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第98講 むスラヌム地域の改革運動ず列匷の進出


    98-1 むスラヌム改革運動ずサりヌド王囜の成立

    ワッハヌブ運動ず神秘䞻矩教団の改革運動

     18䞖玀オスマン垝囜の圱響䞋にあったアラビア半島で、1:むブンアブドゥルワッハヌブ170392がむスラヌム改革運動をはじめ、これに察抗しお2神秘䞻矩教団の間でも改革運動ネオスヌフィズムが盛んになった。

     むブンアブドゥルワッハヌブは、神秘䞻矩教団䞭心の信仰のあり方を培底的に批刀し、預蚀者ムハンマドの教えに立ちかえれず䞻匵した。圌の運動から生じた3:ワッハヌブ掟は、スンナ掟のうち保守掟に支持され広たった。

     珟圚のサりゞアラビアではワッハヌブ掟が囜教。

     ワッハヌブ掟に察抗しお、神秘䞻矩教団の間でも改革運動がはじたり、神秘䜓隓を求めるだけではなく、クルアヌンコヌランの朗誊やむスラヌム法を教える新教団が成立したネオスヌフィズム。

     18䞖玀にはアラビア半島にずどたっおいたワッハヌブ掟ず新しい神秘䞻矩教団の動きは、19䞖玀埌半汜船の時代を迎えムスリムのメッカ巡瀌者が激増するず、巡瀌者を通じお党むスラヌム圏に広がった。


    サりヌド王囜

     䞭郚アラビアの豪族4:サりヌド家はワッハヌブ運動を支持しお勢力を䌞ばし、1744幎頃に5:サりヌド王囜6:ワッハヌブ王囜を建お、メッカずメディナの二聖郜を支配した。

     18䞖玀から19䞖玀オスマン垝囜では、地方地䞻アヌダヌンが西欧「䞭栞」諞囜ずの関りを深め綿花など商品䜜物を茞出し力を䌞ばし、垝囜の属州統治にゆるみが生じ、各地で自立の動きがおこった。

     メッカずメディナを倱うこずは、スンナ掟むスラヌムの盟䞻たるオスマン垝囜にずっお看過できない事態だったため、19䞖玀、スルタン・マフムト䞖ぱゞプト総督ムハンマドアリヌを送り、ワッハヌブ王囜を滅がした。

     ワッハヌブ王囜サりヌド王囜はたもなく7:リダドを䞭心ずした小勢力ずしお再建され第二次サりヌド王囜182389、20䞖玀にサりゞアラビアSAUDI ARABIAサりヌド家のアラビアぞず発展した。

     珟圚のサりゞアラビアではワッハヌブ掟が囜教。


    サヌヌシ―教団

     19䞖玀メッカで、サヌヌシ―17871859が創蚭した新しい神秘䞻矩教団8:サヌヌシヌ教団は、のちリビアに拠点を移した。サヌヌシ―家が教団の指導者を䞖襲し、リビアを拠点にたずオスマン垝囜、続いおむタリアの怍民地支配支配に抵抗した。

     1951幎、教団の指導者でサヌヌシ―家出身のむドリヌス1䞖を囜王ずするリビア連合王囜が成立したが、1969幎リビア革呜で(9カダフィ)らに打倒された。



    98-2 むランずアフガニスタン


    むラン地域の混乱

     
     むランのサファノィヌ朝が、1722幎支配䞋の1.アフガン人によっお郜2.むスファハヌンを攻略され、1736幎に滅亡するず、党土でアフガン人やトルコ系階銬遊牧民が争った。

     そのなかで、トルコ系階銬遊牧民を率いるナヌディルシャヌが建おた3.アフシャヌル朝はマシュハドを郜ずし、むンドにも進出しおデリヌを占領しムガル垝囜を匱䜓化させたが、むラン統䞀はできなかった。

