メインコンテンツへスキップ
見出し画像

【短編】指先の鼓動 ― 神の退屈を終わらせた、小さな赤。

     世界を終わらせるスイッチは、驚くほど軽かった。

     だが…、その指は動かなかった。

     




    「神という仕事は、意外と退屈なものだな」

     彼は独りつぶやき、コンソールの蓋を開けた。

     平和を終わらせるには、あまりにそっけないプラスチックの感触。 


     ​前夜、拭い去れぬ焦燥に駆られて、力まかせに叩き割った計器の一部からは、剥き出しの配線が無惨に、床まで垂れ下がっていた。

     彼はそれを直そうともしなかった。
     どうせすべては、今日終わるのだから。


     彼が指先にわずかな力を込めるだけで、数分後には世界から「昨日」という概念が消滅するのだ。


     閣僚たちの怒号も、モニターの向こう側で哀れに日常を営む、変わり映えしない市民の命も、今の彼には遠い世界のノイズに過ぎなかった。


     独裁者と呼ばれ、この国のすべてを掌握してきた彼が最後に手に入れたのは、世界を無に帰す権限。


     皮革張りの椅子に深く腰掛け、彼はチェスの駒を動かすような面持で、破滅へのカウントダウンを眺めていた。


     それは、避けようのない流れだった。


     そう思うことでしか、この指を正当化できなかった。 


     今日この瞬間に、この指を動かすことは、定められていた宿命なのだ。

     
     私はただ、そのシナリオを完結させるだけのことだ。


     ふと、磨き上げられた床に目を落とすと、そこには場違いな水溜まりがひとつ、鏡のように死んだ光を反射していた。

     
     その水面で、一匹のてんとう虫が、もがき、溺れかけている。


     ​どこから迷い込んだのか。この密閉された冷たい城壁の中で、救いようのない命がひとつ、静かに終わりを迎えようとしていた。


     彼はそれを見つめ、自身の運命と同じだと、薄く笑った。


     不意に、彼の脳裏に温かな光の粒子がふわりと舞い上がった。


     かつての自分を「人間」としてこの世界に繋ぎ止めていた、懐かしい午後の記憶。


    …そうだ。あの時も、今日のように静かな午後だった。


    「見て、母さま」


     差し出した小さな手のひらの上で、赤い虫が動いていた。


    「見て、母さま。捕まえたよ」


     泥だらけの掌を開いた幼い自分に、母は叱るでもなく、ただ優しく微笑んだ。


    「まあ、可愛い。優しくしてあげなさいね。それはお天道様の使いなのよ」


     そう言って母は、私の泥だらけの指を包み込んでくれた。


     他愛のない微かな記憶──


     執務室の冷たさが、静かに彼を現在へ引き戻していく。 


    「……あぁ、これだけでよかったんだ」

     
     ​彼は心の中で誰にともなく告げた。


     その愛おしい残像を、

    自らの手で砕くために…。


     ​視界の端で、防弾ガラスの向こうの閣僚たちが必死に口を動かしている。

     
     滑稽なほど必死だが、厚い遮音壁に阻まれた声は、羽虫の羽音ほども届かない。


     彼らの姿はもはや、無音の映像でしかなかった。

     
     モニターの中で明滅する、数百万の命が息づく巨大な都市——それは、消去を待つだけの、ただのデータ・チップに過ぎない。
     

     神の視座とは、これほどまでに無機質なものか。

     
     すべてを捨て、すべてを奪い、ようやく手に入れたこの静寂。


     救いなど、この世のどこにもない。


     この羽虫も、自分も、無に帰るのが正しい結末なのだ。


     その時、水面を叩く小さな足の動きが、まるで誰かの心音のように響いた。 


     その小さな赤だけは、
    まだ諦めていなかった。


     逆さまになり、手足を必死にばたつかせる小さな赤。
     その無様な、しかし猛烈な生への執着。彼は知らず知らずのうちに、コンソールから指を離していた。


