メインコンテンツへスキップ
見出し画像

第58講 明の成立

    58-1 東部ユーラシアの「14世紀の危機」

    Keyword
    1:交鈔
    2:下生信仰
    3:白蓮教
    4:韓山童
    5:韓林児
    6:紅巾の乱
    7:朱元璋
    8:南京
    9:明
    10:北元
    11:ツォンカパ
    12:パスパ
    13:サキャ派
    14:ゲルク派
    15:ダライ=ラマ
    16:李成桂
    17:朝鮮王朝
    18:漢城
    19:朱子学
    20:科田法
    21:金属活字
    22:銅活字
    23:世宗
    24:訓民正音
    25:三浦
    26:経国大典
    27:両班

    大元ウルスの滅亡と明成立

    14世紀前半にペストとみられる疫病が流行し社会不安が高まった。経済活動が停滞し銀が不足すると大元ウルスは紙幣1:交鈔を乱発し激しいインフレーションが起きた。

    弥勒菩薩が万人を救うために出現するという2:下生信仰と結びついた仏教系の民間信仰3:白蓮教が広まり、北宋の皇帝徽宗の末裔を自称する指導者4:韓山童が蜂起を計画したが、発覚して殺された。

    韓山童の息子5:韓林児を指導者とし、1351年白蓮教徒による6:紅巾の乱がおこった。大元ウルスは皇帝トゴン=テムルのもとで政争に明け暮れて国力が衰退、乱を鎮圧できなかった。

    群雄が割拠したが、反乱勢力のなかから頭角をあらわした農民出身の7:朱元璋が、儒学(朱子学)に通じた知識人の支持をえ、宋代以来「蘇湖(江蘇省と浙江省)熟すれば天下足る」といわれた長江下流域の穀倉地帯をおさえ、1368年皇帝に即位、8:南京を都に9:明(みん)を建てた。

    同年、明は大都を攻略し、モンゴル人は万里の長城以北にしりぞき10:北元(1371-88)をたてた。

    新しいチベット仏教


    チベットでは14世紀末に11:ツォンカパがあらわれ、ブッダの教えに帰れと説き、12:パスパいらい主流であった13:サキャ派(紅帽派)の堕落を批判、新たに厳格な14:ゲルク派(黄帽派)をひらいた。彼の後継者ドゥプパは、死後16世紀に15:ダライ=ラマの尊称を追贈され、ダライ=ラマ1世となった。

    高麗滅亡と朝鮮王朝成立

    紅巾の乱がおこると、元に服属してきた高麗では元の支配を脱し自立をめざす派閥(のちの親明派)と親元派の対立がおこった。武人の16:李成桂が反乱勢力を撃退し前期倭寇を討伐して名声を得、1392年、最後の高麗王から禅譲を受け王位(位1392-98、廟号は太祖)につき、17:朝鮮王朝をひらいた。

    高麗の都開城から南の18:漢城(現在のソウル)に遷都、高麗時代に強大化した仏教勢力を排除し、新たに高麗末期から盛んになった19:朱子学を官学とした。

    太祖は高麗時代の貴族から土地を没収、新官僚に支給する20:科田法を実施、王朝の基盤を固めた。

    第三代太宗(位1401-1418)の時、明の永楽帝から朝鮮国王として正式に冊封された。

    13世紀前半高麗で世界初の21:金属活字が使用(素材は不明)され、朝鮮半島では世界の他地域に先駆けて活字技術が発展、太宗は官立の鋳字所を建て、22:銅活字を鋳造した。

    第四代23:世宗(位1418-1450、大王)は、法制・税制を整備し、朝鮮王朝の最盛期を築いた。 朝鮮語を表記する新たな表音文字ハングルを制定し24:訓民正音の名で交付、出版を奨励した。

