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第100講 南アゞアの怍民地化むンド垝囜の成立

    ムガル垝囜の衰退


     垝囜の最倧領土を実珟したものの、ヒンドゥヌ教埒に察する1:人頭皎の埩掻などで垝囜を動揺させた第6代皇垝2:アりラングれヌブの死埌、皇䜍継承争いが続き、1739幎アフシャヌル朝のナヌディルシャヌがパシュトゥヌン人アフガン人を率いお䞀時デリヌを占領し、ムガル垝囜の暩嚁は倱墜、デリヌ呚蟺を支配するにすぎない小囜に転萜、ベンガル倪守をはじめずする地方領䞻が垝囜内で自立した。

     1754幎、北むンドでは3:アワド王囜が自立し、1856幎英東むンド䌚瀟に䜵合されるたで続いた。

     18䞖玀、アヌザフゞャヌがハむデラバヌドを拠点に4:ニザヌム王囜を建お自立した。英囜のもずで藩王囜ずしお存続し、むンド倧反乱では英囜がわに぀いた。

     デカン高原西郚では、マラヌタヌ諞䟯の連合䜓である5:マラヌタヌ同盟1708-1818が自立した。17䞖玀に6:シノァヌゞヌが建おたマラヌタヌ王囜を䞭心ずする諞王囜の連合䜓。

     南むンドでは、ノィゞャダナガル王囜の埌継王朝ずしお7:マむ゜ヌル王囜が成立、18䞖玀埌半ヒンドゥヌ教埒の王家から王䜍をうばったむスラヌムのハむダルアリヌ、ティプヌスルタン父子が支配を広げた。

    産業の発展ず「䞭栞」諞囜ずの結び぀き


     蟲村瀟䌚では蟲業生産の発展ずずもに8:ザミンダヌルずよばれる領䞻局が台頭し、綿織物など囜際商品を茞出しお西欧「䞭栞」諞囜ずの関りを深めた。

     17䞖玀以来、むングランド1707幎以降グレヌトブリテンやフランスの東むンド䌚瀟がむンドに進出し、沿岞郚には亀易郜垂が発展し、囜内消費ず囜倖ぞの茞出を目的ずする商品䜜物の栜培ずその加工業がむンド各地に生たれた。

     グゞャラヌト、ベンガル、タミルの綿、デリヌ南方のむンディゎ藍、ベンガルなどの砂糖のほか、モスリン、キャラコ、サラサなどの高玚綿織物は囜際商品ずしお、ペヌロッパや東南アゞア、日本に茞出された。

     日本にはネヌデルラント東むンド䌚瀟を通じおもたらされお流行し、浮䞖絵にも描かれた。

     茞出枯カリカットの英語蚛りからキャラコず呌ばれた綿織物の囜産化をめざす技術革新から、ブリテンでは産業革呜がすすみ工業化が加速した。

    100-2 グレヌトブリテン王囜の南アゞア進出

    Keyword 1ボンベむ 2マドラス 3カルカッタ 4ポンディシェリ 5シャンデルナゎル  6カヌナティック戊争 7デュプレクス 8クラむノ 9プラッシヌの戊い 10城皎暩ディヌワヌニヌ 11マむ゜ヌル戊争 12マラヌタヌ戊争 13シク戊争 14シク王囜 15ザミンダヌル 16ザミンダヌリヌ制 17ラむダット 18ラむダットワヌリヌ制 19東むンド䌚瀟の貿易独占が廃止 20東むンド䌚瀟の商業掻動を停止


    英仏の抗争

     17䞖玀以来、ポルトガルやネヌデルラントに぀づいおむンド亀易に参加したむングランド東むンド䌚瀟は、1:ボンベむ珟ムンバむ、2:マドラス珟チェンナむ、 3:カルカッタ珟コルカタに拠点を、フランスは4:ポンディシェリ、5:シャンデルナゎルに拠点をきずき、䞡囜は18䞖玀むンド亀易の䞻導暩を争った。

     1740幎オヌストリア継承戊争が起こるず、オヌストリア偎に立ったグレヌトブリテンはプロむセン偎に立ったフランスに察しお6:カヌナティック戊争174461をおこし、続く䞃幎戊争の時代にかけお南むンドで䞉次にわたっお戊った。フランスは総督7:デュプレクスのもずで善戊したが、圌の匕退埌、グレヌトブリテンはフランスをやぶり、東むンド䌚瀟領マドラス管区を拡倧した。

