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第92講 りィヌン䜓制の成立

    92-1 りィヌン䌚議ずりィヌン議定曞


     1815幎6月、りィヌン䌚議が劥結し、各囜は1:りィヌン議定曞に調印した。

     各囜の埗倱は次の通り。

    グレヌトブリテンおよびアむルランド連合王囜
     旧ネヌデルラント領からフランス革呜戊争䞭に奪った2:セむロン島、3:ケヌプ怍民地の領有を正匏に認められ、スペむンからシチリア島南の4:マルタ島を獲埗した。これら海運の芁地は「パクスブリタニカ」の瀎ずなった。

    ロシア垝囜
     ロシア皇垝は、スりェヌデンから奪った5:フィンランドの倧公䜍やワルシャワ倧公囜にかわっお成立した6:ポヌランド立憲王囜の王䜍を兌ね、1812幎のブカレスト条玄でオスマン垝囜から奪った7:ベッサラビア珟モルドノァの領有を正匏に認められた。

    ドむツ党䜓
     オヌストリアずプロむセンを含む35君䞻囜・自由垂からなる8:ドむツ連邊囜家でない。領邊の集合䜓が結成され、オヌストリアを代衚囜ずした。神聖ロヌマ垝囜は埩掻しなかった。

    プロむセン王囜
     西ポンメルン、ザクセン北郚に加え9:ラむンラントを獲埗、゚ルベ川以西の工業地垯を領有し囜力を高めた。プロむセン工業化の端緒ずなった。

    オヌストリア垝囜ハプスブルクロヌトリンゲン朝
     南ネヌデルラントベルギヌを手攟し、むタリアの10:ロンバルディア・11:ノェネツィアダルマツィア海岞を含むを獲埗した。これにより、むタリア統䞀をめざすサルデヌニャ王囜にずっお、オヌストリアが最倧の敵ずなった。

    むタリア党䜓
     南郚はナポリ王囜ブルボン家、䞭郚はロヌマ教囜領ずなった。ロンバルディアやノェネツィアはオヌストリア領ずされ、むタリア統䞀は遠のいた。

    サルデヌニャ王囜
     西北郚ではサノォむア家のサルデヌニャ王囜ピ゚モンテずも。銖郜トリノが12:ゞェノノァを領有した。

    フランス王囜ブルボン家
     スペむン・ナポリむタリア南郚ずずもにブルボン家が埩掻し13:埩叀王政1814-30がはじたった。囜王はルむ16䞖の匟14:ルむ18䞖181424ず15:シャルル10䞖182430。1830幎䞃月革呜たで存続した。

    スりェヌデン王囜
     西ポンメルンプロむセンにずフィンランドロシアにを手攟し、バルト垝囜が厩壊した。かわりに16:ノルりェヌを獲埗した。ノルりェヌは1905幎平和裏に独立。

    ネヌデルラント王囜オランダ
     南ネヌデルラント17:ベルギヌをあわせおネヌデルラント17州を合わせたネヌデルラント王囜ずなったが、ベルギヌは1830幎ベルギヌ立憲革呜で独立した。連合王囜にセむロン島・ケヌプ怍民地を譲り、17䞖玀頃に保持した䞖界商業の䞻導暩をほが倱った。
     ゞャワ・マラッカは回埩したが、1824幎英蘭協定で18:マラッカも英領ずなった。以埌ゞャワむンドネシアが唯䞀残った海倖領土蘭領東むンド珟むンドネシアの拠点ずなった。
     ケヌプ怍民地のネヌデルラント人は内陞に移䜏しブヌル人ボヌア人ず呌ばれ、トランスノァヌル共和囜18521902、オレンゞ自由囜18541902を建おたが、南アフリカ戊争18991902で敗北し1910幎英自治領南アフリカ連邊に再線された

    スむス
     22州の連邊による氞䞖䞭立囜ずなった。←13䞖玀いらい事実䞊の独立囜だった。1648幎りェストファリア条玄で正匏独立。

    92-2 りィヌン䜓制の確立ず埌䞖の評䟡

    Keyword 
    1:りィヌン䜓制 
    2:正統䞻矩 
    3:勢力均衡 
    4:四囜同盟 
    5:五囜同盟 
    6:神聖同盟
    7:自由䞻矩
    8:民族䞻矩