    斉浦・塩浦・釜山浦(富山浦)の 25:三浦に開港場を設け対日交易を管理し倭寇を取り締まった。

    朝鮮王朝の基本法典となる一連の『26:経国大典』編纂が開始され、1470年前後に完成した。

    15世紀後半政治の実権を握った27:両班が土地所有を拡大、中央での党争が激化し政局は混乱した。


    58-2洪武帝の政治


    Keyword: 1:南京、2:明、3:朱元璋、4:一世一元の制、5:洪武帝、6:明律・明令、7:中書省、8:五軍都督府、9:都察院、10:海禁、11:前期倭寇、12:宝鈔、13:軍戸、14:衛所制、15:民戸、16:里甲制、17:魚鱗図冊、18:賦役黄冊、19:六諭、20:里老人、21:中書省を廃止、22:丞相を廃止、23:建文帝、24:靖難の役

    明の成立と海禁政策


    1368年、1:南京を都に2:明を建てた3:朱元璋は、即位に際し元号を「洪武」と定め、一人の皇帝の在位期間は元号を変えない4:一世一元の制を採ったため、死後5:洪武帝(廟号は太祖)と呼ばれた。

    5:洪武帝は建国と同時に法典として6:明律・明令を発布し、中央には六部を統括する7:中書省、軍事を担当する8:五軍都督府、文武官の監察にあたる9:都察院を置いた。

    5:洪武帝は大元ウルスでは自由放任だった民間貿易の統制に乗り出し、中国人の海外渡航や民間交易(私貿易)を禁止する「10:海禁」を実施、交易を「朝貢」のみに制限、冊封体制による明中心の東アジア新秩序形成をめざした。そのため11:前期倭寇を厳しく取り締まり、日本にも取り締まりを求めた。

    銅銭の不足を補うため、1375年12:宝鈔を発行した。正式には「大明通行宝鈔」という。

    明の地方行政

    地方には、行政担当の布政使、監察担当の按察使、軍事担当の都指揮使を置いた。

    戸は15:民戸と13:軍戸に分けられた。13:軍戸は、唐の府兵制にならった14:衛所制によって衛、千戸所、百戸所という単位に編成された。15:民戸は、11戸で1甲、10甲で1里として自治を行わせる16:里甲制という仕組みに再編した。

    交易や商業を重視した大元ウルス治下の政策を転換し、農業を重視して以下のような政策を実施した。

    唐後期以降実施されてきた夏と秋の二度課税する両税法を維持、確実に課税するため、図面式の土地台帳17:魚鱗図冊、図表式の戸籍・賦役台帳18:賦役黄冊を作成した。

    農民を教化するため19:六諭を作成し、里ごとに置かれた20:里老人が六諭を教えた。

    中書省の廃止と内乱

    洪武帝は1380年、胡惟庸の獄をきっかけに21:中書省を廃止し、その長官であった22:丞相を廃止して、六部を皇帝に直属させ、皇帝独裁による中央集権体制をめざした。

    しかし、実際には、皇帝一人で政務を処理できず、秘書である殿閣大学士を置いて政務を補佐させた。

    1398年に洪武帝が亡くなると、孫が帝位を継承した(23:建文帝)が、北平(元の大都、北京)を守っていた四男の燕王朱棣が反旗をひるがえし、1399年に24:靖難の役(~1402)が起こった。

    58-3 永楽帝の政治


    Keyword

    1: 建文帝
    2: 燕王
    3: 靖難の役
    4: 永楽帝
    5: 成祖
    6: 内閣
    7: 内閣大学士
    8: 六部
    9: 軍機処
    10: モンゴル遠征
    11: タタール(韃靼)
    12: オイラト(瓦刺)
    13: 北京
    14: 紫禁城
    15: 胡朝
    16: 四書大全
    17: 五経大全
    18: 孔穎達
    19: 五経正義
    20: 性理大全
    21: 永楽大典
    22: 鄭和
    23: 南海諸国遠征
    24: 朝貢

    永楽帝の即位と政治

    1398年に洪武帝が亡くなると、孫が第二代皇帝として南京で即位した(1:建文帝)が、北平(元の大都、いまの北京)を守っていた四男の2:燕王 朱棣が反旗をひるがえし、1399年に3:靖難の役(~1402)がおこった。内戦は三年続いた。*1126年靖康の変と混同注意。

