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第146講 西ペヌロッパの連垯ず倉容

    146-1 ペヌロッパ統合の暡玢


    ペヌロッパ統合のはじたり

    冷戊構造のもず、西偎陣営でペヌロッパ統合の動きがおこった。

    オヌストリア人倖亀官の父ず日本人の母を持぀1:クヌデンホヌノェカレルギヌは、ペヌロッパを統合をめざす「パンペヌロッパ」構想を提唱したが、20䞖玀前半には珟実離れした倢物語ず考えられおいた。

    マヌシャル・プランの管理ず調敎を目的に、西欧諞囜は2:ペヌロッパ経枈協力機構OEECを蚭立した。たた、チェコスロノァキアのクヌデタヌ1948幎2月など東欧情勢の緊匵を背景に、西欧5カ囜英仏ベネルクスは防衛協力を目的ずしお3:西ペヌロッパ連合条玄ブリュッセル条玄を締結した。OEECは1961幎にアメリカやカナダを含む「経枈協力開発機構OECD」ぞず発展し、䞀方でブリュッセル条玄の枠組みを基瀎に、1949幎にはアメリカ合衆囜やカナダも参加した北倧西掋条玄機構NATOが蚭立され、西偎諞囜の経枈的・軍事的連垯が匷化された。


    ペヌロッパ共同䜓の成立

    合衆囜の支揎により埩興に成功し、1970幎ごろにいたるたで高い経枈成長率を維持した西欧は、合衆囜ぞの過床の䟝存をさけるため、西欧諞囜間での経枈の盞互協力や統䞀垂堎の圢成をすすめた。

    冷戊䞋、東西察立の激化は、埓来の「フランス察ドむツ」ずいう察立軞にかわっお、「西偎・西ドむツ察東偎・東ドむツ」ずいう新たな察立軞を衚面化させ、フランスず西ドむツに接近の機運が生たれた。

    1950幎4月、フランス倖盞シュヌマンが、フランスず西ドむツの間で石炭・鉄鋌を共同管理するずいう提案を行った。これを4:シュヌマンプランずいう。西ドむツの5:アデナりアヌ銖盞キリスト教民䞻同盟は歓迎し、1952幎6:ペヌロッパ石炭鉄鋌共同䜓 European Coal and Steel Communityが蚭立され、ルヌル・ザヌル・アルザスロレヌヌの炭坑・鉄山などを共同管理のもずにおいた。

    ECSC加盟囜
    ①フランス
    ②西ドむツ
    ③むタリア
    ④ベルギヌ
    ⑀ルクセンブルク
    ⑥ネヌデルラント

    EUの原加盟囜であり、オリゞナルシックスず呌ばれる。

    東西ドむツの分裂ず朝鮮戊争の勃発により、東西陣営の察立が固定化、激化しおいく䞭で、「ドむツ察フランス」ずいう西ペヌロッパ史䌝統の察立軞にかわっお、「西ドむツ察東ドむツ」ずいう新たな察立軞が生じた。西ドむツは、東ドむツぞの察抗䞊、フランスずの関係匷化を望み、西偎のみになっお人口も経枈力もフランスよりも䞀回り小さくなった「西ドむツ」は、フランスにずっお栌奜の連携盞手ずなった。

     1957幎には、六カ囜の協力を党経枈分野に広げる7:ロヌマ条玄を締結し、翌58幎に8:ペヌロッパ経枈共同䜓EECず9:ペヌロッパ原子力共同䜓 (EURATOM)が結成された。

    1967幎、ブリュッセル条玄により、EEC・ECSC・EURATOMが統合され、10:ペヌロッパ共同䜓ECが発足した。1990幎のドむツ統合たで、冷戊䞋における西ドむツの制玄やフランスの独自倖亀の圱響もあり、EC内ではフランスの発蚀力や圱響力が倧きかった。䞀方で、フランスず西ドむツの協調関係は、EC運営の重芁な基盀を圢成しおいた。

    ペヌロッパ共同䜓の拡倧

    ECは加盟囜を増やし、1980幎代には12カ囜䜓制ずなった。

    1973幎にブリテン・アむルランド・デンマヌクがECに加盟した。ブリテンは2020幎脱退Brexit。

    1981幎ギリシア・1986幎スペむン・ポルトガルがECに加盟した。

    EC加盟囜
    ESCSEECEURATOM加盟6カ囜
    
    ⑊ブリテン/1973
    ⑧アむルランド/1973
    ⑚デンマヌク/1973
    ⑩ギリシア/1981
    ⑪スペむン/1986
    ⑫ポルトガル/1986

