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第二話 若い客は、町中華で何を食べているのか

    大学の近くにある町中華は、たいてい昼の顔が早い。

     
    十一時台の終わりには、もう最初の山が始まっている。講義と講義のあいだなのか、昼休みなのか、あるいは一限だけで帰るつもりなのか、そのへんの事情までは外から見ていてもわからない。ただ、まだ正午になっていない店内に、二十歳前後の客がすでに何組も座っているのを見ると、私は少しだけ姿勢を正したくなる。町中華は、もっと年上の人たちが使う場所だと、どこかで勝手に決めていたからだ。

    第1話で私は、町中華が「削られた生活感覚の回復装置」になっているのではないか、という仮説を書いた。ちゃんと座る。ちゃんと待つ。ちゃんと食べる。そういう、説明されれば当たり前すぎて拍子抜けするような手順が、いまはむしろ貴重になっているのではないか、と。では、その仮説は若い客にも当てはまるのか。スマホで何でも済む時代に、二十代の人たちは、いったい何を求めて町中華の戸を開けているのか。レトロだからか。写真に撮りやすいからか。量が多いからか。安いからか。それとも、もっと別の理由があるのか。

    そんなことが気になって、この数週間、大学の近く、オフィス街、住宅地にある数軒の町中華を歩いてみた。  
    どの店も似ているようで、似ていなかった。赤いカウンターがある店もあれば、木目のテーブルが落ち着いた喫茶店のような店もある。壁の短冊メニューが黄色く焼けている店、写真付きのラミネートが妙に新しい店、麺類ばかり出る店、定食が強い店。だが、その違いをいったん脇へ置くと、若い客の座り方には共通点があった。彼らは「珍しい場所に来ました」という顔を、あまりしていない。もっと普通に、もっと実用的に、そこへ座っていた。

    最初に入ったのは、私鉄沿線の大学から歩いて数分の場所にある町中華だった。  
    店の前には食品サンプルのケースがあり、チャーハン、肉ニラ炒め、ラーメン、オムライスが、少し色褪せたまま並んでいる。サンプルが褪せているということは、たぶん店がちゃんと続いてきたということでもある。新しい店なら、傷んだ見本はすぐ替える。だが古い店は、少しくたびれたものを、くたびれたまま使っている。それが雑に見えないのは、現場がそれ以上に現役だからだろう。

    中に入ると、四人がけのテーブルに学生らしい二人組が三組、カウンターには一人客が二人。  
    みんなスマホは持っているが、ずっと画面を見ているわけではない。注文を済ませると、ぼんやり店内を見たり、水を飲んだり、ただ待っている。その待ち方が妙に自然だった。私は、若い人ほど「待たない」ものだという雑な思い込みを持っていたかもしれない。だが実際は、待つに値する場所であれば、ちゃんと待つのだろう。

    私の斜め前に座っていた男子学生二人は、チャーハン大盛りと唐揚げ定食を頼んでいた。  
    料理が来るまでのあいだ、授業の話らしいことをぽつぽつ話していたが、内容より印象に残ったのは、店への馴染み方だった。片方が「今日スープちょっと濃いかも」と言うと、もう片方が「この前のほうが濃かった」と返す。初見の店で出る会話ではない。食べログの情報でも、SNSの切り取られた写真でもなく、自分の舌と回数で店を覚えている人の話し方だった。

    食後、声をかけると、二人は意外なくらい気さくに話してくれた。  
    二年生と三年生。サークルが同じで、この店には週に一、二回来るという。

    「なんでここなんですか。学食もあるし、チェーンもあるでしょう」

    そう聞くと、三年生のほうが少し考えてから言った。  
    「ちゃんと昼って感じがするからですかね」

    ちゃんと昼。  
    第1話でも似たような言葉にぶつかったが、若い人の口から聞くと少し輪郭が変わる。詳しく聞くと、学食は早いけれど流れ作業っぽくなりやすいし、チェーン店は便利だけれど「別にどこでも同じ感じ」があるのだという。その点、この店は毎回微妙に違う。混み具合も、盛り方も、厨房の空気も、店のおばちゃんの声のトーンも、少しずつ違う。「その日の昼を食べた感じがする」と彼は言った。

