
第150講 国際秩序の再編
150-1 デタントと国際秩序の再編
デタント(緊張緩和)
1969年以降西側の指導者によって進められた東西対話の動きを1:デタント(緊張緩和)という。 1969年、民主党のジョンソン大統領に代わった共和党の2:ニクソン大統領(任1969~74)は、安全保障の負担軽減のため,アジアに対するアメリカの軍事介入を縮小し,同盟国の自力防衛にゆだねる方針を表明し(3:ニクソン=ドクトリン)、ヴェトナムからの名誉ある撤退を目指して4:キッシンジャー補佐官(のち国務長官)の主導で各国と対話を進めた。
1968年のプラハの春に対する弾圧事件によって権威を低下させてしまったソ連(ブレジネフ政権)は対話に応じ、米ソ間に1969年5:戦略兵器制限交渉 (SALT I、 Strategic Arms Limitation Talk I , 1969-72)が始まった。 核弾頭の数の制限(注意、削減ではない)を目指したこの交渉は1972年に妥結、調印された。同年、第二次戦略兵器制限交渉(SALT II、1972-79)が開始された。*SALT IIは1979年妥結したが、その後ソ連のアフガニスタン侵攻が起こり、合衆国が批准しなかったため、未発効に終わった。
米ソ間に1972年6:核兵器現状凍結協定が、73年7:核戦争防止協定が締結された。
ニクソン政権は日本の佐藤栄作内閣と沖縄返還で合意し、1972年8:沖縄返還が実現した。
ニクソン大統領は1972年中華人民共和国を電撃訪問し、国交正常化を進めた。
中華人民共和国では、文化大革命が続く一方、中ソ対立が続き、1968年プラハの春に対する弾圧事件で中華人民共和国はソ連を強く非難、1969年にはダマンスキー島(珍宝島)で軍事衝突が起きた(珍宝島事件、9:中ソ国境紛争)ことで対立は決定的となり、中華人民共和国には合衆国に接近する誘因が生じた。
こうした情勢を受け、1971年7月、4:キッシンジャー補佐官が極秘で訪中したのち、2:ニクソン大統領は翌年に訪中すると発表した。この電撃発表を第一のニクソン・ショックという。
同年、中華人民共和国では、合衆国を敵視し文化大革命を主導して毛沢東の後継者と規約に記された10:林彪がクーデタに失敗して事故死した。以後、政府は合衆国との接近に舵を切った。
同年末、国際連合では、中華民国(台湾)の追放と、中華人民共和国の加盟が決議された(アルバニア決議)、中華人民共和国は台湾に代わって安保理の常任理事国(五大国)の地位を授けられた(11:中国の国連代表権交代)。
ニクソンは1972年2月に訪中(12:ニクソン訪中)して米中共同声明を発表した。
72年9月、13:田中角栄首相訪中により、14:日中共同声明が発表され、15:日中国交正常化が実現した。*16:米中国交正常化は79年のカーター政権に持ち越された。
ドル=ショック
合衆国はヴェトナム戦争の戦費に苦しみ、財政赤字と貿易赤字の17:双子の赤字を抱えた。 1971年8月、ニクソン大統領は、金とドルの兌換(交換)停止(金ドル本位制の停止)と為替相場の切り上げ、輸入品に対する課徴金設定を発表した。これを18:ドル=ショック、または第二のニクソン・ショックという。
同年12月、19:スミソニアン協定が成立し、日本の円や西ドイツのマルクなどを切り上げ、ドル安となる為替レート(1ドル=308円、それまでは1ドル=360円)を設定した。
円高とマルク高、ドル安は予想をこえて進行し、1973年には各国が20:変動為替相場制に移行せざるをえなくなった。
ドル=ショックによって、21:ブレトンウッズ国際経済体制が崩壊し、世界経済は合衆国・西欧・日本の三極構造に向かった。
米軍のヴェトナム撤退とニクソン辞任
72年大統領選挙で再選されたニクソンは、1973年にヴェトナムからの撤退を完了したが、同年石油危機に直面して経済が悪化し、選挙の際に民主党本部に盗聴器を仕掛けていたことが明らかとなった22:ウォーターゲート事件の責任をとって74年に辞任した。 1973年、23:ヴェトナム(パリ)和平協定が結ばれ24:米軍のヴェトナム撤退を実現した。
1974年の25:ニクソン辞任は、大統領が任期途中で辞任した唯一の例。副大統領26:フォードが昇格した。
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デタントについての詳細を以下にまとめます。
時期
