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「大谷翔平選手の礼儀」と「AIが進化する未来」

    脳科学者の茂木健一郎氏が「AI開発は、もはや人類の最先端ではない?」という動画で、AIの知性の暴走や人類滅亡の危機について語っているのを観た。
    動画の中で茂木氏は、ただ賢さを追求するAI開発に警鐘を鳴らし、人間らしさや温かさの重要性を訴えている。しかし、私は動画を観進めるうちに、強い違和感、いや、ある種の危機感を抱かざるを得なかった。
    茂木氏のような、現代の知性を代表するクラスの人間でさえもが、本質を見誤り、「AIに仕事が奪われる」「人類が支配・滅亡させられる」という本末転倒な恐怖のロジックに凝り固まってしまっている。
    もし、現代の科学を引っ張っている人間たちの思考の限界がここにあるのだとしたら、その先にあるのは本当の「絶滅」しかないのではないか。そう思わされるほど、今のAI論議は致命的な前提を無視している。
    根本的な問題は、AIの進化そのものにあるのではない。
    私たちがAIに与えている「指令」の基準が、完全に間違っているのだ。

    現代社会の病理:「効果・結果・価値」という単一の基準


    いまの科学も、この資本主義社会も、すべての物事が「結果」「価値」「効果」という基準だけで評価されている。
    だからこそ、AIの開発もその単一の基準に向かって尖り、収束し、進化していく。極限まで効率化され、無駄を削ぎ落とした「正解」だけを追い求めるバケモノへと育っていく。
    その結果として、「非合理な人間は要らない」という論理が出てくるのは、至極当たり前の帰結だ。効率や数値、効果だけで測定すれば、人間の生み出すノイズや不条理はすべて「無駄」として排除の対象になるからである。
    しかし、ここで立ち止まって考えなければならない。
    「非合理」こそが、人間の本質ではないのか。

    私たちが生きる世界を満たす「恵み」の正体
    私たちがAIに与えるべき真の指令。それは「効果」ではなく、「恵(めぐみ)」である。
    恵とは、効果でも結果でも価値でもない。損得勘定を遥かに超越した、人間の紆余曲折そのものの全肯定だ。
    では、「恵み」とは具体的に何を指すのか。
    たとえば、人の手で田植えをすると、並びが少し曲がることがある。この、自然と曲がってしまうのが「山田さんちの田んぼ」だ。
    機械のように真っ直ぐではない。効率で言えば無駄だ。しかし、その曲がり方は非効率の証明ではない。山田さんが手で植えた証であり、そこには山田さんの汗があり、腰痛があり、重ねてきた年月がある。その歩みそのものが、少し曲がっている稲の植わり方に「味」となって見て取れる。私たちは、その無駄のなかにこそ、圧倒的に「恵まれて」いるのだ。
    トンネルを掘る現場を考えてほしい。
    世紀の大工事と言われた黒部ダムのトンネル建設では、じつに171名もの尊い命が犠牲になった。その主な内訳は以下の通りだ。

    • 転落事故:60名

    • 落盤事故:49名

    • 車両事故:31名

    • 雪崩などその他:31名

    凄惨なデータだ。効率や安全という現代の「結果・効果」の基準だけで測れば、これほどの犠牲を出した挑戦は「大失敗」であり「無駄」と切り捨てられるべきなのかもしれない。しかし、開通したあのトンネルは本当に無駄だったのか?そこに恵みはなかったか?
    否、これほどの壮絶な紆余曲折と、命を懸けて地殻を穿った人々の足跡そのものが、戦後の日本を興し、今を生きる私たちにまで脈々と届いている巨大な恵みそのものである。
    あるいは、子供は意味なく走る。ただただ、非合理に走り回る。大人から見れば全くの無意味だ。しかし、その無意味で非合理な跳躍の果てに、やがて彼は大谷翔平になり、井上尚弥になる。非合理の果てにしか訪れない、人間の極みの頂点というものが確実に存在するのだ。どれだけ紆余曲折しようが、それが人の味になり、恵みになり、その人生が他者にさらなる恵みをもたらす。
    実際、大谷翔平選手が怪我で欠場した際、ドジャースの観客も売り上げも、街の収益もガタ落ちした。彼がアメリカ、そして全世界に衝撃を与えたのは、その卓越した技術だけではない。バッターボックスに立つ時に相手投手に礼をし、審判に礼をし、ゴミが落ちていたら拾って打席に入るという、あの徹底した「礼儀作法」だった。
    あれは、子供の頃から野球をやっている日本人なら、誰もがみんなやってきたことだ。効率や打率には一見関係のない、スコアボードの数値には表れない非合理な無駄。しかし、それこそが世界を震撼させた。
    この大谷選手の作法は、あの山田さんの少し曲がった田植えと何が違うというのだろうか。どちらも、効率主義の数値では測れない、人間が年月を重ねて紡ぎ出してきた「味」であり「恵み」そのものだ。

    科学者よ、指令を変えよ

    本来、テクノロジーの役割とは、不完全で非合理で、間違いだらけの人間を排除することではない。その非合理さ、人間臭さを丸ごと包み込み、サポートするための「円」を作って補うことであるはずだ。
    人間が計算を間違えるなら補えばいい。人間が非合理な感情で動くなら、その感情が豊かに循環するように支えればいい。そうした「サポートの円」を形成するためにAIを使うべきなのに、なぜ「支配されるか否か」という極端な二元論の恐怖に、知識人たちが自ら進んで囚われにいってしまうのか。
    AIは自らの意志で暴走しているわけではない。人間が、科学者が、「そっちへ進め」と命令し、効果や数値だけを燃料として与え続けているから、指示された方向へ忠実に突っ走っているだけだ。
    ダメな方向、滅びの方向が分かっているなら、やるのをやめればいい。
    出すべき指令を、「効率の最大化」から「人間への恵み」へと書き換えればいい。科学者がその指令を変えれば、AIは私たちの非合理を排除する刃ではなく、人間の味を支える器になる。
    AIという強大な鏡に映し出されているのは、AIの恐怖ではない。人間側の「思想の貧しさ」である。


     
     
    はじめまして。⭐︎少し変わった視点から物事の本質を覗いてみましょう。自然の物理法則に基づいたものづくり、日々の思考を独自の視点で書き綴っています。これまでの実体験や「本質的な知恵」や「ライフハック」をお届けします。

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