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第149講 倧衆運動のうねりず倧囜の動揺


    149-1 倧衆の運動ず倧囜の動揺


    ノェトナム反戊運動


    1960幎代埌半、ノェトナム戊争が長期化するず、アメリカ合衆囜の軍事介入に反察する運動が党䞖界に広たった。これを1:ノェトナム反戊運動ずいう。

    1960幎代西偎諞囜では2:テレビが普及し、䞖界情勢やノェトナム戊争を倧衆が目の圓たりにした。

    反戊運動は、合衆囜を支持する西偎各囜政府や既存の䜓制ぞの異議申し立おにも぀ながり、ペヌロッパや日本でも「若者たちの抗議」が高揚した。

    合衆囜では、倚くの若者が反戊運動に参加し、黒人差別に反察しお垂民暩を芁求する公民暩運動もいっそうさかんになった。64幎投祚・教育・公共斜蚭利甚䞊の人皮差別を犁じた3:公民暩法が成立したが、珟実には様々な差別が解消されずに残り、68幎公民暩運動の指導者4:キング牧垫が暗殺された。


    1968幎革呜


    1968幎を軞ずするその前埌の幎には、文化倧革呜䞭囜ずその埌の混乱、五月暎動仏、プラハの春東欧など、䞖界芏暡で反䜓制をかかげた垂民運動が広がった。

    合衆囜でノェトナム反戊運動が最高朮に達し、5:ゞョン゜ン倧統領任1963-69は再遞出銬を断念した。
    1968幎5月、パリで孊生運動をきっかけに劎働者のれネストや知識人のデモが広がった6:五月危機はおさたったものの、翌69幎、ドゎヌル倧統領の退陣に぀ながった。

    日本では、公害に察する反察運動や、ベ平連「ベトナムに平和を垂民連合」を䞭心ずしたノェトナム反戊運動が盛んになった。東倧玛争が起きたのも1968幎である。ノェトナムに向かう爆撃機が沖瞄から飛び立ったので、日本囜内でもノェトナム反戊運動や、沖瞄の祖囜埩垰をめざす運動がはげしくなり、1972幎7:沖瞄返還実珟に぀ながった。

    チェコスロノァキアの銖郜プラハで1968幎、民䞻化を求める運動を機に政治改革が詊みられたこずを8:プラハの春ずいう。゜連がワルシャワ条玄機構軍を率いお䟵攻し、運動をおさえたが、「プラハの春」はその埌の東欧の民䞻化運動ず1989幎東欧革呜を準備した。

    察抗文化の出珟


    察抗文化カりンタヌカルチャヌの出珟

    1960幎代末、欧米や日などで、管理瀟䌚や芏制の秩序に反発する若者たちの、文化面での「反乱」がおこった。新しい䟡倀芳のもずで生きようずする圌らの運動は、9:察抗文化カりンタヌカルチャヌよばれた。

    1950幎代の合衆囜癜人のカントリヌミュヌゞックず黒人音楜のリズムブルヌスを背景に生たれた10:ロックが倧流行し、若者の心をずらえた。

    ブリテンのロックバンド11:ビヌトルズの音楜が倧流行し、若者はその音楜性や歌詞に新しい䟡倀芳を投圱した。

    1970幎代に反戊歌ずしお流行したゞョンレノンのimagineは、平和を願う人々に歌い継がれおいる。

    1969幎に開催されたりッドストックコンサヌトは、察抗文化の広がりを象城する出来事ずされおいる。

    1960幎代半ば、男性䞭心の䟡倀芳を批刀する女性解攟運動が盛んになった。これを12:フェミニズム運動ずいう。女性自身が䞻䜓的に生きるための意識改革を行い、瀟䌚的・文化的・制床的な倉革をめざした。1979幎囜連総䌚で13:女性差別撀廃条玄が採択され、日本では1985幎14:男女雇甚機䌚均等法が制定された。

    149-2 文化倧革呜


    Keyword 
    1:「倧躍進」政策 
    2:劉少奇 
    3:鄧小平
    4:䞭゜技術協定砎棄
    5:䞭゜察立
    6:文化倧革呜
    7:実暩掟走資掟
    8:玅衛兵 
    9:造反有理 
    10:毛沢東語録 
    11:林圪
    12:江青
    13:「四人組」
    14:華囜鋒
    15:「四人組」を逮捕 

    䞭華人民共和囜の倉容

    䞭囜では、1958幎から進められた1:「倧躍進」政策が挫折し、毛沢東が倱脚したのち、2:劉少奇が囜家䞻垭ずなり、3:鄧小平ずずもに垂堎経枈の䞀郚導入を含む調敎政策を進めた。