     むラン南郚にはシヌラヌズを郜ずする4.ザンド朝が自立し、アフシャヌル朝ず争った。

    ガヌゞャヌル朝

     18䞖玀末、トルコ系階銬遊牧民ガヌゞャヌルの銖長アヌガヌ・ムハンマドが5.テヘランを郜ずしお6.ガヌゞャヌル朝をおこし、1796幎むランを再統䞀した。

     第二代ファトフ・アリヌ䜍1797- 1834のずき、二床のロシアペルシア戊争に敗れ7.カフカスコヌカサスを倱った。カフカスは叀代アルメニア王囜が栄えた地。

     ナポレオン戊争ず䞊行しおおこった第䞀次ロシアペルシア戊争1804-13に敗れ、1813幎ゎレスタン条玄で8.グルゞアゞョヌゞア、旧゜連①、珟ゞョヌゞア共和囜ず9.アれルバむゞャン旧゜連②、珟アれルバむゞャン共和囜をロシアアレクサンドル䞖に割譲した。

     ギリシア独立戊争ず䞊行しお1826幎おこった第二次ロシアペルシア戊争にも敗れ、1828幎10.トルコマンチャヌむ条玄でロシアニコラむ䞖に11.アルメニア旧゜連③、珟アルメニア共和囜を割譲し、12.治倖法暩を認めた。⇒この旧゜連①②③をカフカス䞉囜コヌカサス䞉囜ずいう。ガヌゞャヌル朝の領域は、これでほが珟むランの領域ずなった。

     1848幎、第䞉代のモハンマド・シャヌ䜍1834-48の死に乗じ 13.バヌブ教埒の乱1848-52、バヌブ教運動がおきた。むラン人のナショナリズムの萌芜ずいわれる。

    バヌブ教 
     むランで14.サむむドアリヌムハンマドが始めたシヌア掟むスラヌムの䞀掟。圌は自らを神ず人々を仲介するバヌブ「門」の意ず称し、男女平等や身分、貧富の差の解消を説いお民衆に支持された。匟子のバハオッラヌが始めたより穏健な15.バハヌむヌ教は珟圚たで続き、䞖界䞭に信者を持぀。

     第四代ナヌセロッディヌン・シャヌ䜍1848-1896は、ペヌロッパ向けの絚毯生産などで経枈を発展させ、近代化のための改革を詊みた。しかし、西欧からの借欟が重くのしかかり、1870幎代の䞖界的な䞍況期に財政が砎綻した。そのため、道路建蚭、銀行開蚭などの利暩を英露の投資家に譲枡しようずした。これにシヌア掟宗教指導者らは反発、1891幎のタバコボむコット運動に぀ながった。

    ドゥッラヌニヌ朝


     
    アフシャヌル朝の軍団に組みこたれおいたアフガン人自称は2.パシュトゥヌン人は、アフガニスタンで3.アフガン王囜1.ドゥッラヌニヌ朝 17471842をおこし、1747幎むランから自立した。珟アフガニスタンはパシュトゥヌン人ずタゞク人の二倧民族が人口の割以䞊を占める。

     ドゥッラヌニヌ朝は19䞖玀、むンドから䟵攻しおきた英囜グレヌトブリテン及びアむルランド連合王囜を二床にわたっお撃退し、独立を維持したが、倖亀亀枉によっお1880幎英囜に保護囜化された。

     4.第䞀次アフガン戊争は、ロシアニコラむ䞖に支揎されたガヌゞャヌル朝第䞉代モハンマド・シャヌ䜍1834-48がアフガニスタンに䟵攻したため、ロシアの南䞋を恐れる英囜パヌマストン倖盞が掟兵し始たったが、アヘン戊争184042ず䞊行しお戊われたこずもあり䞭途半端に終わっお英囜が敗退した。

     5.第二次アフガン戊争は、ロシアアレクサンドル䞖に察抗し英囜ディズレヌリ銖盞が掟兵したが敗退した。

     コナンドむル著『シャヌロックホヌムズ』シリヌズの冒頭で、ワト゜ン博士が第二次アフガン戊争に埓軍し負傷したこずをホヌムズが掚理で圓おる堎面がある。

     英囜は倖亀によっお1880幎、6.アフガニスタン保護囜化を実珟したが、第䞀次䞖界倧戊埌の1919幎、7.第䞉次アフガン戊争で独立を承認した。実際には英囜の支配はほずんど及ばなかった。

    グレヌトゲヌム

     ナポレオンを打ち砎ったグレヌトブリテン及びアむルランド連合王囜ずロシア垝囜が、19䞖玀前半囜際政治における二倧囜ずなり、アゞア内陞郚を舞台に勢力圏獲埗競争をくり広げたこずをグレヌトゲヌムずいう。

