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連載恋愛小説-「まだ、ほどける途中で」⑭最終回


    続きです
                   (3023文字)

    マンション前のゴミ置き場の網に、骨が折れた傘が引っかかり、泥が跳ねて曇った空き瓶が転がっている。昨夜、彼と私だけにしてくれた雨の音を思い出す。雨は半分洗い流してくれて、半分置き去りにし、私の中にまだ雨が残っている。

    マンションの部屋の中は、動き続けたクーラーで冷え切っている。テレビの中のお笑い芸人が、何か笑いを誘っている。ソファのそばの小さなテーブルの上には、ビールの空き缶が幾つも並び、そのうちの一つは横になったまま、拓也の深いため息のようにビールを垂れ流していた。

    ソファにうずくまった背中が妙に痛々しい。よれたTシャツと、少し固まった毛先が私の心を疼かせる。私は冷房で震えるのか、今から始まることで震えているのかわからない。

    私の気配に拓也がふと目を覚ました。

    泣いていたのだろうか。
    それとも寝ないで待っていたのだろうか。
    充血した目の奥に悲しみを見たようで、胸がぎゅうと苦しくなる。

    「ただいま」

    「由香里、おかえり。心配したよ。どこに行ってたの?」
    拓也の声が少し震えている。

    「過去……」

    「えっ?」
    「何を言ってるの?本当は僕のこと、怒ってるよね?何も言わないで出ていくなんて」

    「……私のことなの」

    私は小さく首を横に振った。

    「私たち、別れよ」

    「なっ、何言ってるんだよ。嫌だよ。由香里がいなくなるなんて」
    拓也が息を詰めるように話を続ける。
    「ごめん。本当にごめん。魔がさしたんだ。僕には由香里しかいない」
    そう言って拓也は肩を震わせ泣き出した。

    昨日から、どれだけ涙を流し、どれだけ涙を見てきたのだろう……拓也が愛おしく思えて泣けてくる。

    「拓也、本当に今までありがとう。
    ……拓也のことも私がそうさせたんだと思う。
    もう一度、生き直したいの。少し時間が欲しい……」

    拓也は口をへの字にして「わからないよ」と泣いている。私も目尻に涙が滲み、思わず抱きしめようとした手が宙を彷徨った。


    拓也の重くなった髪とTシャツから、酸っぱい匂いが漂っている。垂れ流れたビールは染みのように広がっていく。傷ついた子どものように丸まった背中に、私は胸を締め付けられた。

    このまま拓也と生きていく道もあるのかもしれないーー
    そんな思いが一瞬だけ心を揺らした。


    静かに時間だけが過ぎていき、カーテンの隙間から、オレンジ色の光が差し込んでくる。


    「拓也、コーヒーでも淹れるね」
    私はマグカップに紙の耳を広げ、お湯を注いだ後、拓也用にたっぷりのミルクを注いだ。
    「どうぞ」

    拓也は目の前のマグカップを見つめたまま、まだ震える息をそっと吐いた。

    「ねぇ。僕たち本当に終わりなのかな……由香里があまり……その……子どもが出来るとまた違うのかなと思っていたんだけど……言い訳だけど、何だかたまにしんどくなって逃げてた。ごめん」

    「ううん」
    私は目を閉じ、首を横に振った。
    拓也が言い淀んだ言葉が音にならなくても伝わってきた。

    マグカップの中のコーヒーはすっかり冷め、白いつぶつぶが静かに浮いていた。


    「……最初から私が何も言わなかったから……ごめんなさい」

    「僕たち、似た者同士だったのかな。別れても由香里の近くにいたい。だめかな……」

    「……ううん。いて欲しい。……私もまだ心細いもの」

    素直な気持ちだった。
    一人で生きていくには、まだ覚悟が足りない。
    私はきっとずるい。
    誰かにいて欲しかった。



    秋が少しずつ深まり始めていた。

    私は久しぶりに実家に帰り、仏壇に手を合わせた。
    母が温かいお茶と羊羹をお盆に乗せて運んできた。

    「ねぇ、お母さん。私が小学校三年の時亡くなったまりちゃんち、今、どうなってるの?」

    お母さんはびっくりして、飲みかけのお湯呑みを慌てて置いた。
    お茶がひと滴、お盆に落ちて揺れている。
    あの事故以来、我が家でその話は誰も口にしなかった。少なくとも、私の前では。

