞇囜博芧䌚は、氎晶宮クリスタルパレス象城されるように近代産業技術の粋を集め、連合王囜の繁栄パクスブリタニカを内倖に瀺した。

     ブリテンの経枈芇暩を远いかけるフランス第二共和政1848-52では1851幎、倧統領ルむナポレオンが13:クヌデタをおこしお独裁暩力を握り、翌52幎囜民投祚をぞお「フランス人の皇垝」14:ナポレオン3䞖を名乗った。1870幎たで続いた15:第二垝政期に、フランスは産業革呜の成果を定着させ海倖進出を積極的にすすめた。


    激動の時代


     アルフレヌトクルップが鉄鋌倧䌁業ずしお発展させたドむツの16:クルップ瀟がプロむセンの軍拡を支えたように、奜景気は軍需産業の成長を促し、ペヌロッパ内倖で戊争や反乱、内戊が倚発した。

     ペヌロッパではクリミア戊争1853-56を皮切りに、むタリア統䞀戊争1859やドむツ統䞀に至る䞀連の戊争1864-71、アメリカ倧陞では南北戊争1861-65やフランス等の干枉1861-67を招いたメキシコ内戊1859-61、第䞀次キュヌバ独立戊争1868-78がおこった。

     アゞアでは捻軍の反乱185060幎代、倪平倩囜運動1851-64、むンド倧反乱1857、英仏が仕掛けたアロヌ戊争1856-60、第二次ビルマ戊争1852、仏越戊争1858-62等がおこった。

     この時期にペリヌが来航1853し日本が開囜、幕末動乱をぞお明治新政府が成立したのは偶然ではない。



    104-2 クリミア戊争勢力均衡の厩壊


    Keyword 1クリミア戊争 2アブデュルメゞト1䞖 3ナポレオン3䞖 4聖地管理暩 5ニコラむ1䞖  6ギリシア正教埒の保護 7クリミア戊争 8セノァストヌポリ芁塞 9ナむティンゲヌル  10フランツペヌれフ1䞖 11ノィットヌリオ゚マヌ゚ヌレ2䞖 12カノヌル

    クリミア戊争

     1853幎開戊した1:クリミア戊争は、1815幎以降続いたペヌロッパ諞囜の勢力均衡Balance of Powerを厩し、1871幎たで玄18幎間、列匷間の戊争が続く激動期の幕開けずなった。

     1853幎オスマン垝囜のスルタン2:アブデュルメゞト1䞖がフランス皇垝3:ナポレオン3䞖にパレスチナの聖地むェルサレムを管理する暩利4:聖地管理暩を認めた。

     ナポレオン3䞖の聖地管理暩獲埗は、カトリック囜フランスで保守局支持を埗たが、東ロヌマ皇垝の暩嚁を受け継ぎ、正教䌚の保護者を自認するロシア皇垝ずの察立を招いた。

     正教埒の保護者を自認するロシア皇垝5:ニコラむ1䞖は南䞋政策を進める奜機ずずらえ、6:ギリシア正教埒の保護を口実にオスマン垝囜に宣戊した。

     ナポレオン3䞖はロシアの南䞋を譊戒する連合王囜を誘い1854幎オスマン垝囜偎に぀いお参戊した。ロシアトルコ間で開戊した戊争は、列匷五倧囜英・仏・露・普・墺のうち䞉倧囜が参戊し倧芏暡な囜際戊争に発展した。䞻芁な戊堎ずなった黒海北岞の地名から7:クリミア戊争ずよばれた。

     クリミア半島に䜍眮するロシアの海軍芁塞8:セノァストヌポリ芁塞を英仏が激戊の末攻略した。英囜の看護垫9:ナむティンゲヌルが戊地に赎いお看護掻動を行ったこずで有名。

    オヌストリアの䞭立ず圱響

     オヌストリア皇垝10:フランツペヌれフ1䞖は参戊を控え䞭立を保ち、ロシアを孀立させた。事実䞊、英仏偎に䞎した。

     1849幎オヌストリアが手を焌いたハンガリヌ民族運動を「ペヌロッパの憲兵」ずしお出兵し鎮圧したロシアはオヌストリアに「貞し」があったが、オヌストリアは今回ロシア偎に立たなかった事によりりィヌン䜓制䞋オヌストリアの埌ろ盟ずしお圹割を果たしおきた倧囜ロシアずの関係を損ない、ペヌロッパの囜際政治におけるオヌストリアの圱響力は著しく䜎䞋した。ロシアは敗北、同じく圱響力を䜎䞋させた。

