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返しそびれた鍵


    東京に戻って三週間目、冬物のコートを出したら、ポケットから鍵が一本出てきた。
    青いプラスチックのタグがついていて、油性ペンで「予備」と書いてある。自分の字だった。

    千葉のアパートの合鍵だ。
    退去の立ち会いのとき、管理会社の若い男に鍵を二本渡した。男は書類を見て、三本お預けしていますね、と言った。そんなはずはない、二本だったと答えた。男はそれ以上何も言わず、ボールペンで書類のどこかに丸をつけ、では交換費用はこちらで、と言った。一万六千五百円。敷金の精算書は、まだ開けていない段ボールのどれかに入っている。

    鍵はもう替わっているはずだった。
    だからこれは、どこの扉も開けない金属の切れ端だ。燃えないゴミの日に出せばいい。東京のゴミの日は、まだ覚えていない。冷蔵庫には千葉市のゴミ出しカレンダーが貼ったままになっていて、今日は「びん・缶・ペットボトル」の日だった。

    その週の土曜、総武線に乗った。
    用事があったわけではない。駅前の書店がまだあるか見ておきたかった、と自分に言い訳をした。書店はあった。入らなかった。

    アパートまでは歩いて十二分。八年間、ほとんど毎日歩いた道だったが、角のクリーニング屋がコインランドリーになっていて、少し迷った。迷ったことに少し安心した。

    二階の、手前から二番目。
    表札のところに、知らない名前が手書きで差してあった。丸っこい字だった。ドアの横に、子ども用の小さな自転車が立てかけてある。補助輪の片方が外れて、ハンドルにビニール袋でくくりつけてあった。

    鍵穴を見た。
    新しくはなかった。自分が八年間、酔って帰った夜に何度も引っかいた、あの傷がそのまま残っていた。

    ポケットの中で鍵を握った。
    交換したと、男は言った。費用も払った。替わっていなければおかしい。おかしいことを確かめたいだけだ、と思った。何を確かめたいのかは、よくわからなかった。

    差しこんだ。
    奥まで、すっと入った。

    鍵は、途中まで回った。

    部屋の中で、テレビの音がしていた。昼の情報番組の、聞き覚えのある司会者の笑い声。子どもが何か言い、女の人が、あとでね、と答えた。

    手首をゆっくり戻して、鍵を抜いた。
    廊下に誰もいないことを確かめてから、階段を降りた。降りきったところで、自分が息を止めていたことに気がついた。

    帰りの電車は混んでいた。ドアの横に立って、窓に映る自分の顔の向こうを、江戸川が流れていった。川を越えるあいだ、ポケットの上から鍵の形をなぞっていた。

    部屋に帰って、キーホルダーに鍵を通した。
    東京の部屋の鍵と、千葉の部屋の鍵が、並んで小さく鳴った。

    管理会社に電話をするべきなのだろう。交換されていません、と。そうすれば、たぶん一万六千五百円が戻ってくる。あの丸っこい字の家族の鍵も、今度こそ替わる。

    冷蔵庫の前に立って、千葉市のカレンダーを剥がそうとして、やめた。
    来週の火曜は「可燃ごみ」だった。

    新しい部屋の合鍵は、二本とも台所の引き出しに入ったままだ。
    渡す相手は、まだいない。

     
     
    嬉しさを隠しながら、 怒ることなく、 真の新の芯を、 心を込めて書いてゆきます。 あなたが分からないことは、私にも理解できません。 それを感じてくださったら・・ 嬉しい・・・

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