    りィヌン䜓制ず同盟

     りィヌン議定曞で構築され、ペヌロッパの秩序を維持した囜際䜓制を1:りィヌン䜓制ずよぶ。䜓制を維持するため、4:四囜同盟ず6:神聖同盟が結ばれた。

     フランス倖盞タレヌランの掲げた「2:正統䞻矩」に各囜が同意し、敗戊囜フランスを察等な亀枉盞手ずしたこずは、のちのノェルサむナ䌚議敗戊囜に過酷であったず比べお高く評䟡された。

     メッテルニヒが、匱䜓化したオヌストリアを倧囜の地䜍に留めおくために苊心しお調敎した列匷の「3:勢力均衡」は、五倧囜の均衡による「ペヌロッパ協調Concert of Europe」をもたらした。

     1815幎11月、英ブリテンず露Russia、墺Austria、普Prussiaの「東欧䞉倧囜」は、軍事同盟ずしお4:四囜同盟Quadruple Allianceを結んだ。フランスFranceを封じ蟌め、りィヌン議定曞で定めた秩序を維持するための同盟だったが、1818幎フランスが加入し5:五囜同盟 Quintuple Allianceずなったこずで、勢力均衡を維持し、民族運動を抑圧する同盟ぞず姿を倉えた。自由䞻矩的な英囜ブリテンは、1820幎代に同盟から距離をおくようになる。

     1815幎11月、ロシア皇垝アレクサンドル䞖の呌びかけで、キリスト教の博愛粟神にもずづいお各囜の連携をめざし6:神聖同盟 Holy Allianceが結ばれた。この同盟には、①連合王囜四囜同盟ず異なり実効性がないず考えた、②オスマン垝囜むスラヌム囜家のため、③ロヌマ教皇ロシア正教がわの皇垝が䞻導する同盟だからをのぞく、ペヌロッパ各囜の君䞻が加盟した。

    りィヌン䜓制の評䟡

     りィヌン䜓制には、吊定的評䟡ず肯定的評䟡がある。ひず぀は、1848幎の革呜にいたるたで7:自由䞻矩や8:民族䞻矩を抑圧したずいう吊定的評䟡、いたひず぀は勢力均衡により1914幎たで玄100幎間列匷間の倧芏暡な戊争を防止したずいう肯定的評䟡である。



    92-3 フランス革呜・ナポレオン戊争期の文化  

    keyword 
    1カント 2ゲヌテ 3シラヌ 4ノノァヌリス 5ハむドン 6モヌツァルト 7ベヌトヌベン  8新叀兞䞻矩 9ダノィド 10アングル 11ラノォワゞェ 12ラプラヌス 13ゞェンナヌ 14皮痘法  15ノォルタ 16経枈衚 17ケネヌ 18テュルゎヌ 19レッセフェヌルなすに任せよ 20重蟲䞻矩 21アダムスミス 22諞囜民の富 23叀兞掟経枈孊自由䞻矩経枈孊 24マルサス 25人口論

    ドむツの新しい文化


     啓蒙専制政治が行われたオヌストリアやプロむセンなど神聖ロヌマ垝囜に属するドむツ語圏では、フランスの啓蒙思想に察する反発や懐疑が生じ、新たな哲孊や文孊、音楜が芜生えた。

     哲孊では、1781幎1:カントが『玔粋理性批刀』Kritik der reinen Vernunftを著し、倧陞合理論の説く理性やブリテンの経隓論の説く経隓の限界を指摘、人間の認識胜力そのものに批刀を加えた。これをコペルニクス的転回ずいう。合理論ず経隓論を批刀的に克服しお、ドむツ芳念論の先駆けずなった。『氞遠平和に぀いお』では、囜際平和機構の蚭立を䞻匵した。

     文孊では、シュトゥルム・りント・ドランクSturm und Drang、疟颚怒激ずよばれる新しい文孊運動がおこり、文豪 2:ゲヌテが代衚䜜『若きりェルテルの悩み』1774幎、『ファりスト』を著し、3:シラヌは戯曲『矀盗』1781幎を発衚した。4:ノノァヌリスの『青い花』は、19䞖玀にさかんになるロマン䞻矩文孊のさきがけずなった。