1960年代後半から1980年代初頭:デタントは主にこの時期に展開されました。特に、1969年から1979年までの間に重要な進展が見られました。
背景
冷戦の緊張状態:米ソ間の核戦争の恐怖と政治的緊張が高まっていた。
キューバ危機:1962年のキューバミサイル危機は、核戦争の危険性を世界に示しました。
国内の反戦運動:ベトナム戦争に対する米国内の反戦運動が政府に圧力を加えた。
経済的な要因:両国とも経済的な負担が重く、軍縮への関心が高まっていました。
過程
対話と交渉の開始:1970年代初頭、米ソは積極的な対話と交渉を開始しました。
SALT I協定:1972年、米ソ間で戦略兵器制限交渉(SALT I)が締結されました。
ヘルシンキ宣言:1975年、ヘルシンキでの会議で35カ国がヘルシンキ宣言を採択し、国際的な協力と人権の尊重を促進しました。
SALT II協定:1979年にはSALT II協定が締結されましたが、ソ連のアフガニスタン侵攻により批准はされませんでした。
成果
核兵器の制限:戦略兵器の制限と減少に成功しました。
米中関係の改善:1972年のニクソン大統領の中国訪問は、米中関係の改善につながりました。
東西ドイツの関係改善:東西ドイツ間の関係が改善し、東西の境界線での緊張が緩和されました。
国際的な安定の促進:デタントは一時的に国際的な安定を促進し、冷戦の最中の緊張緩和に貢献しました。
デタントは、冷戦の緊張緩和と国際関係の改善に重要な役割を果たしましたが、1980年代初頭には米ソ関係の再緊張によりその影響力が減少しました。それでも、その遺産は今日の国際関係の基盤の一部となっています。
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150-2 ヨーロッパでの緊張緩和
ブラントの東方外交
ドイツ連邦共和国(西ドイツ)では1949年の建国以来、アデナウアーを党首とする中道右派のキリスト教民主同盟(CDU、Christlich-Demokratische Union)が政権を担当してきたが、1969年に戦後初めて、中道左派のドイツ社会民主党(SPD、Sozialdemokratische Partei Deutschlands)が政権を握り、1:ブラント政権(1969-74)が成立した。
右派CDUの政権は、「ひとつのドイツ」という理念に固執し、東ドイツの存在だけでなく、東ドイツを認める国との国交も拒否してきた。左派社会民主党の新政権は、「ふたつのドイツ」という現実を認め、東ドイツとの国交正常化交渉を進め、ソ連や東欧諸国とも積極的な外交を展開した。これを2:東方外交 Ostpolitik(または東方政策)と呼ぶ。
1970年に、3:ソ連=西ドイツ武力不行使条約を結ぶとともに、同年、4:西ドイツ=ポーランド国交正常化を実現し、5:オーデル=ナイセ線を承認した。1970年、ブラントがポーランドのワルシャワを訪問したさい、ユダヤ人ゲットーの慰霊碑の前でひざまずいた姿が、報道されて多くの人々の共感を得た。
1972年、6:東西ドイツ基本条約に調印し、東西ドイツは互いを承認し合い、国交を正常化した。 これにより翌1973年、東西ドイツの7:国際連合への同時加盟が実現した。
このようなブラントの政策は、国内の右派からはげしい批判にさらされたが、後にドイツ統一が実現する礎となった点において高く評価された。 ←朝鮮半島や中国・台湾の場合と対照せよ。
ブラント首相は、秘書ギョームが東側のスパイだったことが発覚し、74年退陣した(ギョーム事件)。
全欧安全保障協力会議
1975年フィンランドのヘルシンキで東西ヨーロッパの国々と合衆国・カナダ・ソ連が参加した8:全欧安全保障協力会議 (CSCE)で、東西間の関係改善をうたった9:ヘルシンキ宣言が採択された。 *1995年10:全欧安全保障協力機構 (OSCE)に改組された。
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CSCE(全欧安全保障協力会議)について
概要: 全欧安全保障協力会議(CSCE)は、冷戦時代の緊張を緩和し、ヨーロッパの平和と協力を促進するために設立された国際会議です。この会議は、1975年にフィンランドのヘルシンキで開催されたヘルシンキ宣言によって正式に始まりました。
背景: 冷戦のピーク時、東西の対立は世界全体の安全に影響を与えていました。この状況を改善するため、東西の国々が集まり、相互の信頼構築と緊張緩和を目指してCSCEが設立されました。
