
炉端のコップ酒
10年以上前の話だ。
「今晩、軽く飲みに行くか?」
誰からともなく声が出て、夜の町に繰り出す。
同じ学年を組んでいる担任4人で飲みに行くことが多かった。
僕の5つ年上の学年主任N先生、僕の5つ下でM字ハゲのM先生、30代のA先生と僕の4人。おじさん3人と若者一人。
いつも行くのは、昔からある小さな炉端。
店の奥の三畳ほどの小上がりに座る。
「日本酒ちょうだい!面倒くさいから一升瓶で!」
日本酒好きのM先生が叫ぶ。
M字ハゲはいきなり日本酒をがぶがぶ飲んで、すぐに酔っぱらっちゃうのでたちが悪い。悪い人ではないんだけれど。
つまみはコマイや子持ちシシャモ、漬物。
「こうやって食べたら旨いんだ。喰ったことあるか?食べてみれ!」
小皿に入れたマヨネーズに一味唐辛子を振り、M先生がA先生に勧める。
若いA先生は、裂いたコマイをマヨネーズにつけ、恐る恐る食べる。
「えー!美味しいです!」
喜ぶA先生を肴に、僕たちオジさんたちが酒を飲む。
僕もジョッキを飲み干し、日本酒に変える。
4人で飲むコップ酒。別段高い日本酒ではない。
どこにでもある普通酒だ。常温で飲む。
M先生とA先生が、大声でかしましく喋る。
「A!だからー!お前がさぁー!」
M先生がA先生を小馬鹿にしてからかう。
「いやいやM先生だって、あのとき言ったじゃないですか!!」
赤い顔してA先生も食い下がる。
「どっちもどっちだろ」
僕が呆れる。
N先生はそんな様子を楽しみながら静かに酒を飲んでいた。
一升瓶はあっという間にカラになった。
学年主任のN先生は僕より5歳ほど年上のベテランの先生。
言葉に東北訛りがある。口数の少ない人だった。
背が低く彫りの深い顔立ち。理科の先生でいつも白衣を着ていた。
仕事を頼めば、表情を変えずに何でもしてくれた、ニヤリと笑って。
学年主任はリーダーシップがあって、お話上手で、生徒に怖がられるけど人気があるような太陽みたいな先生がなることが多い。
N先生は違った。リーダーシップなど全くない。お話が下手。とつとつと小さな声で話す。生徒を怒鳴ることはない。月みたいな先生だった。
集会で白衣姿のN先生が話す。腕を組んでマイクを持ち、肩をすくめて訥々と喋る。淡々とした話だ。決して面白い話ではない。でも、生徒たちは真剣に聞く。元気の良すぎる生徒が多かったが、決して騒がない。小さな声を聞き逃すまいと必死に聞く。N先生の優しさを知っているからだろう。
生徒は悪いことをしない。N先生には迷惑をかけられないからだろう。
背が小さくて白衣を着て喋らない優しい先生。
ちいかわに出てきそうな先生。
「かわいい」
女子生徒も男子生徒も口をそろえて言う。
生徒たちも僕たちも、みんな大好きだった。
そんな先生だった。
卒業生を出して、慰労の意味を込めて担任団で九州に行った。
次の年のN先生の退職記念には、一緒に鎌倉に旅行した。
「退職してからも誘ってくれて、ありがと。僕、嬉しいよ」
N先生は笑ってくれた。
6年前の10月、N先生が亡くなった。
退職して再任用を始めて間もなくの頃に病気が発覚した。
闘病生活もままならず、僕らの前からいなくなった。
いつでも会えるだろうと思っていた。
また、あの炉端で飲めるだろうと思っていた。
鎌倉旅行を最後に一度も会っていなかった。
あれがN先生の最後の笑顏か。
あの炉端が急に閉店するということを昨日知った。
N先生との思い出の場所が一つなくなる。
4人で、馬鹿なことを喋りながら、あの炉端でコップ酒を飲む。
そんな叶わぬ夢が、本当に叶わなくなってしまった。