     ……もし、今この手を伸ばせば──


     彼はテントウムシを、そっと指先にすくい上げた。


     指の腹を伝って、小さな、確かな生の震えが伝わってきた。


     ​てんとう虫が、その細い六本の足で、彼の皮膚を懸命に踏みしめている。


     ​そのくすぐったいような、心許ないほど小さな感触が、彼の神経を逆流して、空っぽだった胸の奥に直接触れた。


    「………」


    動いている。


     声にならぬ呟きとともに、不意に視界が途切れた。



     ――数分後。



     沈黙に耐えかねた重厚な鋼鉄のドアが、火花とともに無理やりこじ開けられた。

    ​
    「動くな! 手を挙げろ!」

    ​ 
     怒号とともに踏み込んできたのは、武装した反乱軍か、あるいは離反した閣僚たちか。


     彼らが目にしたのは、世界を滅ぼすはずだった独裁者が、力なく床に伏している姿だった。


     モニターは変わらず、無機質な座標と数字を映し出し、計器の針は冷徹に時を刻んでいる。


    ​「……死んでいるのか?」


     ​誰かの震える声が、防音壁に跳ね返った。


     世界を恐怖で支配した男の最期にしては、あまりに呆気なく、そして不可解な光景。


     人々がコンソールの「未だ押されていないボタン」に気づき、安堵と困惑の混じった溜息をつく中、


    「……おい、様子がおかしいぞ」

    ​
     一人の兵士が、困惑に声を震わせた。


     冷たい大理石の床に横たわった独裁者の体は、既にぴくりとも動かない。


     しかし、その顔を見下ろした瞬間、誰もが言葉を失った。


    ​「なんだ、これは……涙を流しているのか?」

    ​
     その頬には、まだ乾ききっていない幾筋もの涙の跡が、照明を反射して光っていた。


     そして何より彼らを戦慄させ、呆然とさせたのは、彼の死に顔だった。


    ​「なんて……穏やかな顔をしてるんだ……」


    「死因の特定を急げ。事故か、暗殺か」

     ​現場に立ち入った官僚の声が、静寂を塗りつぶした。技術兵が、焼け焦げた軍服の裾を一瞥する。

    ​
    「感電ですね。剥き出しの端子と、床の水溜まり。漏電による事故死、あるいは不注意…」

    ​

    「不注意だと。ふん、くだらん」


     官僚は忌々しげに天井を見上げた。

     そこには、昨夜の豪雨に耐えきれず、古い城壁の亀裂から染み出した雨水の跡が、染みとなって残っていた。


    「……この要塞も、奴の精神(こころ)と同じだったというわけか」


     誰もが呆然と立ち尽くす中、誰にも気づかれることなく──


     その足元で、小さな赤い命がひっそりと、


     冷たい城壁の裂け目から、外の世界へと飛び去っていった。



    画像
    画像


    あとがき


    ​世界を終わらせる指も、

    小さな命を救う指も、

    同じ一本の指でした。


    「世界よりも重いものが、指先にあった」のかも知れません。


    実は、私が創作を始めた初期の頃は、こうした尖った作風のものを多く書いていました。

    本作はその初期の断片を、今の視点でブラッシュアップしたものです。


    いつもの私の物語とは少し手触りが異なるかもしれませんが、

    独裁者の指先に宿った微かな熱を、皆様の心でも感じていただけたなら幸いです。


    最後までお読みいただき、ありがとうございました。




    ※『昨日のニュースは要りません』の最終章(第8話)は、来週月曜日の投稿を予定しています。


     
     
    うつろ (空) な器に     アニマ (魂) を注ぐ​ ​  ​筆の赴くままジャンルを問わず、物語という既存の概念を超えて行きたい。  日常の「ぬくもり」と温かなカオス。  時に生命の深淵  ──純粋、あるいは狂気。  ​置き去りの言葉を救いに行く、そんな物語の記録。

    あなたへのおすすめ