主な目的: CSCEの目的は、ヨーロッパの安全保障、経済協力、そして人権の尊重といった三つの「バスケット」に焦点を当てることでした。これらは、国際関係における相互理解と協力の重要性を強調しています。
重要な成果:
安全保障の枠組み:ヘルシンキ宣言は、国境の不可侵性や内政不干渉など、新たな安全保障の枠組みを確立しました。
人権の促進:人権と基本的自由の尊重を重視し、東側諸国における政治的変革のきっかけを提供しました。
東西対話の促進:CSCEは東西ブロック間の対話と協力を促進し、冷戦の終結に向けた道を開きました。
現代における影響: CSCEは、後にOSCE(全欧安全保障協力機構)へと発展しました。この機構は、ヨーロッパだけでなくその周辺地域における平和と安定の促進を目的として現在も活動しています。
まとめ: CSCEは、冷戦期の重要な国際協力の試みとして、東西の緊張緩和と国際関係の改善に大きく寄与しました。その遺産は今日の国際関係においても重要な意味を持ち続けています。
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150-3 第四次中東戦争と石油危機
Keyword
1:サダト
2:第四次中東戦争
3:アラブ石油輸出国機構
4:石油戦略
5:石油危機
6:スタグフレーション
7:ウォーターゲート事件
8:フォード
9:第二次ウィルソン内閣
10:ポンピドゥー
11:ジスカール=デスタン
12:キリスト教民主党
13:先進国首脳会議
第四次中東戦争と石油危機
米軍のヴェトナム敗退は世界に衝撃を与えた。中東では1973年秋、1:サダト大統領(任1970-81)のエジプト共和国を中心とするアラブ諸国がイスラエルに先制攻撃をしかけ、2:第四次中東戦争がはじまった。
3:アラブ石油輸出国機構(OAPEC、1968年設立)は親イスラエル国・親米国への原油禁輸を宣言した。石油輸出国機構(OPEC、1960年設立)も石油価格の値上げ(約4倍)を実施した。
産油国が石油の生産量や価格をコントロールすることにより、資源を必要とする輸入国に政治的圧力をかけることを4:石油戦略という。
日本をはじめ西側先進国では、石油の供給不安から5:石油危機がおこり、各国で不況下にもかかわらずインフレーションが進行する6:スタグフレーションがすすんだ。
戦争では、エジプトがめざしたシナイ半島の奪還はならず、イスラエル側の勝利で終わった。
西側資本主義国の政権交代
翌1974年、西側資本主義国の首脳がいっせいに交代した。 *「1974年組」の首脳達。
合衆国ではニクソンが、大統領選で民主党本部を盗聴したという7:ウォーターゲート事件で辞任に追い込まれ、副大統領の8:フォードが大統領に昇格した。
ブリテンでは保守党のヒース内閣(任1970-74)が倒れ、労働党の9:第二次ウィルソン内閣(任1974-76)が成立した。
フランスでもド=ゴールの後継者10:ポンピドゥー大統領(任1969-74、73年にブリテンのEC加盟が実現)の急死ののち行われた選挙で11:ジスカール=デスタンが大統領となった。
ドイツでは社会民主党のブラント政権がギヨーム事件で倒れ、同党の★シュミット政権が成立した。
イタリアでは、12:キリスト教民主党のモロ首相により第二次★モロ内閣(任1974-76)が成立した。
日本でも金権政治に対する批判から田中角栄内閣が倒れ、★三木武夫内閣が成立した
先進国首脳会議の始まり
新しい指導者たちは、石油危機の経験をふまえ、経済問題についての定期的な意見交換を持つことで一致し1975年、フランスのランブイエで、ジスカール=デスタン大統領の呼びかけで米、英、仏、西独、日、伊の6カ国が参加し 13:先進国首脳会議(サミット)が開催された。
第一回サミットに集ったのは、「1974年組」の首脳たちである。
仏(11:ジスカール=デスタン)大統領(主催)
米(8:フォード)大統領(共和党)
英(9:ウィルソン)首相(労働党)
独 ★シュミット首相(社会民主党)
日(★ 三木武夫 )首相(自由民主党)
伊 ★モロ首相(12:キリスト教民主党)
翌76年のプエルトリコサミットからは( カナダ )を加え、参加国はG7とよばれるようになった。先進国首脳会議は毎年開催されている。1997年からロシアが全日程に参加するようになり,98年から主要国首脳会議(G8)とよばれるようになった。2014年にロシア(プーチン大統領)がクリミア半島を併合すると、合衆国(オバマ大統領)やドイツ(メルケル首相)などEU諸国が反発してロシアを除外し、再びG7に戻った。