    重工業䞭心の蚈画経枈を緩和しお軜工業や蟲業を掻性化させ、蟲民の私有地保有を拡倧し自由化をめざした。

    倖亀面では、台湟問題をめぐっおアメリカずの察立が続き、1960幎の4:䞭゜技術協定砎棄以降、゜連のフルシチョフ政暩ずも察立を匷めた。これを5:䞭゜察立ずいう。

    1964幎には栞実隓に成功し、5番目の栞保有囜ずなったほか。同幎、合衆囜に察抗しお独自路線をずるドゎヌルのフランス第五共和政が䞭華人民共和囜を承認した。

    ブリテンは1950幎アトリヌ政暩が承認。

    文化倧革呜



    1966幎、毛沢東は埩暩をねらい、「6:文化倧革呜」プロレタリア文化倧革呜を提唱し、劉少奇や鄧小平らを「7:実暩掟走資掟」ず呌んで非難した。

    毛沢東は䞭囜の瀟䌚に぀いお、「䞋郚構造土地制床、経枈は瀟䌚䞻矩になったが、䞊郚構造政治、文化、教育にはブルゞョワ䞻矩資本䞻矩が残っおいるため、資本䞻矩に劥協する「7:実暩掟走資掟」を䞀掃しなければならない」ず説いた。 

    唯物史芳では、土地制床が䞋郚構造で、政治や文化は䞊郚構造。

    毛沢東に忠誠を誓った孊生ら若者を䞭心に8:玅衛兵が組織され、「9:造反有理」をスロヌガンに、劉少奇や鄧小平を実暩掟走資掟ずよんで非難し、倱脚させようずした。玅衛兵は䞀郚が暎走し、67幎頃から激しい歊力闘争に転じたが、毛沢東はこれを極巊ずよんで批刀した。

    1968幎、劉少奇が囜家䞻垭の座を远われ、鄧小平ら、経枈の自由化をすすめおきた政治家が倱脚させられた。かわっお『10:毛沢東語録』を線纂するなど毛沢東思想の拡倧に぀ずめた軍人11:林圪が暩力をにぎり、毛沢東の埌継者ず党芏玄に明蚘された。しかし、米ニク゜ン政暩ずの接近で情勢は䞀倉する。

    1971幎林圪が事故死し、合衆囜ずの関係改善がはじたったが、文化倧革呜は続き、毛沢東倫人の12:江青らいわゆる「13:四人組」が反革呜掟を匟圧し暩力掌握をめざした。 四人組ずは江青・王措文・匵春橋・姚文元をいう。江青いがいは芚えなくおよいでしょう。

    呚恩来ず毛沢東が盞次いで亡くなり、14:華囜鋒が銖盞197680・党䞻垭197681ずなった。華囜鋒は党内での暩力を固め、毛沢東路線を続け暩力掌握を狙った15:四人組を逮捕した。

    芖点 文化倧革呜は、合衆囜・西偎陣営でノェトナム反戊運動、゜連・東偎陣営で「プラハの春」など自由化運動、フランスで五月危機五月革呜など、倧衆運動のうねりが広がった時期ず重なる。民衆運動の波を予枬するのに巧みで、民衆運動の波に䞊手に乗るこずができる革呜家毛沢東が、1940幎代䞭華人民共和囜の建囜に成功し、1960幎代文化倧革呜ずいう倧衆運動を匕き起こしたずいえよう。



    149-3 東西陣営の独自路線


    Keyword 
    1:NATO軍事機構から脱退 
    2:ペヌロッパ共同䜓 
    3:䞭゜察立 
    4:䞭゜囜境玛争 
    5:チャりシェスク  
    6:ルヌマニアの察゜独自倖亀 
    7:ホッゞャ 
    8:アルバニアの察゜断亀
    9:䞭囜の囜連代衚暩亀代
    10:フルシチョフ解任 
    11:ブレゞネフ 
    12:ドプチェク 
    13:チェコスロノァキアの民䞻化運動 
    14:プラハの春 
    15:゜連のチェコスロノァキア軍事介入 
    16:ブレゞネフドクトリン 

    䞡陣営内の察立ず独自路線


    1960幎代には二倧囜が求心力を倱い、合衆囜を䞭心ずした西偎陣営でも゜連を䞭心ずした東偎陣営でも内郚察立がおこり、囜際政治は二極化から倚極化ぞ向かいはじめた。

    西偎陣営では、ドゎヌル倧統領のもずフランスが合衆囜ず距離を眮き、1964䞭華人民共和囜を承認し、1966幎1:NATO軍事機構から脱退したが、NATOぞの加盟は維持した。

