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旅と余白 vol.174|ヴェルナッツァの時間と、イカのフリットが連れてくるひととき @Cinque Terre, Italy|Mar. 2026

    part 5|夏を待つ、チンクエ・テッレ

    イタリア|ミラノ/トリノ/ジェノヴァ/チンクエ・テッレ
    フランス|カンヌ/ニース/モナコ/アヴィニョン/アルル/パリ
    2026年 3月・4月 

    ヴェルナッツァの時間

    ジェノヴァから日帰りで訪れているチンクエ・テッレ。
    西の端のモンテロッソ・アル・マーレから列車で数分。
    二つ目の村、ヴェルナッツァを歩いている。

    駅から押し出されるように通りを下り、
    地図も何も見ないうちに港へ出た。

    ヴェルナッツァの海はとても静かで、
    たくさんの観光客が訪れているにもかかわらず、
    小さな入り江はひっそりとしている。

    しばらく港でぼんやりと過ごした後、
    駅の方へ向かって、ヴィスコンティ通りを歩いた。
    相変わらず通りはにぎわっていて、
    明るい雰囲気。青空も見えてきた。
    徐々に気温が上がってきて、
    ウインドブレーカーを脱いだ。

    肌寒かった朝のジェノヴァからは
    考えられないほどの春の陽気だ。

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    何もかもが穏やかに過ぎていく。
    風も光も、道を行く人々の顔も穏やかだ。
    どこにもせわしなさや慌ただしさが感じられない。
    私の腕時計は変わらないのに、
    ヴェルナッツァの時間は、
    この村のすべてに適した進み方を
    しているような気がする。

    小さな扉からの誘惑

    ヴィスコンティ通りからローマ通りへ入ると、
    潮の香りは遠のき、その代わりに
    美味しそうな匂いが漂ってきた。

    港へ向かう時は、必ず今日はジェラートを食べようと、
    決意したのだが、時刻はちょうどお昼どき。

    私の鼻を刺激したのは、揚げ物の匂いだった。
    すれ違う人が手に持っていた、海鮮のフリット。
    これだ。

    どこから漂うのか、しばらくあたりを
    見渡したのだが肝心の店が見つからない。

    通り過ぎてしまったのか、香りが遠ざかっていく。
    私は通りを逆向きにもう一度歩いた。
    なんとしてでも食べたい。
    もう心は決まってしまった。

    何のことはない、逆向きに歩いてみると、
    何ともわかりやすい看板が目に入った。
    その店は、階段を上がった先にあったのだ。

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    小さな扉の前に数人が並んでいる。
    混んでいるのかと思ったが、
    意外にも列はすぐに進んでいく。
    ものの数分で、店の中へ入ることができた。

    店の中は薄暗い。入るとすぐにレジがあり、
    そこで注文するスタイルのようだ。
    カウンターの奥からは、熱風が吹いてくる。
    なかなか過酷な職場だな、どんな仕事も大変だ、
    などと思いながら店の奥を眺めていると、
    あっという間に自分の番が来た。

    私はおそらく定番の、
    イカのフリットを注文した。

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    熱々の揚げたてがやってきた。
    結構なボリュームである。
    私は階段の下にあったベンチに腰掛け、
    厚めに切られたレモンを片手で絞った。

    清々しいレモンの香りが弾けて、
    ますます食欲をそそってくる。

    大ぶりのフリットを一口ほおばると、
    カリカリの衣の中から、
    とろけるような柔らかいイカ。

    ふぅーん、旨い。
    猫舌のくせに、どんどん食べたくなる美味しさだ。

    いつもより大切にできる

    しばらく夢中で食べていると、
    道行く人と目が合った。
    女性のグループのひとりが近づいてきて、
    「それ、どこの店で買いました?」
    と英語で私に聞いた。

    私は振り返って階段の上を指しながら、
    「私も最初、見つけられなかった」と言った。

    すると、彼女は明るく笑って、
    「あ、ほんとだ!下ばかり見ていたから気づかなかった」
    と言い、仲間らとも笑い合っている。

    その後、彼女らとしばらく話をした。
    ほんの2、3分。
    内容はたわいもないことだ。

    食べているフリットの味はどうだとか、
    ヴェルナッツァの村の美しさとか。
    そして互いが、どんな旅をしているかなど。

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    「じゃあ、フリット買ってくる。」と、
    彼女らが私の元から去ると、
    ちょうど目の前の道の人通りが途絶えた。

    一瞬の静寂がやってくる。

    私はまだ底に残っていたイカを口に放り込んだ。
    レモンの果汁をしっかりまとったイカは、
    もう冷めていて、少し硬くなっている。

    ひとり旅は孤独だ。

    だって、イカの旨さを分かち合う人がいないから。

    けれど、ひとり旅は、いつもよりもっと
    小さな出会いを大切にできるような気がする。

    私は上あごの火傷を避けながら、
    最後のイカを噛みしめた。


     
     
    旅するもの書き・フォトライターのariru ariruです。 ヨーロッパを中心に30か国以上を旅してきました。 石畳の音、風に揺れる洗濯物、午前11時のカフェの会話。 元中学校社会科教師。言語にまつわる研究を続けながら、 今日も、光と言葉で旅の余白を綴ります。

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