    二年生のほうは、もっと即物的だった。  
    「量ですね。あと、食った感。午後まで持つんで」

    だが、すぐにこう付け足した。  
    「でも量だけなら別の店でもいいんです。なんかここ、落ち着くんですよ」

    若い客が町中華に来る理由を、こちらはすぐ一つにまとめたくなる。安いから、量が多いから、レトロだから。ところが実際に話を聞くと、理由はそんなに単純な順番で並んでいない。量は大事だが、量だけではない。値段も大事だが、値段だけではない。彼らは店の空気を言語化するのが上手ではないし、別に上手である必要もない。だが、「なんか落ち着く」「ちゃんと昼って感じがする」という言い方の中には、たしかに生活の感覚がある。

    別の日、オフィス街の小さな町中華に行った。  
    こちらは大学街の店より回転が速い。ランチタイムの客は一人客が多く、注文も早い。入口の脇に消毒液、レジの上に電子決済の案内、壁には日替わり定食の札。店の構えは古いが、使い方は現役そのものだった。十二時を少し過ぎると、スーツ姿とオフィスカジュアルの人たちが一気に入ってきた。その中に、二十代後半に見える女性が一人、迷いなくカウンターへ座った。

    頼んだのは、もやしそばと半チャーハン。  
    食べるスピードは速いが、急いでいるようには見えない。食後に少しだけ話を聞くと、近くの会社で働く二年目だという。町中華は「おじさんの店」という印象が昔はあったが、自分で働くようになってから見え方が変わったらしい。

    「昼休みって、一時間しかないじゃないですか。だから早い店がいいんですけど、早いだけだと逆に休んだ気がしなくて」

    この言い方も面白かった。  
    休んだ気がしない。チェーンのカフェでサンドイッチを食べながらメールを返しているときの、あの曖昧な仕事の延長。コンビニで買ったものをデスクで済ませるときの、食事に身体が追いつかない感じ。そういうものに比べて、町中華には「昼休みを一回切り分けてくれる感じ」があるのだという。

    「ここ、注文したら、あとは食べるしかないじゃないですか」

    彼女は笑いながらそう言った。  
    少し乱暴に聞こえるが、言っていることは案外核心に近い。町中華では、料理が来たら食べる。熱いうちに食べる。テーブルで仕事はしにくいし、長電話をする空気でもない。つまり、食べること以外に逃げにくい。その不便さが、かえって食事を食事として成立させる。若い世代にとっても、それは不自由ではなく、むしろ区切りとして機能しているのかもしれない。

    週末には、住宅街のなかにある店にも行ってみた。  
    駅から少し離れ、近くには公園とドラッグストア、小さなクリーニング店がある。土曜の午後二時半、昼のピークを過ぎた時間でも、店には学生らしい二人組、ベビーカーを押した若い夫婦、一人でビールを飲む年配客がいた。こういう時間帯の町中華はいい。急いでいない客が増えるぶん、店の呼吸がよく見える。

    学生らしい二人組は、食べる前に料理の写真を撮っていた。  
    いよいよ「やっぱりSNSなのか」と思ったが、見ていると、その後はスマホを伏せて普通に食べ始めた。片方は天津飯、もう片方は野菜炒め定食。写真は撮るが、撮ることが目的ではない。その感じが今の若い客には多いのかもしれない。SNSに上げることは日常の手順に含まれているが、それが体験の中心とは限らない。

    二人のうち、天津飯を頼んだほうは専門学校生で、この店には祖父に連れられて来たのが最初だという。  
    もう一人は友人で、最近ついて来るようになった。

    「最初は、こういう店って入りにくいと思ってました」

    そう言うのは、友人のほうだった。  
    たしかに、町中華には初見の人を少したじろがせるものがある。暗黙のルールがありそうな気配。常連が多そうな圧。だが実際に入ってみると、案外そうでもないと彼は言う。

    「思ったより、ほっといてくれるんですよね」

    この「ほっといてくれる」は重要だ。  
    若い客に優しくする店は多い。だが、優しさが説明過剰になると、かえって居心地は悪くなる。町中華のいい店は、必要以上に歓迎しないかわりに、必要以上に拒まない。放っておかれることと、雑に扱われることは違う。そこをきちんと分けている店には、世代を超えて人が残るのだろう。

