
消した店の字|完結掌編【全文無料】
自分で書いた字を、消す仕事だった。
板は私の作業場へ運ばれてきた。「はなのパン」。左の端が少し欠けているが、文字は全部読めた。指でほこりを払うと、青い「の」が出てきた。
十五年前、初めて一人で任された看板だった。「は」と「な」を書いてから、紙の手本をひっくり返した。最後まで自分で書きたかった。店主は仕上がりを見て、パンより字の方が大きいね、と笑った。
店をたたんだことは、聞いていた。板がどこへ行ったかは、考えていなかった。
新しい店を始める人は、板の写真を示した。白い地に、紺で「おの洋品店」と書いてほしいという。字は丸く、読みやすく。
「板も、新しい物にしませんか」
私が言うと、その人は写真を閉じずに、使えるならこれで、と答えた。見積もりは塗り直しで出してある。私は金額をもう一度言った。相手はうなずいた。
「前の字、あなたですか」
工具を片付けていた手が止まった。そうです、と答えると、相手は、お店の方に聞きました、と続けた。私は、これを初めて書いた日の話をしそうになった。
「前の字、透けませんか」
私は仕上がりを見て確かめますと答えた。相手は、それならお願いしますと言い、板を置いて帰った。
私は濡らした布で、板を拭いた。端から進め、「の」のところで手が止まった。下へ回った線の終わりが少し跳ねていた。あの頃は、それが自分の字だと思っていた。
電話をかければ、別の板を私が用意すると言えた。余った板なら、奥にある。けれど、古い看板を引き取ってよいかは、まだ聞いていなかった。私は電話を机へ戻した。
白を重ねた。字のない板を見ているより、まだ「は」が読める間の方が、手を止めやすかった。私はその「は」から塗った。
作業の合間に外へ出て、缶の茶を一本買った。戻った板は白かった。少し離れて見ても、近づいて見ても、「の」は見つからなかった。
新しい店名を下書きした。お、の、洋、品、店。二文字目で、筆を持つ指に力が入った。前の字と同じように線を跳ねさせそうになり、いったん筆を離した。
客に見せてもらった写真を開いた。丸い字で、線の終わりは止まっていた。私はその形へ戻した。
受け取りの日、その人は板を立てて見た。読みやすいです、と言った。私は板を寝かせ、包む紙を持ってきた。裏の古い釘穴へ紙が引っかかったので、少しずらして巻いた。
「裏は、そのままなんですね」
「使う面ではないので」
相手は、ここは見えませんからね、と言った。二人で板を持ち上げ、車へ載せた。荷台の端から、白い面が少し覗いていた。
作業場へ戻ると、床に青い色の付いた布があった。私は洗い桶へ入れた。指を開くと、爪の横にも小さな青が残っていた。こすって落とし、次の仕事の紙を広げた。
最後まで読んでくださって、ありがとうございます。別の一日を描く掌編も置いています。
https://note.com/apt_bee8995