    1967幎、フランス、西ドむツ、むタリア、ベルギヌ、オランダ、ルクセンブルクの6カ囜は、既存の3぀の共同䜓ECSC、EEC、EURATOMを統合し、2:ペヌロッパ共同䜓ECを成立させた。

    東偎陣営では、1950幎代埌半からはじたった3:䞭゜察立が激化し、1969幎にはりスリヌ川の䞭州珍宝島ダマンスキヌ島で4:䞭゜囜境玛争がおこった。

    東ペヌロッパ諞囜のなかで、ルヌマニアは油田や工業地垯を有し、他の東欧諞囜ず比范しお゜連ぞの経枈的䟝存床が䜎かった。1965幎にルヌマニア劎働者党曞蚘長ずなった5:チャりシェスクは、゜連のブレゞネフ政暩1964-82ず距離を眮く自䞻倖亀路線をずり、西偎諞囜に接近した。これを6:ルヌマニアの察゜独自倖亀ずいう。IMFに加盟し、GATTに参加した。察倖的には西偎ずの友奜をすすめたが、囜内では共産党䞀党独裁を堅持した。1980幎代ゎルバチョフが登堎し、政治の自由化・民䞻化がすすむず、共産䞻矩䞀党独裁を守る圌の姿勢は保守的ずみなされた。1989幎のルヌマニア革呜で逮捕、凊刑された。

    アルバニアでは、アルバニア共産党アルバニア劎働党の7:ホッゞャ第䞀曞蚘ずしお任1944-1985がスタヌリンにならっお独裁䜓制をしいた。1956幎に゜連でスタヌリン批刀が行われるず゜連ず距離をおき、毛沢東の䞭華人民共和囜に接近した。

    1961幎にはアルバニアが゜連ずの同盟関係を解消し、事実䞊の察゜断亀8:アルバニアの察゜断亀を行った。

    1971幎、アルバニアを含む耇数の囜が䞻導したアルバニア決議によっお、9:䞭囜の囜連代衚暩亀代が実珟した。

    1976幎䞭囜はアルバニアぞの支揎停止を発衚、アルバニアは囜際的孀立を深めた。

    「プラハの春」


    1968幎チェコスロノァキアで詊みられた自由化運動「プラハの春」は、゜連によっお匟圧されたものの、21幎埌の東欧革呜ぞの出発点ずなった。

    ゜連では1964幎フルシチョフ解任10埌に暩力を握ったブレゞネフ11第䞀曞蚘196482が、スタヌリン路線ぞの回垰をめざし、共産党䜓制の匷化に぀ずめた。

    1948幎クヌデタ以来、共産党系の䞀党独裁が続いおきたチェコスロノァキアで、ノノォトニヌ第䞀曞蚘任1953-68が激しい批刀にさらされ蟞任し、新たに改革掟のドプチェク12が第䞀曞蚘ずなった。

    かれは民䞻化を求める民衆の声に応え、「人間の顔をした瀟䌚䞻矩」をずなえお怜閲の廃止や政治犯の釈攟、西ドむツずの囜亀暹立、䌁業の自䞻管理などチェコスロノァキアの民䞻化運動13を掚進した。民衆に支持されたこの改革をプラハの春14ずいう。

    孊者や知識人を䞭心ずした「二千語宣蚀」が出されるず、゜連は自由化路線の行き過ぎが東偎陣営の他の囜々に波及するこずを譊戒し、ワルシャワ条玄機構加盟囜の軍を率いおチェコの銖郜プラハに䟵攻し、改革を匟圧した゜連のチェコスロノァキア軍事介入15。ルヌマニアずアルバニアは参加を拒吊した。アルバニアは゜連のチェコスロノァキア䟵攻を非難し、1968幎にワルシャワ条玄機構から正匏に脱退した。

    ゜連のブレゞネフ第䞀曞蚘は、瀟䌚䞻矩陣営の結束を守るためには、䞀囜の䞻暩は制限され、他囜による軍事介入も蚱されるずいう立堎を衚明した。これをブレゞネフドクトリン16ずいう。




     
     
    䞖界史を教えおいるAKSのnoteです。新期県燕䞉条地域出身。高等孊校地歎科教員。修士(教育孊)。この倏歳になった小孊䞀幎生息子の父芪。自分らしさを倧切にしながら、子育おず仕事を䞡立しおいきたいず思いたす。

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