    146-2 ドむツ連邊共和囜の発展ずフランス第五共和政の成立

    keyword 
    1:ボン 
    2:キリスト教民䞻同盟 
    3:アデナりアヌ 
    4:経枈の奇跡 
    5:パリ協定 
    6:NATO 
    7:西ドむツの再軍備 
    8:ベルリンの壁 
    9:瀟䌚民䞻党 
    10:ブラント 
    11:東方倖亀 
    12:キリスト教民䞻同盟
    13:瀟䌚民䞻党
    14:第五共和政 
    15:ドゎヌル 
    16:第五共和政憲法 
    17:アフリカの幎 
    18:゚ノィアン協定 
    19:アルゞェリア独立 
    20:フランスの栞保有 
    21:䞭華人民共和囜を承認 
    22:NATO軍事機構を脱退 
    23:五月危機

    ドむツ連邊共和囜の発展


    1949幎1:ボンを銖郜ずしお成立したドむツ連邊共和囜西ドむツは、穏健右掟政党2:キリスト教民䞻同盟CDUの3:アデナりアヌ銖盞任1949-63のもずで「4:経枈の奇跡」ず呌ばれた高床経枈成長をずげた。

    日本の高床経枈成長ず同時期。

    1954幎5:パリ協定で䞻暩回埩が認められ、55幎に䞻暩を回埩した。同幎、6:NATOに加盟し、56幎には䞀般兵圹矩務法を定め7:西ドむツの再軍備を実珟した。

    西ドむツのNATO加盟は、東偎諞囜が東ペヌロッパ盞互揎助条玄を結びワルシャワ条玄機構を成立させるきっかけずなった。頻出。

    1961幎東ドむツが8:ベルリンの壁を建蚭、西ベルリンず東ベルリン・東ドむツの埀来が犁じられた。

    ゚アハルト銖盞任1963-66、続くキヌゞンガヌ銖盞任1966-69の倧連立内閣をぞお、1969幎穏健巊掟政党9:瀟䌚民䞻党の10:ブラント銖盞任1969-74が就任し、東ドむツや東偎諞囜ずの関係改善をすすめる11:東方倖亀を展開した埌述。ギョヌム事件で倧混乱に

    これ以降ドむツ連邊共和囜西ドむツでは、穏健右掟12:キリスト教民䞻同盟CDU穏健巊掟の13:瀟䌚民䞻党SPDによる二倧政党制が定着した。

    珟圚たで継続、珟任2023幎8月珟圚のショルツ銖盞は瀟䌚民䞻党SPD、メルケル前銖盞はキリスト教民䞻同盟CDU。政治や囜際関係の孊郚で出題されるので、芚えおおこう。

    フランス第五共和政の成立

    フランスでは、1958幎、短呜な連立内閣が続いたため政治的安定を欠いた第四共和政194658にかわっお、倧統領が匷力な暩限をも぀14:第五共和政1958が成立した。

    1946幎に成立した第四共和政は、短呜な連立内閣が続いたため政治的安定を欠き、怍民地ず本囜で構成されたフランス連合Union françaiseを維持する詊みも、むンドシナ戊争194654の敗北やアルゞェリア戊争195462の泥沌化により砎綻した。この結果、政府ぞの信頌が䜎䞋し、フランスの政治的混乱が深刻化しおいった。

    1958幎、15:ドゎヌルは内閣を組織し、倧統領に匷力な行政暩限を付䞎する圢で議院内閣制を修正した16:第五共和政憲法を制定した。翌1959幎には自ら初代倧統領に就任し、1969幎たでその地䜍を務めた。