    では、店の側から若い客はどう見えているのか。  
    大学街の店で、注文の合間に女将さんがぽつりと話してくれた。

    「増えたは増えたけど、急にという感じでもないですね。親と来てた子が、今度は友達と来てるな、ってこともあります」

    この一言で、私は少し視界が変わった。  
    外から見ると、若い客の来店は“新しい現象”に見えやすい。だが店の歴史のほうから見れば、親子二代にわたって続いている線の一部なのかもしれない。完全に断絶した昔の文化が、突然SNSで発見されたわけではない。細くても途切れずに続いてきたものが、ここへきて目につきやすくなっているだけかもしれない。

    ただし、それだけでもない。  
    オフィス街の店主は「最近は一人の若い女性が入りやすくなった感じはある」と言った。昔より周りの目を気にしない人が増えたのか、町の側が少し変わったのか、その両方なのかはわからないが、店にとっても客層の変化は実感としてあるらしい。別の店では「写真を撮る人は増えたけど、迷惑な人ばかりじゃないですよ」とも聞いた。つまり、店側も一枚岩ではない。歓迎と戸惑い、その両方が静かに混ざっている。

    ここまで歩いてみて、若い客が町中華で食べているのは、単にラーメンやチャーハンだけではないのだと思うようになった。  
    もちろん、まずは料理を食べに来ている。そんなことは当たり前だ。だが、その料理の湯気にくっついているものがある。昼休みとしての区切り、授業のあとの息継ぎ、気を張らなくていい一人の時間、友人といても黙れる感じ、店に客として扱われる実感。そういうものを、彼らは一緒に食べている。

    純喫茶に来る若い人たちにも、似たものを私は感じることがある。  
    クリームソーダやプリンが好き、という気持ちはたしかにあるだろう。だが、あの人たちが本当に求めているのは、甘いものだけではない。店に流れている遅さ、席に座ってから飲み物が出てくるまでのわずかな空白、店の人との適度な距離。町中華にも、それとよく似たものがある。ただし純喫茶が「ひと息つく場所」だとすれば、町中華はもう少し身体に近い。空腹を埋めるぶん、持ち直し方が具体的なのだ。

    若い客は、町中華で何を食べに来ているのか。  
    いまのところの暫定的な答えを一つ置くなら、こうなる。  
    彼らは料理を食べに来ているが、その料理を通して“雑に扱われない昼”を食べに来ている。

    この言い方が大げさなら、もう少し小さくしてもいい。  
    コンビニもチェーンも悪くない。早くて、安定していて、使いやすい。だが、使いやすさだけでは足りない日がある。人はときどき、自分がちゃんと客として座り、ちゃんと一食を受け取ったと思える場所を必要とする。若い世代だって、その必要から自由ではない。むしろ、何でも効率化される時代にいるからこそ、そういう感覚に敏感なのかもしれない。

    ただ、ここで一つ残る疑問がある。  
    若い客が町中華に通う理由が、雰囲気や区切りや落ち着きだけなら、もっと高くても通うのか。あるいは、味さえ良ければいいのか。実際には、彼らはメニューを見て、財布の中身を思い出し、今日は定食にするか単品にするかを決めている。そこには当然、現実の価格感覚がある。町中華が「気軽に入れる場所」であり続けるためには、空気だけではなく、支払える金額の範囲にとどまっていることも重要なはずだ。

    店を出ると、大学の正門の前を自転車が何台も通り過ぎていった。  
    昼の光はまだ強く、学生たちは急いでいるようでいて、どこか急ぎきっていなかった。さっき店でチャーハンを食べていた二人組も、その流れのどこかに混じっているのだろう。彼らは町中華を“懐かしさ”として消費しているわけではない。もっと現在形の場所として使っている。そのことがわかっただけでも、この回を書いた意味はあった気がする。

    次は、もう少し露骨な話をしてみたい。  
    つまり、値段の話だ。  
    町中華は本当に安いのか。安くないとしても、なぜ人は納得して通うのか。  
    若い客が食べているのは「雑に扱われない昼」だとして、その昼はいくらまでなら成立するのか。  
    赤いカウンターの向こう側には、湯気だけではなく、いまの時代の財布の事情も立ちのぼっている。次回はそこを見に行こうと思う。

     
     

    anms

     
     
    地方スーパーの現場と経営を30年見てきた、ルポライター/翻訳家です。店長・本部・人事・経営者が、数字の裏にある「人と店の変化」を読み、次の一手を決めるための記事を書いています。採用、店長育成、在庫、人時生産性、店舗DX、50代からのAI仕事術を、現場の言葉で解説します。

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