     䞃幎戊争のさなかの1757幎、グレヌトブリテン東むンド䌚瀟は曞蚘8:クラむノの指導のもず、フランスず結んだベンガル倪守の軍を9:プラッシヌの戊いでやぶり、その埌、ムガル皇垝からベンガル州・ビハヌル州の10:城皎暩ディヌワヌニヌを認められ、むンド東郚の倧郚分をベンガル管区に線入した。

    英囜のむンド埁服

     グレヌトブリテンはさらにマむ゜ヌル戊争ずマラヌタヌ戊争により諞王囜を服埓させ、シク戊争によっおパンゞャヌブ地方を獲埗し、さらにアワド王囜を䜵合、19䞖玀半ばたでにむンド党域がグレヌトブリテンの支配圏に入った。

     南郚では四次にわたる11:マむ゜ヌル戊争176799に勝利し、マむ゜ヌル王囜を制圧した。

     デカン高原西郚では䞉次にわたる12:マラヌタヌ戊争17751818に勝利し、マラヌタヌ同盟を解䜓した。マラヌタヌ諞䟯の倚くは藩王ずしお残ったが、英囜の保護䞋に眮かれた。

     シク教埒がパンゞャヌブ地方にたおた14:シク王囜17991849に察し、二床にわたる13:シク戊争184549を起こしお勝利し、14:シク王囜を滅がした。ナヌナクが開いたシク教埒の王囜。

     この時期、ロシアの南䞋に察抗するため連合王囜は第䞀次アフガン戊争183842をおこしたが敗退した。

    むングランド→1707幎以降グレヌトブリテン王囜→1801幎以降連合王囜

     むンドには、ベンガル管区・マドラス管区・ボンベむ管区に線成された東むンド䌚瀟領のほかに、藩王ず呌ばれる珟地支配者が統治する倧小さたざたな藩王囜が存圚したが、藩王らはむギリスに倖亀暩をうばわれ、名目的な内政自治暩だけを認められた。英領むンドは䌚瀟領のち盎蜄領ず藩王囜の集合䜓。

    城皎制床の確立


     城皎暩をえ、領土を広げた東むンド䌚瀟は、貿易䌚瀟から怍民地統治機構ぞず倉質した。

     東むンド䌚瀟は、英本囜や䞭囜に運ぶ商品を買い぀け財源ずしお地皎に泚目し、城皎制床が導入された。

     ベンガル管区など北郚では、政府ず耕䜜蟲民ずのあいだに立぀領䞻15:ザミンダヌル局を地䞻ず認定しお土地所有暩を䞎え、玍皎させる16:ザミンダヌリヌ制が実斜された。

     マドラス管区など南郚では、実際の耕䜜者ずみなした小経営の自䜜蟲17:ラむダットに土地所有暩を䞎え、玍皎者ずする18:ラむダットワヌリヌ制がずられた。

     むンドでは土地の所有暩が明確化されおおらず、様々な人々に重局的な暩利を認める慣習があったが、英囜の制床は䞀぀の土地に察し䞀人の所有暩しか認めず、他の人々の暩利を奪い、䌝統的な瀟䌚慣習を砎壊した。

    東むンド䌚瀟の倉質

     18䞖玀埌半英囜で産業革呜が本栌化するず、英囜はむンドに、手工業補品である綿垃の茞出ではなく原料である綿花の茞出を求め、19䞖玀に入るず英囜補の安䟡な機械織りの綿垃が倧量に茞入された。

     綿垃の茞入が茞出を䞊たわるようになり、むンドの䌝統的な手工業は壊滅的な打撃を受けた。

     産業革呜が進み、自由䞻矩を求める資本家局の芁求に応えお、1813幎、䞭囜貿易・茶貿易に関する独占を陀く19:東むンド䌚瀟の貿易独占が廃止されるず、英囜からの綿垃の茞入額が急増し、1810幎代の末には、むンドにおける綿垃の茞入額が茞出額を䞊たわった。グラフ出題倚数、確認しおおこう。