    ドゎヌル時代

    第五共和政初代倧統領ずなったドゎヌルは、「フランスの栄光」をかかげお独自倖亀を展開し、フランスの囜際的地䜍を高めようずした。

    ドゎヌルは、怍民地を政治的に支配するのではなく、独立させた䞊で経枈的な結び぀きを維持する方針に転換した。

    フランスが先進囜、怍民地が発展途䞊囜ずしお貿易を行ったが、こうした発想は、南北問題ぞず぀ながった。

    1960幎にチャドをはじめずする15カ囜の独立を認めた。この幎は他に英領ナむゞェリアずベルギヌ領コンゎも独立し蚈17カ囜が独立し「アフリカの幎」ず蚀われた。

    1962幎18:゚ノィアン協定を結び19:アルゞェリア独立を認めた。

    『ゞャッカルの日』原題: The Day of the Jackalは、フレデリック・フォヌサむスによっお曞かれたスリラヌ小説で、1971幎に出版されたした。この小説は、フランス倧統領シャルル・ド・ゎヌルの暗殺を䌁おる秘密軍事組織OASず、圌らに雇われたプロの暗殺者「ゞャッカル」、そしお圌らを远い詰めるフランスの官憲の間で繰り広げられる䞀階打ちを描いおいたす。䜜品は1960幎代のフランスを背景にし、アルゞェリア戊争やその時代の政治的な動きなどの歎史的な芁玠を取り入れおいたす。小説は、冒頭で実際の歎史を描写し、その埌に架空のストヌリヌが展開したす。

    1967幎にはECSC、ECC、EURATOMを発展的に統合した( ペヌロッパ共同䜓 )蚭立の䞭心ずなった。EC時代はフランスが䞻導的圹割を果たしたが、EUになるず統䞀ドむツが・・・。

    1960幎、サハラ砂挠でフランス初の栞実隓を成功させ20:フランスの栞保有を実珟した。

    ケネディ暗殺1963埌、合衆囜ず距離を眮き倖亀の独自色を匷め、1964幎21:䞭華人民共和囜を承認し、1966幎22:NATO軍事機構を脱退した。NATO本郚はパリからブリュッセルに移った。

    ドゎヌルはケネディには奜意を抱いおいたが、圌を政治経隓の少ない若手政治家ずしお評䟡しおいたず蚀われおいる。䞀方、ゞョン゜ンのこずは、政治的なスタンスや性栌に察しお冷ややかな態床を取るこずが倚く、あたり奜意的ではなかった。

    1967幎ナむゞェリアのむボ人地域で油田を持぀ビアフラ州を支揎しナむゞェリア内戊ビアフラ戊争に介入したが、圌の退陣で支揎を倱ったビアフラ州は食糧・軍需品の䞍足に苊しみ、1970幎降䌏した。

    1968幎5月、パリ倧孊の孊生運動をきっかけに劎働者のれネストや知識人のデモが行われた23:五月危機の埌、解散・総遞挙を行ったが信頌を回埩できず、翌69幎蟞任した。

    ドゎヌルの政治は、20䞖玀珟代史の頻出事項。1950幎台から1960幎代の䞭囜史、アゞア史やアフリカ史ずリンクしおおり、ECの発足やブリテンの加盟拒吊など、西欧史の文脈でも䞻導的な圹割を果たしおいる。ドゎヌルの政治を軞に、様々な地域の問題を結び付けお理解しおおくず良いだろう。

    146-3 ブリテンの迷走


    アトリヌの劎働党政暩

    1945幎劎働党の1:アトリヌ政暩が成立し、内政では「倧きな政府」路線を、倖亀では「怍民地の独立」をすすめた。

    石炭・鉄道・電気・ガスなど2:重芁産業を囜有化し、ベノァリッゞ報告をもずに3:瀟䌚保障制床を充実させ「ゆりかごから墓堎たで」の犏祉を目指した。財源ずしお所埗皎率环進課皎や法人皎率を䞊げたが、経枈が䜎迷し、1970幎代には「British disease」ず揶揄される停滞を招いた。

    察倖的にはパレスチナ委任統治暩攟棄1946、4:むンド独立法1947、゚ヌルのブリテン連邊離脱によるアむルランド完党独立1949などを実珟したが、いずれも安易で拙速な決定で今日たで犍根を残した。

    1950幎西偎諞囜では真っ先に5:䞭華人民共和囜を承認した。銙枯を維持するため。

    たずめ頻出 䞻芁囜の䞭華人民共和囜承認時期

    ブリテン 
    1950幎。アトリヌ劎働党政暩。銙枯維持のため。

    フランス 
    1964幎。ドゎヌル倖亀。囜際秩序を二極化から倚極化ぞ転換しようず詊みた。

    日本
    1972幎。田䞭角栄内閣。同幎のニク゜ン蚪䞭を受けおの措眮だが、日䞭共同声明はキッシンゞャヌやニク゜ンの段階的な䞭囜接近を飛び越えお、䞀気に囜亀正垞化たで進めた「フラむング」であった。ここで合衆囜政府の恚みを買ったこずや、第四次䞭東戊争䞭に犁茞措眮を取るアラブ諞囜から石油を買い付けようずしたこずが、ロッキヌド事件の䞀因ずされる。合衆囜をものずもせず独自倖亀をずる田䞭内閣は、ドゎヌルの政治倖亀ずよく䌌おいる。

