
永観堂で偶然出会った法要と雨の話
秋はもみじの永観堂。
紅葉の名所として知られている。
秋の永観堂に行きたいとずっと思っていた。
けれど、紅葉のシーズンになると観光客が殺到する。
人の多い時には行きたくない。
そう思って、長い間行くことが出来ないでいた。
ならば思い切って、紅葉は諦めて人の少ない時に行こう。
そう決めて、シルバーウィークが始まる前日に訪れた。

総門をくぐると、中門、その奥の東山の裾野の緑が色濃い。
大玄関から建物の中に入ると、庭の緑が目に飛び込んできた。
新緑の頃は、日に透けるような瑞々しい緑が美しい。
けれど、今の時期は濃い緑が幾重にも重なって、庭は深い緑に包まれている。


永観堂は紅葉だけではなく、青もみじも同じくらい美しいと思う。
それでも、庭の緑を眺めていて、これらが色づいたらどれだけ素晴らしいだろうと思わずにいられなかった。
実は、永観堂は初めてではない。
何十年も前の紅葉の時期に訪れている。
もう昔すぎて、庭の紅葉が素晴らしかったということだけ覚えていて、どう美しかったのか、誰と訪れたのかも思い出せなかった。

地面や木の幹を覆う緑の苔は、この夏の暑さにも負けず瑞々しい。

どこからか、カンカンカンと激しく鐘を鳴らす音がした。
誰かのいたずら?
ドン、ドン、と何かをたたく音。
工事が始まった?
シャカシャカとなる音はなんだろう?
そう思いながら、左は臥龍廊、右は阿弥陀堂という階段の前で、どちらへ行こうかと迷った。
そして、臥龍廊の階段を4、5段登ったところで、ふと今来た御影堂へ続く廊下を見る。
僧侶10人ほどが列をなしてこちらへやってくるではないか。

周りには誰もいない。
急いで階段を降りた私の横を通って、僧侶たちは阿弥陀堂の階段を昇って行った。

何かが始まる、そう思って後ろをゆっくり付いていった。
階段を上りきると、もう僧侶たちの姿は見えなかった。

阿弥陀堂の廊下を歩いていると、お堂の中から読経が聞こえてきた。


さっきの僧侶たちが、祭壇の前に座っている。
緋色の法衣を着て帽子を被った僧侶だけが、真ん中の椅子に座りお経を唱えている。
緋色の法衣が高位の僧侶であることは聞いたことがあった。
私も正面へ回ってお堂に入り、長椅子に座った。
他の僧侶は床に置かれた座布団に座っていて、お経を一緒に唱え始める。
鏧子の他に2本の黒い拍子木のようなものを、カンカンと叩いて高音を響かせている僧侶がいる。
緋色の僧侶が、リーダーでボーカル、他の僧侶はコーラス、鏧子を鳴らしているのはパーカッションか。
鏧子を鳴らしたり、拍子木みたいなものを叩くタイミングは決まっているのだろう。
覚えるのは大変だな。
お経も動作も法要によって違うだろうけれど、リハーサルはするのだろうか。
そんなことを考えながら、最初はエンタメのライブを見るような気持ちで眺めていた。
ところが、僧侶達のユニゾンの重低音の読経は、なんだか胸に迫るものがある。
気づけば読経の内容はわからないけれど、真剣に聞き入っていた。
読経が節のついたものへ変わった。
若い女性僧侶が現れ、茶色い経木のようなものを各僧侶に配ってまわっていた。
その後、僧侶達が手にした経木のようなものを一枚ずつ繰りながら、それぞれが別々に猛烈な勢いで読み上げ始めた。
書かれているのはお経のようだ。
それまでと空気が変わる。
堂内は圧倒的な音の渦に巻き込まれた。
予測不能なエネルギーに満ちている。
一体何が行われているのだろう。
鳥肌が立つ思いでそれを見ていた。
やがて、静かに元のユニゾンのお経に変わっていった。
偶然に居合わせた法要だったけれど、あれは何だろう、どういう意味があるんだろう、とわからないことだらけだった。
わからないことを家に帰って調べてみた。
まず、緋色の法衣の僧侶はやはり普通の僧侶ではなかった。
僧侶の最高位の大僧正で永観堂の法主だった。
最初に聞いたカンカンと鳴る鐘は、儀式の始まりの合図。
ドン、ドンとシャカシャカの音は、杖で進む道を清め邪気を払うためのもの。
黒い拍子木は、お経の速さや調子を整える合図。
僧侶たちが別々に猛烈な勢いで読んでいたお経については、はっきりとわからなかった。
その日の法要は「六阿弥陀功徳日」という月例法要で、この日にお参りすると普段以上に功徳を授かるとされている日だった。
最後に、法主からの短い法話があった。
最近の豪雨被害のことに触れられた。
そして、雨は同じように降っても受ける人によって違う。
同じ雨でも、人それぞれなのですよと、繰り返し話されて終わった。
私は、話された意味はわかる、それでその先は?という思いだった。
命までも奪うような雨にあった人、その家族はそれをどう受け止めればいいのか、と考える。
その雨は、その人たちにはどういう雨だったのだろう。
法主がその先を話されなかったのは、自分で考えなさいということか。
浄土宗だから、阿弥陀様の慈悲にすがる、ということなのだろうか。
お堂で見た“みかえり阿弥陀”の姿を思い出す。
阿弥陀様の存在を、私はどこまで現実のものとして受け止めているのだろう。
結局は自分の心の中で、起きたことに向き合うしかないのではないか。
宗教って何?仏教とは?
とりとめもなく、いろいろな考えが頭の中を巡る。
偶然出会った法要で、わからなかったことを調べてみた。
けれど、最後のわからないことだけは、調べても答えはどこにもなかった。