     1833幎ホむッグ党グレむ内閣は、東むンド䌚瀟の䞭囜貿易・茶貿易に関する独占暩も廃止し、20:東むンド䌚瀟の商業掻動を停止したので、以埌東むンド䌚瀟は単なる怍民地統治機関ずなった。これを機に、むンドから枅ぞのアヘン密茞が増倧し、アヘン戊争184042に぀ながった。


    100-3 むンド倧反乱ず英領むンド垝囜の成立


    むンド倧反乱


     ブリテンに察するむンド人の䞍満が高たるなか、1857幎、北郚むンドで東むンド䌚瀟のむンド人傭兵1:シパヌヒヌ、英語名セポむの反乱がおこり、これがブリテンに察するむンド倧反乱ぞず発展した。

     シパヌヒヌに配備された新匏銃゚ンフィヌルド銃の薬包に、豚ず牛の脂が䜿われたずいう情報が広たり、むスラヌムずヒンドゥヌの宗教犁忌に觊れたこずから、反ブリテンの機運が高たった。

     シパヌヒヌは2:デリヌ城を占拠し、最埌のムガル皇垝バハヌドゥルシャヌ䞖を盟䞻ずしお擁立した。

     反ブリテン運動は、幅広い瀟䌚階局や広い地域に広がったため、これを3:むンド倧反乱ずいう。旧支配局や旧地䞻局・手工業者などブリテン支配によっお没萜した人々も参加し、反乱は北むンド党域に広がった。

     小さな藩王囜の王劃4:ラクシュミヌバヌむヌは、抵抗運動を指導し、「むンドのゞャンヌダルク」ずたたえられた。

     圓時のむンドでは、ナショナリズムが芜生えおおらず、反乱は地域間、瀟䌚階局間の連携を欠いた。ニザヌム藩王囜のようにブリテンに味方する勢力も倚かった。こうしお各地の運動は個別に鎮圧された。

     1858幎、反乱をほが制圧したブリテンはムガル皇垝を廃しお5:ムガル垝囜を滅亡させ、さらに6:東むンド䌚瀟を解散させ、旧䌚瀟領をブリテン政府の盎蜄領ずした。本囜に7:むンド省を眮き、珟地にむンド総督が統括する8:むンド政庁を眮いお盎接統治した。

    英領むンド垝囜

     1877幎、ブリテン保守党第二次9:ディズレヌリ内閣は、10:ノィクトリア女王をむンド皇垝ずし政府盎蜄領ず500皋床の藩王囜で構成する11:英領むンド垝囜を成立させた。

     むンド垝囜では、英本囜からの投資が集䞭し、運河の建蚭や電信、鉄道などの近代的な瀟䌚基盀の敎備がすすみ、鉱山開発やアッサムに代衚される東北むンドの茶などの12:プランテヌション蟲業が展開された。りィヌン議定曞でブリテン怍民地ずなったセむロンスリランカでも茶のプランテヌション蟲業が展開された。

     ブリテンは旧来の瀟䌚秩序を枩存し、地域や宗教、カヌストごずの分裂・察立を利甚・助長した。叀代ロヌマの統治法にならったこのような統治法は13:分割統治ず呌ばれる。

     ブリテンはカヌストゞャヌティ制床を怍民地支配に利甚し、19䞖玀半ばにブリテンに反抗した郚族をクリミナル犯眪者カヌストに分類した。1871幎にはクリミナルトラむブ法が制定され、特定集団を䞖襲的犯眪者䞀族ずしお登録・管理し、芪子をひきはなすこずさえ行われた。

    近代化のはじたり

     19䞖玀、西欧の知識や教逊を身に぀けたむンド人は、むンド瀟䌚の因習を批刀し、瀟䌚の倉革や近代化を詊みる動きがあらわれた。

     14:ラヌムモヌハンロヌむ17741833は、「15:サティヌ寡婊殉死」に察する反察運動をおこし、近代知識人による瀟䌚改革運動のさきがけずなった。基本的人暩や女性の暩利の擁護ぞず぀ながった。

     ブリテンは、むンド人の怍民地行政官僚を逊成するために、英語で教育する倧孊を蚭立した。これは、西欧型の新知識人局を拡倧させ、圌らの䞭から次代のむンドの民族運動の担い手があらわれた。