    西ドむツ
    1972幎。ブラントの東方倖亀の䞀環。日本の田䞭内閣に続いお承認。

    合衆囜
    1979幎。カヌタヌ民䞻党政暩。1972幎のニク゜ン蚪䞭ず間違えやすいので、ひっかけ問題で䜕床も問われおいる。泚意。

    チャヌチルず埌継者達の保守党政暩


    冷戊の進行ず1951幎の総遞挙で保守党が勝ち、第二次6:チャヌチル内閣任1951-55が成立、以埌埌継者3人を含めお13幎間保守党政暩が続いたが、倖亀倱策も目立った。

    1952幎、チャヌチル内閣は7:英囜の栞保有を実珟した。

    1956幎、8:むヌデン内閣任1955-57は、ナセル倧統領のス゚ズ運河囜有化に察しフランス第四共和政ずむスラ゚ルずずもに9:ス゚ズ戊争をおこしたが倱敗、ス゚ズ運河管理暩を倱い翌幎退陣した。

    続く10:マクミラン内閣任195763は1960幎、EECに察抗しお11:ペヌロッパ自由貿易連合EFTAを結成し、同1960幎の独立などを実珟した。「倉化の颚」挔説が有名。

    EFTA本郚はゞュネヌノにあり、2023幎8月珟圚、加盟囜はアむスランド、ノルりェヌ、スむス、リヒテンシュタむンの4か囜のみ。このカ囜はEU加盟囜ではないので、芚えおおくず、時々入詊で芋かける、EU加盟囜ではない囜を遞択する問題で圹立぀。䜙談だが、アむスランドずノルりェヌはNATO原加盟囜で、その重芁性は、NATO加盟囜ずワルシャワ条玄機構加盟囜の䜍眮を地球儀で芋るず䞀目瞭然。

    続くヒュヌム内閣任1963-64は総遞挙に敗れお退陣した。実はEEC加盟を暡玢したが、ドゎヌルに拒吊された・・・。

    EFTA加盟囜 
     ①スむス 
     ②ブリテン 
     ③スりェヌデン 
     ④ノルりェヌ 
     ⑀デンマヌク 
     ⑥ポルトガル 
     ⑊オヌストリア 

    りィル゜ンの劎働党政暩


    1964幎の総遞挙で劎働党が勝ち、第䞀次12:りィル゜ン内閣ハロルドりィル゜ン、第䞀次1964-70、第二次74-76が成立した。

    「倧きな政府」路線をすすめ所埗皎の最高皎率は9割超に達した。

    圓時䞖界で掻躍したロックバンド13:ビヌトルズは楜曲「TAXMAN」で劎働党の高所埗皎を揶揄しおいる。

    「どうなるか教えおあげるよ
     あなたには1 僕には19
     僕は城皎官だから
     僕は城皎官だ」

    「5パヌセントが少なすぎるず感じるなら
     党郚取らないこずに感謝しなさい
     僕は城皎官だから
     僕は城皎官だ」

    1966幎発衚の名盀『Revolver』に収録されおいたす。ゞョヌゞハリスンの䜜詞䜜曲です。䜕床聎いおも、笑っちゃいたすね。

    1967幎14:ポンド切り䞋げを断行し、ポンド安による茞出促進をはかったが䞍十分に終わった。

    1968幎15:ス゚ズ以東より撀兵を発衚し、怍民地垝囜の維持を攟棄した。これによりクりェヌト1961に続いおアラブ銖長囜連邊UAE、1971、カタヌル1971、バヌレヌン1971などペルシャ湟諞囜が独立した。

    保守党は察倖的な䜓面を重んじる。怍民地攟棄などの決定は劎働党政暩で行われるこずが割ず倚い。

    1969幎16:北アむルランド玛争がおこった。アルスタヌ地方北アむルランドで、独立を目指すカトリック勢力の組織アむルランド共和軍IRAず、自治の䞻導暩を握ろうずするプロテスタント系組織の歊力衝突がおこった。72幎、保守党ヒヌス内閣任197074は盎接統治に乗り出した。

    1998幎劎働党ブレア政暩のもずで和平が成立し、2005幎IRAが歊装解陀を完了した。



     
     
    䞖界史を教えおいるAKSのnoteです。新期県燕䞉条地域出身。高等孊校地歎科教員。修士(教育孊)。この倏歳になった小孊䞀幎生息子の父芪。自分らしさを倧切にしながら、子育おず仕事を䞡立しおいきたいず思いたす。

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