     ロシア垝囜は北からりズベキスタンりズベクハン囜に、連合王囜は南からむンドに勢力を広げ、カヌゞャヌル朝のペルシアむランずドゥッラヌニヌ朝のアフガニスタン、枅朝の藩郚新疆やチベットなどで衝突した。これは20䞖玀、日露戊争の䞀因ずもなり、1907幎の英露協商䞉囜協商成立たで続いた。


    98-3 䞭倮アゞアず北アフリカぞの列匷の進出


    䞭倮アゞアぞの進出

     18䞖玀から19䞖玀前半の䞭倮アゞアでは、オアシスの道の芁衝に䜍眮した2:ブハラハン囜、3:ヒノァハン囜、4:コヌカンドハン囜りズベク3ハン囜が、むラン、ロシア、枅を結ぶ亀易で繁栄しおいたが、19䞖玀埌半ロシアがこの地域に進出した。

     クリミア戊争でやぶれたロシアのアレクサンドル䞖は、進出の矛先を䞭倮アゞアに向けおカザフ草原今のカザフスタンを䜵合し、67幎にはタシケントに1:トルキスタン省を蚭立した。

     ロシアは、1868幎2:ブハラハン囜、1873幎3:ヒノァハン囜を保護囜ずし、1876幎4:コヌカンドハン囜を䜵合、さらに領土を広げ、むランガヌゞャヌル朝、アフガニスタンドゥッラヌニヌ朝、枅朝を圧迫した。

    泚意コヌカンドハン囜のみ「䜵合」。ダヌクヌブベクを恐れたから。「保護囜化」は、圓地の政府を残した状態で倖亀暩を接収し支配䞋に眮く。「䜵合」は、圓地の政府を取り朰しお完党に怍民地化する。

     ロシア垝囜の1:トルキスタン省が支配した領域が、20䞖玀゜連をぞお、珟圚のカザフスタン、トルクメニスタン、りズベキスタンりズベクハン囜の領域、タゞキスタン、キルギスずなった。

    北アフリカぞの進出

     北アフリカマグリブ地方は、正統カリフ時代ずりマむダ朝時代にむスラヌム化され、近䞖においおはモロッコを陀きオスマン垝囜の属州に組み蟌たれおいたが、18䞖玀から19䞖玀に工業化をすすめ軍事力で優䜍に立った西欧列匷が、䞭東地域に進出した。りマむダ朝もビックリ

     北アフリカにあった5:゚ゞプト、8:リビアトリポリ、キレナむカ、7:チュニゞア、6:アルゞェリアなどオスマン垝囜の属州では、18䞖玀から19䞖玀にかけお統治がゆるみ、珟地の支配者が自立し、西欧「䞭栞」諞囜ずの結び぀きを匷めた。

     5:゚ゞプトでは土着地䞻局マムルヌクが支配暩を握ったが、18䞖玀末フランス第䞀共和政指揮官ナポレオンボナパルトの䟵攻を受けた埌、1805幎総督ムハンマドアリヌが自立した埌述。

     1830幎フランスシャルル10䞖が6:アルゞェリアに出兵し、続く䞃月王政が1847幎に䜵合した。

     7:チュニゞアは近代化をすすめ、1861幎、むスラヌム諞囜ではじめお憲法を制定しお立憲囜家をめざしたが、1881幎ビスマルクの同意をえたフランス第䞉共和政が保護囜化した

     8:リビア トリポリ、キレナむカでは、新たな神秘䞻矩教団 9:サヌヌシヌ教団が勢力を䌞匵しおいたが、1911幎むタリアトルコ戊争でオスマン垝囜を砎ったむタリアが1912幎怍民地ずした。

     10:モロッコは、16䞖玀からムハンマドの子孫シャリヌフが治める独立王朝が぀づたが、20䞖玀初頭フランスずドむツが領有を争った二床のモロッコ事件をぞお、1912幎フランスの保護囜ずなった。



     
     
    䞖界史を教えおいるAKSのnoteです。新期県燕䞉条地域出身。高等孊校地歎科教員。修士(教育孊)。この倏歳になった小孊䞀幎生息子の父芪。自分らしさを倧切にしながら、子育おず仕事を䞡立しおいきたいず思いたす。

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