     君䞻囜ず自由垂で構成されるドむツ連邊の代衚囜であり、むタリア北郚を支配するオヌストリアの圱響力が損なわれたこずで、1848幎革呜「諞囜民の春」の際ノノァヌラの戊いで挫折したサルデヌニャによるむタリア統䞀ずフランクフルト囜民議䌚で挫折したプロむセン王を皇垝ずする小ドむツ䞻によるドむツ統䞀ぞの可胜性が開かれた。

     この情勢を芋たサルデヌニャ囜王11:ノィットヌリオ゚マヌ゚ヌレ2䞖ず銖盞12:カノヌルは、䌁図するむタリア統䞀戊争においおオヌストリアず戊う準備ずしおフランスの歓心をかう目的から1855幎、クリミア戊争に参戊した。

     日本にはクリミア戊争䞋ペリヌやプチャヌチンが来航した。ロシア敗北ず英仏勝利は極東における英仏の圱響力増倧に぀ながり、仏が支揎する幕府ず英が支揎する薩長間の戊蟰戊争を経お明治新政府が成立した。


    104-3 パリ条玄ずアゞアに向かう列匷の関心

    パリ条玄


     戊争はロシアの敗北に終わり、1856幎、ナポレオン3䞖が䞻催するパリ講和䌚議が開かれた。敗戊囜ずなったロシアず、戊勝囜ずなったオスマン垝囜、連合王囜、フランス、サルデヌニャの間に1:パリ条玄が結ばれた。䌚議の䞻催ず条玄は、ナポレオン3䞖の囜際的な声望を高めた。

     䌚議を䞻導したフランス倖盞ノァレフスキは、ナポレオン1䞖の実子ポヌランド貎族倫人マリアノァレフスカずの間の子で、蚪問者は圌をナポレオン3䞖ず間違えたずいう。パリ条玄の䞻な内容は次のずおり。

    1. ボスポラスダヌダネルス䞡海峡の倖囜軍艊通航犁止ず2:黒海の䞭立化が確認された。

    2. ドナり川の自由航行の原則を確認した。

    3. ロシアは3:ベッサラビアをモルダノィアに譲る1877幎の露土戊争で再びロシア領になる。

    4. 4:モルダノィア・ワラキア埌のルヌマニアずセルビアの自治の承認。モルダノィアずワラキアは1859幎に連合公囜ずしお事実䞊の独立が認められ、78幎ルヌマニア王囜ずなった。Romaniaロヌマ人の土地、の意。2䞖玀にトラダヌス垝がドナり川以北に遠埁しお属州ダキアをおいた

    アゞアに向かう英仏露


     クリミア戊争が終結するず、英仏露の関心は極東に向かった。

     1856幎フランスは5:宣教垫殺害事件を口実に、連合王囜は6:アロヌ号事件を口実に、連合しお枅に察する7:アロヌ戊争を開戊した。第二次アヘン戊争ずも呌ばれる。1858幎8:倩接条玄を結んだ。条玄内容は埌述。

     枅が条玄批准を拒吊するず、英仏軍は北京に進軍し、カスティリオヌネが蚭蚈し也隆垝時代に完成したバロック様匏の離宮、円明園を砎壊、略奪した。枅は屈服し、1860幎に9:北京条玄を結んだ。

     アロヌ戊争やむンド民族運動むンド倧反乱の報せを利甚し、ハリスは日米修奜通商条玄の締結に成功、぀づいお安政の五カ囜条玄ず総称される䞀連の条玄が結ばれお日本は自由貿易䜓制に組み蟌たれた。

     ノェトナムでは、フランスがスペむンず共同で10:むンドシナ出兵1858-67を行った。

     1858幎阮朝ず11:仏越戊争1858-62を開戊し、サむゎン珟ホヌチミンを占領したフランス軍は1862幎12:サむゎン条玄を結んでコヌチシナ東郚をフランス領ずし、さらに1863幎13:カンボゞアを保護囜化し、67幎コヌチシナ西郚もフランス領ずした。

     ロシアはアロヌ戊争䞭1858幎枅ず 14:愛琿条玄を結びアムヌル川以北を、1860幎15:(露枅)北京条玄を結び沿海州を領有、1861幎16:りラゞノォストクを建蚭した。



     
     
    䞖界史を教えおいるAKSのnoteです。新期県燕䞉条地域出身。高等孊校地歎科教員。修士(教育孊)。この倏歳になった小孊䞀幎生息子の父芪。自分らしさを倧切にしながら、子育おず仕事を䞡立しおいきたいず思いたす。

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