
北大路魯山人・第四巻「究極のお茶漬け」

お茶漬けと聞くと、手軽に食べられる家庭料理を思い浮かべる人が多いでしょう。
しかし、北大路魯山人にとって、お茶漬けは単なる簡単な食事ではありませんでした。
素材の選び方、味付け、ご飯との相性、そして食べるときの温度にまで心を配る、奥深い料理だったのです。
本書では、「お茶漬けの味」をはじめ、京都のごり、車蝦、塩昆布、塩鮭・塩鱒、てんぷら、納豆など、さまざまなお茶漬けの楽しみ方が紹介されています。
身近な食材であっても、その持ち味を生かし、ちょっとした工夫を加えることで、驚くほど豊かな味わいが生まれます。
魯山人の文章から伝わってくるのは、料理に対する妥協のない姿勢と、食べることそのものを楽しむ心です。
何気ない一杯のお茶漬けにも、これほどの奥深さがある。
読み終えたとき、いつもの食卓が少し違って見えてくるかもしれません。
日本の食文化と美味しさの原点を教えてくれる一冊です。
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1:お茶漬けの味
お茶漬けの話にかぎらないが、料理というものは、財力豊かな人のものと、財力不自由な人のものとでは、常に天と地ほどの相違がある。
しかし、財力豊かで、刺身よかれ、牛肉よかれと、どんな材料でも、手に入れることに少しも不自由のない人が、贅沢料理に飽きて、簡単な美味いもので食事がしたいという場合がある。
これは体内にお医者さまの言う栄養が充ち満ちて、生理上、栄養が不必要になった時だ。かような時、茶漬けで飯が食いたいということになる。
だが、ただの茶漬けという分には差支えないが、贅沢なものの、特にもの好みして、なにか美味い茶漬けが食いたい意味で、茶漬けを要求する場合は、単にさけの切り身というわけにもいかないだろう。
さけの切り身と言っても、いろいろあるので、ほんとうの新巻じゃけが手に入れば茶漬けも甚だ結構だ。
しかし、近頃はそう特殊の新巻も手に入るまい。
そこら辺の店先で手に入れるとなると、さけは美味いもの食いには承知ができず、「ほかになにか……」ということになってくる。
沢庵の美味いのはないか、干ものの美味いのはないかと詮議だてすることになる。
あるいは、たい茶漬けにしようか、という具合に金のかかる方法も考えられる。
そういう手は財力が豊かでなければ自由にならない。
ゆえに料理は貧富の差で、さまざまの答えが出てくると言えよう。
昔から婦人雑誌やラジオなどに出てくる料理研究家と称する人々の発表する料理は、贅沢料理と言うよりも、大衆的であることを根本精神にしたものだから、贅沢者の参考にはなるまい。
そこで、私の語ろうとしているのは、茶漬けにかぎらず、(反感を持たれるかも知れないが)贅沢料理の話である。
通の通たる人のよろこぶ話だ。
現今の青年子女は、「金ばかり高くてそんなもの」と言うであろう。
そこでもうひとつ、料理は貧富の差のみではなく、年齢の差で好みが変ることも考えてもらいたい。
従って、一家族全部が感心するような料理はなかなかなく、年齢を分けて嗜好を合わせなくては満足がいくまいと思う。
いわんや、財力の乏しい人では、値段の高いふつう聞きなれない料理には賛成できないであろう。
美味い料理は長年続けての習慣がつかなければ、美味いと分るものではない。
それが分るようになるためには、相当の費用もかかる。
しかし、だからと言って、費用をかけたから食物の美味さが誰にも分るとはかぎらない。
食通と言われる人でも、種々の段階があるくらいだから、一般ではなおさらである。
結局、これは書画の場合と同じように、分る人のみに分るのであろう。
さて、お茶漬けの話だが、これにしてもそれぞれ段階があって、ただ飯の上に塩と茶をかけて美味い場合もあるし、たい茶漬けが美味い場合もある。
体の状態によって、時々の好みが変ってくる。
たい茶漬けが今日美味かったからと言って、明日も明後日もつづけたらどうであろうか。
要は、正直に自分の体と相談して、なにを要求しているかを知るべきである。
うなぎがいいか、牛肉がいいか、あるいは沢庵の茶漬けか、その時々の状態によって、好むところのものを食しておれば、誠に自然で美味を感じる。
が、これを自然にやらないで、「高いものは美味そうだ」「安いものは食いたくない」と言って選択しているのを見聞きするが、こんな考え方は、茶漬けであっても一考を要する。
茶漬けを食いたいと要求する肉体が、自分の好きな茶漬けを食えたらこんな幸せはあるまい。
これがすなわち栄養本位と言えよう。この理論は茶漬けにかぎらず、どんな場合にも成立する。
なんにしても食物のことは、自分の肉体や精神をつくってくれる根本問題であるから、その根本義を考えて、美味いものを食べればよいのである。
よくよく考えてみれば、人の食物に対する要求は、結局肉体がその食物を要求しているので起こると言える。
ところで、その要求だが、ふだん値の高い食物を食いなれていなければ、味を知らないので、高いものを要求しないが、値段の高い食物で育ちつけた人は、そのほうが体に合うところから、美味い高価なものを要求する。
たとえば、東京ではまぐろに高い金を出すが、食い道楽で有名な大阪の人たちは、まぐろに金を出さない。
これは、昔から大阪にまぐろの一級品が運ばれないので、まぐろの味を知らないからである。
また食いものが、美味いものだけ食えるか、不味いものしか食えないとかいうのは、その人の育った環境のせいであるから、これをいたずらに曲げてはならない。
分相応でなければならぬ。
もしそうでなければ、食いものの話はできない。
口福は得られないということになってしまう。
前置きはこのくらいにして、実際の話に移ろう。