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なぜ最近の物語は説明が増えたのか。朝チュンから考える創作の変化と、AI時代に残る価値|書籍化ログ(#創作論 #生成AI #読書 #Web小説 #note #エッセイ)

    こんにちは。こんばんは。
    普段はラノベを書いている「うら表紙」と申します。

    かつての少女漫画には、「朝チュン」という表現がありました。
    男女が夜を共にしたことを直接描かず、場面は翌朝の小鳥のさえずりへ切り替わる。

    今ではあまり見かけなくなりましたが、小学生向けだった当時の少女漫画雑誌『りぼん』でも、ごく普通に使われていた暗喩表現です。

    子どもだった私は、その意味をきちんと理解していたわけではありません。
    それでも不思議と、「二人の間で何か特別なことがあったんだな」という空気だけは伝わってきました。

    今思うと、昔のエンタメにはこういうものがたくさんありました。

    舞い散る桜で別れの悲しみを描いたり、
    サイドテーブルに置かれた結婚指輪だけで不倫を匂わせたり、
    曇った窓ガラスのカットだけで、さっきまでそこに誰かがいた気配を感じさせたり。

    どれも説明はありません。
    それなのに私たちは、わざわざ誰かに解説してもらわなくても、その意味をなんとなく受け取れていました。

    むしろ、「分からない部分を想像すること」そのものが、物語を味わう楽しさだったような気さえします。

    だから最近、アニメやドラマを見ていて考えることがあります。
    私たちは、いつからこんなにも説明を求めるようになったのでしょう。
    そしてそれは、本当に悪いことなのでしょうか。

    ●感情を動かすことが、コストになった

    少なくとも私は、昔より疲れやすくなった気がしています。
    SNSを開けば、自分と同じ年齢の誰かが大きな成果を出している。
    新しい情報は次から次へと流れてくる。
    何もしなくても頭の中は忙しくて、気が付けば一日が終わっています。

    そんな日々を送っていると、脳が無意識に「軽さ」を求めるんですよね。

    先の読めない展開にハラハラしたり、
    主人公の苦しみに深く感情移入したり、
    説明されない余白について考え続けたり、

    本来なら、そういうものこそエンタメの醍醐味だったはずです。
    でも今は、それらを楽しむこと自体にエネルギーが必要になった気がします。

    予測できない展開に気を揉むこと。
    ひとつの会話から伏線や因果関係を読み解くこと。
    登場人物の激しい喜怒哀楽に付き合うこと。

    かつては夢中になっていたはずなのに、疲れている日は特に重たく感じてしまう。

    そんな経験がある人も少なくないのではないでしょうか。

    だから最近よく言われる「タイパ」という言葉も、単なる時短ではないのかもしれません。

    倍速視聴をしたり、
    要約動画を見たり、
    結末を先に知って安心したり、
    お気に入りのシーンだけを何度も見返したり、

    それは怠惰というより、「今日はもう疲れたから、これ以上心を揺らしたくない」という気持ちの表れにも見えます。

    最近よく聞く「チル」という言葉も、私はどこか似たものを感じています。
    刺激よりも安心を求めること。
    感情を大きく動かすことより、穏やかに過ごしたいと思うこと。

    それは現代人のわがままではなく、日々たくさんの情報や感情にさらされ続けた「疲労」の結果なのかもしれません。

    私自身、その感覚が分からないとは言えないのです。

    ●「余白」が少しずつ贅沢品になっている気がする

    そんなことを考えていると、昔の作品にあった余白の多さが妙に印象に残ります。
    朝チュンもそうですし、説明されない感情や、明言されない関係性もそう。
    あの頃は自然に受け取れていたものが、今では少し違って見えることがあります。

    余白を楽しむには、意外と体力がいる。
    時間もいる。
    そして何より、「ちょっと考えてみようかな」と思える心の余裕がいる。

    そう考えると、最近の作品で説明が増えたのも自然な流れなのかもしれません。

    分かりやすいことは親切です。
    迷子にならなくて済みますし、余計なエネルギーも使わなくて済みます。

    私だって疲れている日は、感情や思考をフル回転させる作品よりも、
    「SAKAMOTO DAYS」のようにシンプルに気持ちよく楽しめる作品の方に手が伸びます。

    だから、昔の方が良かったとか、今の方が悪いとか、そういう話ではありません。
    ただ、昔は当たり前だった「余白を味わう時間」が、少しずつ贅沢品になっている気はするのです。

    最近では、読書そのものが「特殊能力」と言われることがあります。
    数千文字の記事を最後まで読める人も、以前より少なくなったと言われています。

    そういえば以前、Yahoo!ニュースの社長が対談番組で、将来的には文字ニュースをAIで自動的に動画化させていく構想について話されていたのを覚えています。

    実際、今は文章を読むよりも、動画や音声で情報を受け取る人の方が増えています。
    そして、その流れはこれから先も続いていくのでしょう。

    もしそうだとしたら、長文を読み続けられる人はますます貴重な存在になっていくのかもしれません。
    そして「余白を味わう」という行為そのものも、現代ではかなりラグジュアリーな体験になっていく気がします。

    そう考えると、今このnoteを読んでくださっている方も、noteで発信を続けている方も、実はかなり面白い場所に立っているのかもしれません。

    誰かの考えをじっくり読む。
    自分の頭で考える。
    そして、自分の言葉で表現する。

    それは当たり前のようでいて、これからの時代にはますます希少な能力になっていく気がします。
    そう思うと一年後もnoteを書いていることにはかなり大きな意味が生まれそうです。

    数年後に振り返ったとき、長文を読み、書き、考える習慣を持ち続けた人たちが、どんな景色を見ているのか、私は少し興味があります。

    ●情報ではなく、人を読む時代へ

    結局のところ、かつて「朝チュン」のような表現が成立していたのはなぜだったのでしょう。

    あの表現は不親切です。
    説明不足です。
    効率も良くありません。
    それでも、なぜか忘れられません。

    たぶん私たちは、答えそのものではなく、その先を想像する時間を楽しんでいたのだと思います。

    そして今は、その逆の時代なのかもしれません。

    分かりやすさが求められ、
    曖昧さは敬遠され、
    答えはできるだけ早く手に入れたい。

    AIもまた、その流れを後押ししています。

    人類はこれからしばらく、「説明され尽くした世界」へ向かっていくのでしょう。
    でも、本当にすべてが説明されるようになったとき、
    どこを見ても正解が並び、分かりやすさが保証されるようになったとき、
    人はそれだけで満足できるのでしょうか。

    私は、おそらく違うと思っています。

    完璧な正解が当たり前になった世界では、今度は不完全さそのものが希少価値になるはずです。

    説明できないけれど心に残るもの。
    言葉にならないのに忘れられないもの。
    そして、誰かの人生や葛藤がにじむ言葉。

    そういったものを面白いと思う気持ちは、人間が人間である限り、案外しぶとく残り続けるのではないでしょうか。

    だから私は、効率的な「正解」はAIに任せて、生身の人間だからこそ出せる揺れを書いていこうと思っています。

    迷ったことも、
    失敗したことも、
    まだ答えの出ていないことも。

    未来に来るであろう人を読む時代に備えて。

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    最後までありがとうございました!
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    また明日の投稿でお会いしましょう。
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    書籍化作家で、マーケター歴20年。 なのに中身はだいぶ繊細気質。 創作の裏側や、読まれる仕組み、時々ちょっと人生の話。 うまく言えない感情を、言葉にしていく場所です。

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