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賤ヶ岳で中川清秀はなぜ討死した?大岩山奇襲と佐久間盛政の攻撃を史料で整理

    賤ヶ岳の戦いで中川清秀が討死した場所は、賤ヶ岳山頂そのものではなく大岩山です。


    大村由己『柴田退治記』では、天正11年(1583)4月20日、佐久間盛政を大将とする柴田方が中川清秀の陣へ攻め寄せたと記されています。
    清秀側は戦って一度は優勢になりますが、最終的に多勢に押し込まれ、清秀は討死しました。


    ただし「佐久間盛政が清秀を討ち取った」と「盛政本人が清秀を斬った」は区別が必要です。
    確認した『柴田退治記』は「終清秀討死」と記すものの、清秀に最後の一撃を加えた個人名までは示していません。


    さらに調べると、長浜の公式系サイト内でも、一方は「4月20日・佐久間盛政」、別ページは「4月19日・柴田勝政」と食い違っています。
    『柴田退治記』と滋賀県・奥びわ湖の公的案内を照合すると、本記事では「4月20日・佐久間盛政」を採用するのが最も整合的と判断しました。


    大岩山の陥落は柴田方の局地的勝利でしたが、それで賤ヶ岳全体の勝敗が決まったわけではありません。
    秀吉が反転し、翌21日に戦局は逆転します。
    中川清秀の討死を起点に見ると、賤ヶ岳の戦いが「大岩山の局地戦→秀吉の反転→本戦」という流れで動いたことがよく分かります。


     
     
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