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花のをすくに[幕内・上]#08

    八 与えるは与くみする也なり、受けるは授さずかり也、即ち所有

     慈愛しげみが初めて祭原さいばら家に来た日は、クチナシと出会った日でもある。

     景克かげよしは襖ふすまを開けて、説明したように一礼した。正座し、三つ指ついて頭を下げる彼にならい、慈愛も頭を下げる。
     畳に積もったホコリが濡れて顔にくっついた。

    「口無し様、口無し様、本日よりこの者が身の回りのお世話をいたします」
    「ヨロシクおねがいします。新しくサイバラのいちいんになりました、シゲミともうします。慈しみ、愛する、慈愛じあいと書いてシゲミです」

     隣の景克が頭を上げ、追従して初めて慈愛は部屋の様子を知った。
     蛍光灯の白い光に照らされながら、全体がホコリで灰色に満ち、廊下よりいっそうカビ臭い。部屋は存外に広い、と言うより二部屋から襖を取り払って、代わりに格子を取り付けたようだった。
     灯りはこちらにしかないので、向こう側はべとりと暗い。

     時代劇で見るような牢屋は、ここが化け物を閉じこめる場所だからだ。慈愛は身をこわばらせながら、牢の中に木像らしきものを見た。
     ホコリを被り、蜘蛛の巣がかかったまま胡座あぐらをかいた人間の形だ。髪が体全体を覆うように長いが、女性には見えない。

     ばきり、と木が折れるような音を立てて、像は首を傾げた。閉じた眼がかっと見開かれ、ごきごきと手が動いて口元を引っ掻く。
     端から耳元まで大きく裂けたような傷痕があり、口と共に黒い糸で縫い閉じられていた。爪がぶつぶつと糸を掻き切り、ふぅ、と吐息が漏れる。

     次の瞬間、像はすべての糸を引き千切って大口を開けた。ライオンか虎のような牙がズラリと並ぶのを見て、慈愛は必死で悲鳴を堪える。
     それは久しぶりの空気を味わうように、深呼吸した。

    「ァ、ア――――」

     ばきばきと人体から出るとは思えない音を立てながら、像は姿勢を崩して格子へと近づく。四肢には鉄枷がつけられ、鎖でつながれているので動くたびにじゃらり、と金属が鳴る。だが慈愛は、哀れみより恐怖が勝まさった。

    「アァ――、ひだるしィ……」

     色あせた着流しを羽織ったそれは、景克よりも、慈愛が知るどんな大人よりも巨おおきい。真っ直ぐ立てば、鴨居より上に頭が来るだろう。
     妙に間延びした口調でそれは話し出した。

    「久しきかなァー、克慈かつしげ、はた克明かつあきかァ。爾なんぢにわかに来たりて、予われに見まみえるは……何事かあるやァー?」

     景克と慈愛は部屋の入り口から、格子のすぐ前に座り直す。

    「私は克慈が子、克明の孫にあたる景克です。以前もお会いいたしました」
    「フゥーン、爾ら甚はなはだしくは変わらずなりィー。いま疾とくに、此処より出いだせェ!」

     クチナシと呼ばれたものが、手のひらで格子を打つと、部屋全体が軋きしんだ。景克がひれ伏し、姿勢を維持したまま後ろへ下がっていく。

    「そればかりは、お許し下さい」
    「おゆるしください!」

     同く格好で慈愛も部屋を出ると、立ち上がった景克は襖を閉めた。

    「丁重におもてなししろ、いいな」

     足早に去ろうとする父を、「あの!」と引き留める。

    「ホウキとか、チリトリとか、ありますか?」
    「まず昇降機の中のものを出せ、扉を閉めて三角のボタンを押せば、戻ってきた時には入るようにしておく」
    「わかりました」

     階段を上る背中を見送り、貨物用昇降機を開けると番重ばんじゅうや米びつ、ポットが入っていた。八歳児が一人で運ぶにはなかなかの労働だ。
     ため息をつきながら、慈愛は中身を廊下に出して上へ戻した。あのホコリまみれの部屋に、食べ物を置く気にはなれない。これからが大変だ。

    「未いまだ三尺の童子と思ひしが、然されど、爾まことに勤いそしきたりやァー」

     ホウキで部屋中のホコリをかき集め、ぞうきんでカラ拭きをしていると、クチナシにそう言われる。慈愛はかろうじて、怒られてはいないとだけ理解した。「働き者だ」と褒められていたと理解したのは、ずっと後のこと。

    「あの……ぼくのこと、食べたりしません、か?」
    「いのちを傷つけること能あたうはァ、唯これェ、ただ同じいのちなり。忌々しくも、予は未だ命に足らず……口惜しやァー」
    「え、えっと……」

     クチナシの言うことは、所々意識に引っかからず、するっと抜け落ちてしまう。頭の虫が言の葉を食べては、ただの雑音に変えてしまうのだ。
     大人同士の会話を聞くのに似ているが、もっと酷い。

    「予これを食らふ所、もし、予に所献たてまつらずんば食らわずー……慈愛や、みずからを所献たてまつり欲するやァ?」
    「ごめんなさい。知らないコトバだらけで、わからないです」

     慈愛はしょぼしょぼと眉根を寄せた。
     日本語のはずなのに、外国人と話しているようだ。一方、クチナシはクチナシで口をひん曲げて、左右に首をひねっている。

    「爾…………信ぜよォ。噛まず、食くらはず、まことなり」

     こちらにも分かるよう、懸命に言葉を選んでくれたらしい。ただちに自分が食い殺されることはないと了解して、慈愛は牢の鍵を開けた。
     クチナシの髪から蜘蛛の巣やホコリを取り、櫛くしを入れてとかす。湯に浸した布巾を渡されたクチナシも、手の届く範囲で顔や体を拭いた。