    「お父さんとお母さんがずっと、手を合わせに行ってくれていたんでしょ。ごめんね。私はさっさと街へ出てしまって……」

    「いいのよ。生きてくれてさえいれば……由香里は由香里の人生を生きなさい。あれは子どもの頃の事故なんだから、由香里が気にすることないの」

    あの事故から目を背けたかったのは、お母さんたちのほうだったのかもしれない。外野の声からずっと私を守ってくれていた。

    「今さらだけど、ありがとうね、お母さん。それからね、私……拓也さんと離婚したの。事後報告になってごめん。勝手ばかりして……」

    「……驚いた。けど、由香里がそれでいいならそれでいいよ。いつでも頼ってきて」

    「ありがとう」


    私はあの事故以来、足を踏み入れることのなかったすべり山に向かった。

    母の言った通り、まりちゃんの実家は父親が亡くなってから人の気配を失い、白かった壁は色あせ、ところどころに苔が生えていた。

    裏山にまわってみる。
    子どもたちで名付けたすべり山も、まりちゃんが歩いていた脇道も、色づき始めた木々に覆われていた。
    乾いた風が私の頬を通り抜け、思わず彼を思い出す。アトリエで嗅いだのと同じ、木の匂いがする。風が吹くたび、小さな森はカサコソと何か喋っているようだ。

    裏山からまりちゃんの家を眺めてみた。
    カーテンが下りたままの三階の部屋を見上げた。あの日、彼はあの窓から見ていたのだろうか。

    私は目を閉じ、子どもの頃の光景を思い出した。

    「次、わたしー」
    「まりちゃーん、こっち、こっちー」
    「わぁー気持ちいいー」

    甲高い声。緑の匂い。風になびく髪。額の汗。

    いつもは近所の子どもの遊び場だった。

    あの日はたまたま二人だった。

    懐かしくて、痛くて、涙が頬を伝っていた。

    まりちゃん、来るのが遅くなってごめんね。
    会いにきたよ。

    心の中で手を合わせた。

    ここ、秘密の場所だよね。
    隠してね。


    私は背丈ほどに伸びた木の根元を、持ってきたスコップで掘り返す。
    穴に、白い布に包んだ皿をそっと埋めた。

    彼にもらったスケッチブックを取り出した。

    生き直すためにーー

    破いて空に飛ばしたーー

    つもりだった。

    でも、出来なかった。

    私はそばにしゃがみ込み、彼が鉛筆で描いたページをゆっくりとめくっていった。

    それは、彼にもらった私に戻る時間だった。

    表情のない顔。
    泣きそうな顔。
    怒っているような顔。

    どれも私だった。
    .
    .
    .
    火照った耳。
    うなじを伝う汗。
    開いた口。
    .
    .
    .
    手……
    顔を隠した手……

    彼と繋がれた手ーー



    最後のページではっと手が止まる。

    鮮やかな色がついていたーー

    何も身に纏っていない私が眠っている。

    少し微笑んだような、安らかな顔だった。

    背中には光がちりばめられ、頬には紅が差す。
    閉じた瞼は金色に染まり、唇は水を含んだようだった。胸は薄ら桃色に、くびれた腰は青みがかり、折れ曲がった足は淡く肌色に帯びている。


    私、息づいているーー


    彼がどれだけの想いを込めて描いてくれたのか。
    とまっていた涙が、また滲んだ。


    ありがとう、修一さん。
    ありがとう、まりちゃん。


    風が木々の間を通り抜け、スケッチブックの紙を揺らした。
    辺り一面、木の温もりに包まれていた。


    私はこれから先も、あやふやで、何度も迷うことだろう。
    けれど、自分から閉ざすことはやめておこう。
    もっと人に頼ってもいいのかもしれない。
    ずるくてどうしようもない自分を、ほんの少し好きになれた気がする。

    私は今年のじりじりと焼けつくような夏をきっと忘れないーー



    お腹にそっと手を添える。

    空はどこまでも高かった。

    私は思い切り息を吸った。



    新しい命にも届くようにーー



    終わり



    *この物語はフィクションです。

     
     
    初めましての方も、そうでない方も、こんにちは。 心の赴くままに小説、詩、たまにエッセイ等を書いています。 お立ち寄り頂ければ、嬉しいです。 *記事の著作権は放棄しておりません。 2026年4月8日まで、aonokutuで活動。 2026年4月8日からは「蒼あお」として活動。