     音楜では、りィヌンを䞭心に「叀兞䞻矩Classic」ずよばれる調和を重芖した䜜颚が奜たれた。

     次の3名の䜜曲家のうち、ドむツ人はどい぀だ

     5:ハむドン オヌストリア倧公領出身は、「時蚈」など倚数の亀響曲を䜜曲した。皇垝フランツ2䞖に捧げた「神よ皇垝フランツを守りたたえ」は、珟ドむツ連邊の囜歌歌詞は異なる。

     6:モヌツァルトザルツブルク叞教領出身は、宮廷の耜矎的なロココ調の優矎な䜜品から、調和を重芖した叀兞䞻矩の兞型的な䜜品、そしお次䞖代のロマン䞻矩を思わせるドむツ語オペラなど倚圩な䜜品を残した。むタリア語オペラ「フィガロの結婚」やドむツ語オペラ「魔笛」が代衚䜜。

     7:ベヌトヌベン ケルン倧叞教領ボン出身、ボンはのちの西ドむツの銖郜は、均衡ず調和を重んじながらもロマン䞻矩の芁玠を先取りし、「英雄」「運呜」「第九」など亀響曲の名䜜を䜜曲した。

    フランスの新叀兞䞻矩


     18䞖玀末理性を絶察芖するフランス革呜の颚朮のもずで、均衡や調和を重芖し叀代ギリシャの民䞻政やロヌマの共和政を讃える文化がおこった。これを8:新叀兞䞻矩ずいうずいう。

     絵画では、フランスの9:ダノィドが、ナポレオンの宮廷画家ずしお掻躍し、「球球戯堎の誓い」「マラヌの死」「ベルナヌル峠からアルプスを越えるボナパルト」「ナポレオンの戎冠匏」などを描いた。

     かれの䜜颚はその埌、10:アングルに受け継がれた。代衚䜜は「玉座のナポレオン」。

    科孊の発展


     フランス革呜・ナポレオン戊争期の科孊の発展に぀いおおさえおおこう。

     質量䞍倉の法則を蚌明した化孊者11:ラノォワゞェは城皎人ずしおフランス革呜で凊刑された。

     宇宙進化論をずなえ、『倩䜓力孊抂論』『確率論の解析理論』を著した倩文孊者の12:ラプラヌスは、ナポレオンの統領政府で内務倧臣に登甚され、元老院議員ずなった。

     1796幎英囜の医垫13:ゞェンナヌは、14皮痘法を発明した。牛痘をもちいる方法は圓時の人々の匷い抵抗にあい、普及には時間がかかった。1799幎むタリア人15:ノォルタは電池を発明した。

    経枈孊の確立

     フランス革呜・ナポレオン戊争期には近代経枈孊が確立した。

     ルむ15䞖の䟍医を぀ずめ『16:経枈衚』を著した17:ケネヌやルむ16䞖の財務総監を぀ずめた18:テュルゎヌは、囜家が経枈に積極介入する重商䞻矩を批刀し、「19:レッセフェヌルなすに任せよ」の暙語をかかげ自由攟任䞻矩を唱え、富の基瀎が蟲業生産にあるずする20:重蟲䞻矩の立堎をずった。

     産業革呜により工業化のすすんだ英囜で、孊問ずしおの経枈孊が成立した。スコットランド出身の21:アダムスミスが1776幎に著した『22:諞囜民の富』Wealth of Nations「神の芋えざる手」で有名により、自由䞻矩を重芖するが確立した 

     むングランド出身の24:マルサスが、1798幎に著した『25:人口論』は、人口は幟䜕孊的に増加するが、食糧生産は算術的にしか増加しないので、人口の過剰ず貧困が生じるず説き、瀟䌚制床で貧困を解消しようずするのはこの自然の法則に反する無駄に過ぎないず䞻匵した。これをマルサスの眠ずいう。



     
     
    䞖界史を教えおいるAKSのnoteです。新期県燕䞉条地域出身。高等孊校地歎科教員。修士(教育孊)。この倏歳になった小孊䞀幎生息子の父芪。自分らしさを倧切にしながら、子育おず仕事を䞡立しおいきたいず思いたす。

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