     灰色だった肌は、漆喰のような白い色に変わる。彼から垢や脂の臭いがしないことに、当時の慈愛は気がつかなかった。

    「アーァー、快哉かいなり、快哉~。久しく、このような良き心地有らんやァ!」

     不思議とクチナシの笑い方は、大の男には見えない。
     大人の笑顔は、何というか外から貼り付けたような、その場の空気というものが、粘土に跡をつけるように作った感じがする。
     クチナシは逆に、頬も、耳元まで裂けた口も、目も、自分の内側から押し出され、うんと伸びをするような……。
     慈愛と同年代の、子供の笑い方なのだ。

     もしかして、この化け物はそんなに怖くないのかもしれない――と慈愛は思い始めていた。
     しかしまだ本命の仕事が残っているし、お腹も空いてきた。早くしなくては。部屋には座布団一つ、時計一つなく、何時かも分からないのだし。

     黒漆塗りの膳に、素焼きの食器を決められた形に置いて、番重の中身を盛っていく。酒、水、白米、尾頭付きの魚、根菜の煮物に、葡萄と桃。
     量が少なく酒はないが、同じメニューが詰められた重箱が、慈愛の昼食らしかった。上でも、父やまだ見ぬ兄姉らはこれを食べているのだろうか。
     最後に、渡されたメモを食事の前に読み上げる。

    「み子クチナシのご前ぜんに、祭原慈愛かしこみ、かしこみ、まおさく。日ごとの……みけつ、モノ、たてまつりて、……平たいらけく……安やすらけく、めしたまい。かしこみかしこみ、まおす」
    「承うけた!」

     クチナシはがばりと大口を開けて、魚を一呑みに噛み砕いた。慈愛の両ももより大きかった魚が、あっけなく軽い音と共にすり潰される。
     つ、と魚の血が顎をひと筋、つたい落ちた。鋭い歯列を割って二つの赤い肉が伸びると、くるりと舐めとり中に戻る。

    (やっぱりダメだ)慈愛はぞおっと血の気が引くのを感じた。

     動物園で見た虎の餌やりだって、あんな風に肉を食い尽くしたりしない。食事に箸もつけられないまま、震え上がりながら問う。

    「お、おあじは、いかがですか、クチナシさま」
    「口に可よしィー」

     言いながら、クチナシはぺろりと山盛りご飯を平らげて空の器を差し出した。慈愛は身震いする手を無意味に叩いて、怖々しながらお代わりをよそう。飯碗を受け取りながら、彼は言葉を続けた。

    「慈愛や、襟えりを正して端座たんざに拘泥こだわらずんばァ、よろしく意の如く呼ぶべし」
    「すみません……よくわかりません」

     わからないばかり言っていて、自分は殺されるのではなかろうか。

    「サマァー、要らず。意こころのままに、呼びたまへ」

     急にクチナシが真顔になるのを見て、慈愛はこれまでの彼が、もの柔らかな顔つき、嬉しそうな顔つきをしていたことに気がついた。
     さっぱり体を拭いて、いつぶりか分からない食事をして、クチナシも機嫌が良いのだ。ただ少し、言葉が上手く通じていないだけで。

     けれど、妙に間延びしたイントネーションは心がなごむ。〝人食いの化け物〟と聞いて怖い怖いと思っていたし、実際クチナシは人間ではない。
     出された料理を本当に美味しそうに食べて、元気よくお代わりして。かけられた言葉も、何を言っているかは分からないが、声の調子は温かい。

     この家に来てから、景克にかけられたものよりもずっと。
     そう思って食事を続けていると、たびたびお代わりを要求されて忙しなかったが、それも楽しい。
     ご飯を食べるのが自分一人じゃなくて良かった。新しい家族は上で昼食を取っていて、慈愛と食卓を共にするのは彼だけなのだ。

    「あの、すみません。おかわりは、だまって出さないでください」

     思い切って気になっていることを言うと、クチナシは「オカワリ?」とオウム返しに首をかしげた。どくんどくんと心臓が胸中で爆発しそうだ。

    「おかあさんも、そういっていました」

     黙ってお茶碗を出すのは、行儀の良くないことだと教えられている。だから、化け物相手でも自分はちゃんと言わなくてはならない。

    「一碗ひとわん……オカワリ」

     それまでより幾分控えめに、クチナシはそっと飯碗を出して言う。話が通じると思った瞬間、慈愛は一気にこの化け物が好ましく映った。
     今や慈愛は、実の父であるはずの景克と、祭原の屋敷の方がずっと恐ろしい。緊張はずいぶんと和らいでいた。

    「はい、おかわりをどうぞ」

     ご飯をよそって碗を返す。

    「可き。其れが儀礼ならば」

     お礼とは何だか違う気がしたが、クチナシの返答にも満足した。そこでふと、先ほど言われたことを思い出す。サマはいらない、と。
     では「クチナシさま」ではなくなんと呼ぼう。
     呼び捨てはさすがに出来ない。クチナシお兄さん、では長すぎるし、お兄さんは気安すぎる。クチナシお兄さま、だとかしこまりすぎて恥ずかしい。考えこみながら口と箸を動かし、慈愛は決めた。

    「兄にいさま、とおよびしても、いいですか」

     声に出してみると、それが一番しっくり来る。クチナシは「可し」と短く答えた。それが祭原に来て初めて、慈愛がほっと安堵を覚えた瞬間だ。


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