150-1 重要語句
デタント(緊張緩和):
デタントは、1960年代後半から1980年代初頭にかけての国際関係における緊張緩和の時期を指します。
米ソ間の対話と交渉を促進し、核軍縮や文化的交流の増加などを通じて冷戦時の緊張状態を緩和する目的がありました。
SALT(戦略兵器制限交渉)やヘルシンキ宣言など、多くの外交的成果がデタント期に達成されました。
ニクソン大統領(任1969~74):
リチャード・ニクソンは、1969年から1974年までアメリカ合衆国の第37代大統領を務めました。
ニクソンはデタント政策を推進し、米ソ間の対話を促進する一方で、アジアにおけるアメリカの軍事介入を縮小する方針を採りました(ニクソン・ドクトリン)。
彼はまた、中国との関係正常化を進め、1972年に中華人民共和国を訪問し、米中間の協力を促進しました。
ニクソン=ドクトリン:
ニクソン・ドクトリンは、アメリカの外交政策の方針で、アジアにおける直接的な軍事介入を減らし、代わりに地域の同盟国による自己防衛を支援することを主張しました。
この方針は、特にベトナム戦争におけるアメリカの役割の再評価と、その後のベトナムからの「名誉ある撤退」を目指す政策として表れました。
キッシンジャー補佐官(のち国務長官):
ヘンリー・キッシンジャーは、ニクソン大統領およびその後任のフォード大統領の下で国家安全保障担当補佐官および国務長官を務めました。
彼はデタント政策の主要な設計者の一人であり、特に米ソ間の戦略兵器制限交渉や中国との関係改善に重要な役割を果たしました。
戦略兵器制限交渉 (SALT I、Strategic Arms Limitation Talks I, 1969-72):
SALT Iは、米ソ間で行われた戦略兵器の制限を目的とした交渉です。
この交渉は1972年に妥結し、核弾頭の数の制限を含む重要な合意に至りました。
SALT Iは冷戦時代の重要な軍縮努力の一環であり、後にSALT IIに続きました。
核兵器現状凍結協定:
1972年、米ソ間で核兵器の増加を凍結するための協定が締結されました。
この協定は、両国間での核軍備競争を制限する試みであり、デタント期の重要な成果の一つです。
核戦争防止協定:
1973年に米ソ間で締結された核戦争防止協定は、核兵器の誤発射や偶発的な核戦争を防ぐための措置を含んでいました。
この協定は、両超大国間の直接的な軍事衝突を避けるための安全措置の強化を目指していました。
沖縄返還:
1972年、日本への沖縄返還が実現しました。
これは第二次世界大戦後、アメリカが沖縄を占領していた状態を終結させ、沖縄を日本の主権下に戻す歴史的な出来事でした。
中ソ国境紛争:
中ソ国境紛争は、1969年のダマンスキー島(珍宝島)で発生した一連の軍事衝突です。
林彪:
林彪は中国共産党の上級指導者で、文化大革命の初期には毛沢東の後継者と見なされていました。
しかし、彼は1971年にクーデターを試み失敗し、その後の飛行機事故で死亡しました。彼の死は中国の政治情勢に大きな影響を与え、毛沢東の後継者としての地位を失った。
中国の国連代表権交代:
1971年、国際連合は中華民国(台湾)の追放と中華人民共和国の加盟を決議しました。この決議は「アルバニア決議」として知られています。
これにより、中華人民共和国は国連安全保障理事会の常任理事国としての地位を獲得しました。
ニクソン訪中:
1972年、ニクソン大統領は中国を歴史的な訪問を行いました。
この訪問は冷戦時代における米中関係の正常化への重要な一歩であり、国際政治に大きな影響を与えました。
田中角栄首相訪中:
1972年、日本の田中角栄首相が中国を訪問しました。
この訪問は、日本と中国の関係正常化に向けた重要なステップであり、両国間の新たな時代の始まりを意味しました。
日中共同声明:
田中首相の訪中時に、日本と中国は共同声明を発表しました。
この声明は、日本と中国が外交関係を正常化するという内容を含んでおり、日中関係の重要な転換点となりました。
日中国交正常化:
日中共同声明の結果、1972年に日本と中国は国交を正常化しました。
これにより、第二次世界大戦後の長年にわたる両国間の緊張が解消され、新たな外交関係が構築されました。
米中国交正常化:
米中国交正常化は、ジミー・カーター政権下の1979年に実現しました。