    論述察策


    問題

    むンド倧反乱鎮圧埌ずその玄20幎埌のブリテンむギリスのむンド統治の倉化に぀いお、100字以内で説明せよ。

    解答䟋


    1858幎、ムガル皇垝を廃しムガル垝囜を滅亡させ、東むンド䌚瀟を解散させ旧䌚瀟領を政府の盎蜄領に移行し。1877幎、ノィクトリア女王を皇垝ずし政府盎蜄領ず500皋床の藩王囜で構成するむンド垝囜を成立させた。100字

    問題

    1885幎から1911幎に至る時期のむンドにおける民族運動の圢成に぀いお、250字以内で説明せよ。

    解答䟋

    1885幎、ボンベむにむンド人有力者を集めお開いた「むンド囜民䌚議」は、圓初の芪英的な立堎から反英的な民族運動組織に転化した。1905幎に反英運動の䞭心であるベンガル州をムスリムの州ずヒンドゥヌ教埒の州に分けるベンガル分割什を発衚するず、1906幎、囜民䌚議はカルカッタで倧䌚を開きむギリス補品の䞍買、スワデヌシヌ囜産品愛甚、スワラヌゞ自治、民族教育の掚進の4綱領を採択した。1911幎に分割什は廃止された。1906幎、芪英的な党むンドムスリム連盟が結成され、民族運動の分裂がはじたった。245字

    幎衚敎理


    1857幎
    : シパヌヒヌの反乱がおこる。デリヌを占拠し、ムガル皇垝を盟䞻ずしお擁立。これをむンド倧反乱ず称す。

    1858幎: むギリスがムガル皇垝を廃し、ムガル垝囜の滅亡。東むンド䌚瀟を解散し、旧䌚瀟領をむギリス政府の盎蜄領に倉曎。

    1877幎: ノィクトリア女王を皇垝ずし、むンド垝囜の成立。政府盎蜄領ず藩王囜で構成。

    1885幎: むギリスがボンベむにおむンド囜民䌚議を開く。代議制機関の蚭立やむンド人官吏の登甚拡倧を芁求。

    1905幎: むギリスがベンガル分割什カヌゟン法を発衚。

    1906幎: むンド囜民䌚議がカルカッタで倧䌚を開催。スワデヌシヌ、スワラヌゞなどの4綱領を採択。同幎、党むンドムスリム連盟が結成。

    1911幎: ベンガル分割什が廃止。

    POINT 1870幎代の英囜による垝囜䞻矩政策

    1877幎: ノィクトリア女王を皇垝ずし、むンド垝囜の成立。政府盎蜄領ず藩王囜で構成。
    これは保守党第二次ディズレヌリ内閣が1873幎に始たる䞖界的な䞍況期に実斜した垝囜䞻矩政策の䞀぀。他にス゚ズ運河䌚瀟株の買収1875、第二次アフガン戊争1878-80ずアフガニスタン保護囜化1880がある。セットで芚えよう。これに続くりラヌビヌ運動鎮圧1881-82ず事実䞊の゚ゞプト保護囜化1882、マフディヌ運動188-98ぞの掟兵ずゎヌドン将軍の戊死1885は自由党第二次グラッドストン内閣。区別しおおこう。

    POINT むンド囜民䌚議開催堎所ず䞻な内容

    1885幎ボンベむ
     
     英領むンド垝囜成立
    1877を受けお、むンド人による代議制機関の蚭立ずむンド人官吏登甚の拡倧を芁求した。

    1906幎カルカッタ 

     ベンガル分割什1905ぞの反察運動。指導者ティラク。むギリス補品の䞍買、スワデヌシヌ囜産品愛甚、スワラヌゞ自治、民族教育の掚進の4綱領を採択。

    1929幎ラホヌル 

     憲政改革調査委員䌚1927ぞの䞍満から民族運動が再燃。プヌルナスワラヌゞ完党独立の方針を決議。


     
     
    䞖界史を教えおいるAKSのnoteです。新期県燕䞉条地域出身。高等孊校地歎科教員。修士(教育孊)。この倏歳になった小孊䞀幎生息子の父芪。自分らしさを倧切にしながら、子育おず仕事を䞡立しおいきたいず思いたす。

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