    燕王は南京を攻略、建文帝にかわって1402年、帝位についた。治世を通じて元号が「永楽」だったことから、4:永楽帝(位1402-1424、廟号5:成祖)と呼ばれる。*一世一元の制の慣習化。

    洪武帝がおいた殿閣大学士を受け継ぎ、行政府として6:内閣を置き、7:内閣大学士に皇帝の職務を補佐させた。内閣大学士は、8:六部[ ・ ・ ・ ・ ・ ]の官僚を統括し、主席大学士は事実上の宰相となった。18世紀、清の雍正帝が9:軍機処を置くまで行政の中心を担った。

    外征

    永楽帝は大元ウルスの領域再現をめざし、モンゴルからヴェトナムまで積極的に外征した。

    1410年から24年まで5度の10:モンゴル遠征を行った。歴代漢人皇帝として唯一、みずからゴビ砂漠をこえて親征、モンゴル族本流の11:タタール(韃靼)や傍流の12:オイラト(瓦刺)を攻撃した。

    大運河を修復して華北と江南を結び、1421年、自身の拠点でモンゴル遠征の前線北平を13:北京と改称して遷都、宮城として14:紫禁城を築いた。*以後明清皇帝の居城となった。

    15: 胡朝 16: 四書大全 17: 五経大全 18: 孔穎達 19: 五経正義 20: 性理大全 21: 永楽大典 22: 鄭和 23: 南海諸国遠征 24: 朝貢

    さらに西はチベット、東は朝鮮王朝を冊封し、南は大越に出兵して 15:胡朝 を征服した。*フビライ=ハンは陳朝の征服に失敗したが永楽帝は後身の胡朝を征服。永楽帝の死後、大越には黎朝が自立した。


    編纂事業

    永楽帝は士大夫層の知識人を動員し大編纂事業をおこし、次の4つの全集が編纂された。

    『16:四書大全』は、永楽帝が編纂させた四書[①   ②   ③   ④   ]の注釈書。1415年刊。儒教解釈は国定化され、以後の科挙試験はこの解釈以外認められなくなった。

    『17:五経大全』は、永楽帝が編纂させた五経[①   ②   ③   ④   ⑤   ]の注釈書。1415年刊。唐代に 18:孔穎達 が著した『19:五経正義』にならって作成され、『四書大全』と同じく儒教解釈の基準となった。

    『20:性理大全』は、永楽帝が編纂させた宋学(朱子学、性理学)の全集。1415年刊。全70巻。代表的著述と学説、類別して注をくわえたものの2部で構成される。*「性即理」が朱子学の柱。

    『21:永楽大典』は、永楽帝が編纂させた類書(百科事典)。1408年刊。2万巻をこえる中国最大の編集事業で、膨大さゆえに正本は一部のみ作成された。散逸して副本の800巻が現存する。

    南海諸国遠征

    永楽帝は、ムスリムの宦官 22:鄭和 に大艦隊を率いさせ東南アジアからインド洋に派遣し、南海諸国に朝貢を促した。これを 23:南海諸国遠征 という。

    鄭和艦隊は、マラッカ、ホルムズ(現イラン)、カリカット、アデン(現イエメン)などをへて、アフリカ東海岸のモガディシュ(現ソマリア)、スワヒリ文化圏のマリンディ(現ケニア)達した。

    新たに朝鮮半島を統一した朝鮮王朝、南北朝を統一した日本の室町幕府(足利義満)、琉球王国、マラッカ王国など多くの周辺国が明に 24:朝貢 した。*室町時代の「勘合貿易」は、形式的には朝貢のような関係を持ちながらも、実際には貿易を主な目的とした商業取引であった。

    鄭和は南ヴェトナムのチャンパー(占城)と、マラッカ海峡に面した港市国家マラッカを根拠地とし、東南アジア、インド洋各国に中国への朝貢を促した。明へ朝貢使節を派遣した国は50以上にのぼった。


     
     
    世界史を教えているAKSのnoteです。新潟県燕三条地域出身。高等学校地歴科教員。修士(教育学)。この夏7歳になった小学一年生息子の父親。自分らしさを大切にしながら、子育てと仕事を両立していきたいと思います。

    あなたへのおすすめ