この正常化は、ニクソンの訪中とその後の外交努力の結果であり、冷戦期の国際秩序に大きな影響を与えました。
双子の赤字:
双子の赤字は、財政赤字と貿易赤字の同時発生を指します。
ベトナム戦争の戦費により、アメリカはこの時期に双子の赤字に直面していました。
ドル=ショック:
ドル=ショックは、1971年にニクソン大統領が金ドル本位制の停止と為替相場の切り上げ、輸入品に対する課徴金設定を発表したことを指します。
これは国際金融システムに大きな影響を与え、世界経済に大きな変動をもたらしました。
スミソニアン協定:
スミソニアン協定は、1971年12月に締結された国際通貨体制に関する協定です。
この協定により、主要通貨の為替レートが再調整され、ドルの価値が下げられました。例えば、1ドル=308円という新しい為替レートが設定された。
変動為替相場制:
1973年、多くの国々は固定為替レート制から変動為替相場制に移行しました。
これにより、通貨価値は市場の供給と需要によって決まるようになり、国際金融市場は大きく変化しました。
ブレトンウッズ国際経済体制の崩壊:
ブレトンウッズ体制は、第二次世界大戦後に確立された固定為替レートと金ドル本位制に基づく国際金融体制でした。
しかし、ドル=ショックとスミソニアン協定、変動為替相場制への移行により、この体制は実質的に崩壊しました。
ウォーターゲート事件:
ウォーターゲート事件は、1972年の米大統領選挙中にニクソン政権が関与した政治スキャンダルです。
ニクソン政権が民主党の本部に盗聴器を仕掛けたことが発覚し、大きな政治的危機を引き起こしました。
ヴェトナム(パリ)和平協定:
1973年、アメリカとベトナム民主共和国(北ベトナム)、南ベトナムの政府と南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)はパリで和平協定に署名しました。
この協定はベトナム戦争に終止符を打ち、アメリカ軍の撤退をもたらしました。
米軍のヴェトナム撤退:
パリ和平協定の結果、1973年にアメリカ軍はベトナムから撤退しました。
これは、長引いたベトナム戦争におけるアメリカの直接的な軍事介入の終わりを意味しました。
ニクソン辞任:
ウォーターゲート事件の結果、ニクソンは1974年に大統領職を辞任しました。
彼はアメリカ史上初めて任期途中で辞任した大統領となりました。
フォード:
ジェラルド・フォードは、ニクソンの辞任後、副大統領から昇格して第38代アメリカ合衆国大統領に就任しました。
彼は1974年から1977年まで大統領職を務めました。
150-2 重要語句
ブラント政権(1969-74):
ヴィリー・ブラントが首相を務めたドイツ連邦共和国(西ドイツ)の政権です。
1969年から1974年にかけて、戦後初のドイツ社会民主党(SPD)主導の政権でした。
彼の政権は、東方との関係改善を重視する外交政策を採用しました。
東方外交(Ostpolitik):
東方外交は、ブラント政権下での外交政策の一環として推進されました。
この政策は、東ヨーロッパ諸国、特に東ドイツとの関係正常化を目指しました。
Ostpolitikは、冷戦時の東西緊張関係の緩和に貢献しました。
ソ連=西ドイツ武力不行使条約:
1970年にソ連と西ドイツが結んだ条約です。
この条約は、両国間での武力不行使を確約するものでした。
西ドイツ=ポーランド国交正常化:
ブラント政権下で、西ドイツはポーランドとの国交を正常化しました。
これはOstpolitikの一環として行われた重要な外交的成果です。
オーデル=ナイセ線の承認:
オーデル=ナイセ線は、ドイツとポーランドの国境を定めるものです。
西ドイツは1970年にこの国境線を正式に承認し、戦後の領土問題に決着をつけました。
東西ドイツ基本条約:
1972年に東西ドイツ間で締結された条約です。
この条約は、両ドイツ国の互いの存在を承認し、国交を正常化させる内容でした。
国際連合への同時加盟:
1973年、東西ドイツは国際連合に同時に加盟しました。
これは、東西ドイツの国際的な承認と地位を強化するものでした。
全欧安全保障協力会議(CSCE):
1975年にフィンランドのヘルシンキで開催された会議で、東西ヨーロッパの国々、アメリカ、カナダ、ソ連が参加しました。
この会議は、東西間の関係改善と緊張緩和を目的としていました。
ヘルシンキ宣言:
CSCEの最終文書であり、東西間の協力と安全保障に関する基本的な原則を定めました。
