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連載恋愛小説-「まだ、ほどける途中で」⑦

    続きです
                   (1961文字)

    「あなたを、描いてあげるよ」

    彼はそう言って、私の手をとり、扉の奥へ連れていった。淡く優しいその手に包まれたまま、私は導かれていく。先ほど拭ってもらった涙の跡に、まだおしぼりの感触が残っている。

    閉じ込めてほしくて逃げ出したくなる、小さな茶色い箱の中、少し落とした灯りの下で、私は椅子の前で立ちつくす。
    彼は「無理しなくていいからね」と私の肩にそっと手を添えて椅子へと促した。


    私は目の前に座った彼を認めた途端、耳の内側がほんのり火照り、首筋にじわっと汗をかいた気がして、軽く咳払いをし目を逸らす。

    彼はまだ、スケッチを始めない。
    柔らかそうな茶色の瞳で、何かを測るように私をしばらく見ていた。


    「何か話したくなったら、いつでも話してね」彼はそう言って、準備を始めた。  

    彼の赤茶けた前髪は、鉛筆や木と同じように無機質で、光を吸い込むように軽く額に落ちている。捲り上げた生成りのシャツから覗く、白くて細い腕。
    先ほど繋いだしなやかな手は、スケッチブックをめくっている。

    気づけば私は彼をなぞっていた。



    隣の部屋からほんのりとコーヒーの香ばしい香りが漂って、木の匂いと混ざっている。



    とても静かだった……

    先ほどまでの彼の柔らかな目が、私を刺してくる。


    カリ……カリ
    シャ……シャ……


    音に溶けるように、彼の静かな視線が、線になっていく。


    優しく鉛筆を持つ細い指がわずかに止まり、また、動き出す。
    彼の白い頬にもうっすらと赤みが差しているようだ。



    私は彼に見つめ続けられ、体の芯が熱くなってくる。その視線から逃げようとして、わずかに絡まり、湿度を帯びて思わず足に力が入る。



    その日の私は黒いシャツを着ていた。
    彼が「少しだけ楽にしてみて」と視線でボタンを示し指を動かした。


    私はその言葉を待っていたのかもしれない。
    ひとつ、ボタンを外す。


    「……もう少し」


    ぎこちなく二つ目のボタンも外し、左の鎖骨がわずかに覗くように襟元を崩した。
    彼の視線がそこに落ちた気がしたけれど、本当に見ているのかわからない。
    もうそれ以上、彼は何も言わなかった。


    カリ……カリ……と紙を削る音。
    鉛筆の線が首筋をなぞっていく。
    本当は、触れていないはずなのに。




    さら、さら、撫でるような音。
    消しゴムのかすかな匂いが、耳元をかすめていく。
    なぞられた線が消えている。


    壁のモデルたちが一斉にこちらを見ている気がして、顔を動かせない。
    私のことを何も知らないはずなのに、絵の中で口がわずかに歪んでいる。

    笑われている気がした。

    視線が痛い。


    私は心の中で慌てふためき、何もなかったような顔をして、そっと襟元を寄せた。


    カリ……という音が止まる。
    彼はスケッチブックを置き、私の背後にまわるとさりげなくシャツを整えてくれた。

    でも一瞬、指先がシャツに触れたまま止まり、離れる気配がなかった。
    仕事帰りの私は髪を低めにゆるくひとつに結んでいて、下ろしてくればよかったかなとふと思う。
    彼の白い指が黒いシャツに映え、そのまま私の髪の後れ毛をふっと撫でた。


    「今日はここまでにしようか」

    「ここまでって……今日で終わりじゃないの?」

    「あなたは高校生とは違う……まだ、途中だよ」

    彼が私をまっすぐに見る。


    帰る準備をし、タクシーのチケットを渡されてやはり支払いが気になった。
    「モデルになってくれたから何も要らない」

    「普通は描いてもらった人が払うんじゃないの?」

    彼は少しだけ目を細めて言った。

    「気にしなくていいよ。そういうの苦手なんだ……あなたもそういうの苦手でしょ。そのままでいいんじゃないかな……あなたはもっと人に甘えていいよ」


    私は彼が呼んでくれたタクシーが動き出すと、急いで時間を確認し、拓也のLINEの画面に表示された文字を見た。

    「今夜は会議の後、そのまま飲みに行くね」

    私はほっとして深くシートに沈み込んだ。
    なのに、体の奥がまだ熱を持っている。
    首筋に気配が残っている気がして、私は襟元をクシャリと寄せた。
    画面の言葉はちゃんと理解が出来るのに、さっきまでのことは、うまく言葉にならない。

    後部座席でそのまま目を閉じて、彼とのやりとりを思い出していた。


    「篠原さん、下の名前は?」

    「由香里……自由の由、香りの香、里山の里……あなたは?」

    「久遠修一。……好きに呼んでね」彼は私の言葉を待たずに続ける。

    「由香里さん、次はいつ来る?」

    「……多分、二週間後。でも、来ないかもしれない……」

    「来たいときでいいよ……」と、くしゃりと目尻を下げた。

    彼の声は私の耳を優しく撫でるようにとても心地いい。彼はいつからくだけた言葉になってきたのだろう。私の言葉もいつの間にか少しずつくだけてきているようだ。

    私は自分が少し滑稽だと思いながら、妙に体が気怠くて、音が遠のいていく。
    車に揺られうつらうつらと眠ってしまった。


    続く


     
     
    初めましての方も、そうでない方も、こんにちは。 心の赴くままに小説、詩、たまにエッセイ等を書いています。 お立ち寄り頂ければ、嬉しいです。 *記事の著作権は放棄しておりません。 2026年4月8日まで、aonokutuで活動。 2026年4月8日からは「蒼あお」として活動。