ヘルシンキ宣言は、冷戦時代の国際関係における重要なマイルストーンとされています。
全欧安全保障協力機構(OSCE):
CSCEは1995年にOSCEに改組されました。
OSCEはヨーロッパ大陸の安全保障、協力、および人権の促進を目的とする国際的な組織です。この組織は、CSCEの成果を基にして発展し、より永続的な国際機関として機能しています。
150-3 重要語句
サダト大統領(任1970-81):
アンワル・サダトはエジプトの第3代大統領で、1970年から1981年まで在任しました。
彼は第四次中東戦争の主要な指導者の一人であり、イスラエルに対する先制攻撃を指揮しました。
第四次中東戦争:
1973年にエジプトとシリアがイスラエルに対して開始した戦争です。
この戦争は、アラブ諸国がイスラエルの領土拡大を食い止めるために起こしましたが、最終的にはイスラエル側の勝利で終結しました。
アラブ石油輸出国機構(OAPEC):
OAPECはアラブ諸国によって設立された石油輸出国の組織です。
1973年の第四次中東戦争中に、親イスラエル国や親米国に対して原油の禁輸を宣言しました。
石油戦略:
石油戦略とは、産油国が石油の生産量や価格をコントロールすることにより、輸入国に政治的圧力をかける戦略を指します。
この戦略は、特に1973年の石油危機において効果を発揮しました。
石油危機:
1973年のOAPECによる石油禁輸とOPECによる石油価格の大幅な値上げにより、西側先進国で石油の供給不安が発生しました。
この危機は世界経済に大きな影響を与え、エネルギー政策の見直しを促しました。
スタグフレーション:
スタグフレーションとは、経済成長が停滞しつつもインフレーションが進行する現象を指します。
石油危機は、多くの国でスタグフレーションを引き起こしました。
ウォーターゲート事件:
アメリカ合衆国で1972年に発生した政治スキャンダルです。
ニクソン政権が民主党の本部に盗聴器を仕掛けたことが発覚し、ニクソン大統領の辞任につながりました。
フォード:
ジェラルド・フォードは、ニクソンの辞任後、アメリカ合衆国の第38代大統領に就任しました。
第二次ウィルソン内閣(任1974-76):
ハロルド・ウィルソンが率いるイギリスの労働党政権です。
1974年から1976年まで在任しました。
ポンピドゥー大統領(任1969-74):
ジョルジュ・ポンピドゥーはフランスの大統領で、1969年から1974年まで在任しました。彼の在任中、フランスは経済成長と社会変革の時期を経験し、1973年にはイギリスの欧州共同体(EC)加盟を承認しました。
ジスカール=デスタン:
ヴァレリー・ジスカール・デスタンは、ポンピドゥー大統領の後を継いで、1974年から1981年までフランス大統領を務めました。
彼の政権は中道右派の政策を推進し、国際的な問題に積極的に関与しました。
キリスト教民主党のモロ首相:
アルド・モロはイタリアの政治家で、キリスト教民主党に所属していました。
彼は第二次モロ内閣(任1974-76)の首相を務め、社会・経済改革を推進しました。
先進国首脳会議(サミット):
1975年にフランスのランブイエで開催された会議で、米国、イギリス、フランス、西ドイツ、日本、イタリアの6カ国が参加しました。
この会議は、石油危機の経験を踏まえて経済問題についての定期的な意見交換を行うことを目的としていました。
論題
問
ドル=ショックについて、原因や影響を含めて150字以内で説明しなさい。
解答例
1944年のブレトン=ウッズ会議以後ドルが国際経済の基軸通貨であったが,ベトナム戦争の戦費からドル危機をまねき,1971年,ニクソン大統領はドルと金の兌換を停止した。国際通貨体制は73年以降,変動相場制に移行した。ブレトン=ウッズ体制は終焉し,合衆国一極体制から西欧や日本も含む多極化の時代を迎えた。(145字)
問
石油危機の原因と影響について200字以内で説明しなさい。
解答例
1973年,エジプト,シリアとイスラエルの間で第四次中東戦争がおこると,アラブ石油輸出国機構は親イスラエルの国への原油輸出を制限する石油戦略をとり,石油輸出国機構は原油価格の4倍増を決定し,安価な石油に依存してきた先進国の経済は打撃を受けた。79年にイラン革命がおこると,石油供給不安から,石油価格は再び高騰した。こうした危機を受けて75年以降先進国首脳会議が毎年開かれるようになった。(189字)