
私を人間に戻してくれた。東野圭吾という存在。
「東野圭吾」という存在を知ったのは、ドラマの「ガリレオ」だった。普段、月9だからと言ってあまり期待せずに観ていたのに反し、それこそ「実に面白い!」と思った初めての作品だ。私が大好きな理系の世界。本当は進みたかった理系の、物理の世界。原作が知りたい。読んでみたい…!
母から散々「本を読みなさい」と言われても読まなかった私が、「本を読みたい!」という衝動に駆られた。読書嫌いな少女がそのまんま大人になってしまって、一生読書なんてしないだろうなと思っていた。なのに、東野圭吾作品を1冊読むと魔法がかかる。シリーズものは集めたくなるし、医療系もガチガチの理系も恋愛系もスポーツ系も人情系もSF系も、ジャンル問わず存在してるから「他には?」と探したくなるし、とにかく次から次へと読めた。
こんな面白いものを書けるだなんて、よっぽど幼い頃から読書をしてきたんだろうな。きっと教室の隅っこで本を読んでいた少年時代だったのだろう、なんて思っていたが、実は読書嫌いだった東野少年…信じられない。私と同じ?本を読まなかったの?
なんだか勝手に親近感を抱き、ますます東野圭吾さんのことが大好きになった。
起業してからは経営本ばかり読むようになって、いつしか小説から離れていった。金銭的に苦しくなった時、集めていた東野圭吾作品を本屋さんへ持ち込み手放したこともあった。単行本を買って、離れて住む母へ送るというカタチで親孝行をしていた時期もあり、手元にはほぼなくなった。
あれだけ本と縁がない人生だったのに、一気に本に囲まれるようになり、そしてまた本と離れることになるとは…いくら脳内で作品が生きていても、やはりカタチとして「在る」というのがいいなと初めて思った。紙の匂い、表紙の手触り、ページをめくる音、本棚に背表紙の色を揃えて並べたりなど、本の存在を「感じる」手段が私には必要だった。
東野圭吾さんの描く世界は、「人間の滑稽さ」「美しく儚い愛」が溢れている。ミステリーの場合、単なる犯人探しではなく、「なぜこの犯罪が起きてしまったのか」「自分もそうしてしまうかもしれない」「加害者と呼ばれている側も、もしかしたら被害者?」など、様々な視点から考えさせられる。「犯罪は良くないよね!」という当たり前のことを大きな声では言えない。
どの作品にも「人として」の部分が盛り込まれていて、クスッと笑えたり、涙が止まらなくなったり、読むと人間に戻れるというか、ホッとする瞬間があった。きっと、こういう時間って意図して組まないと、毎日慌ただしく過ぎ去ってしまって、気づいたらなんか季節変わってた…ってなっちゃうんだよな。
会社がなくなって、経営をしなくてよくなった私には、好きなものを好きだと言ってもいい自由が与えられた。「これは仕事に繋がるかな?」という基準で行動を選ばなくてよくなった。「人間に戻りたい」という欲を満たせる環境になった。さて、また小説の世界へ浸ろうかしらと思っていた矢先のこと。え…?東野圭吾さんが、いない?ウソでしょう?
サインをもらうのが夢だったのに。「東野圭吾さんに影響されて、小説を書いたんです!」って、直接伝えることが夢だったのに。「超理系殺人事件が大好きなんです」って、言いたかったのに。どうして…?
新作を楽しみにして生きることがもうない。もちろん過去の作品は大好きだし、何度だって読み返して、何度だって映像も観てるし。でもやっぱり、年間何冊も新作を出し続けて、「なんでいつも毎回面白いんだよぉ…」って、参りましたぁって言わせてくれる存在だから、もうそれが言えないんだってことが寂しい。
初めて小説を書くというチャレンジをした時、「東野圭吾さんが読んだら、何て言ってくれるかなぁ」と想いながら書き進めた。「実に面白い」って、言ってくれるかなぁなんて。「この部分、いいね!」なんて褒めてくれるかなぁ、とか。勝手にもう、「東野圭吾さんに読まれる前提」でいた。自分の作品が本屋さんに並ぶことをありありと想像した。隣に東野圭吾コーナーがあって、「この新人作家の本も読んでみるか」と、手に取る人がいたら嬉しいなぁなんて、そんなおこがましい妄想もした。その時間も本当に本当に、幸せをくれた。心に想うだけで、夢を抱かせてくれて、「ちょっと…やってみようかな」と、はじめの一歩を与えてくれる。背中をポンッと押すようなタイプではなくて、背中をさすってくれるようなイメージ。癒されて、自ら一歩を進める、みたいな。その一歩は「えーい!」って力強くはなくて、すり足でズズズ…ぐらいのやつなんだけど、それでもなんか「ハッ!足が出た!前に!」って思える大きな一歩だ。そういう感じ。伝わりますか?
もう直接お伝えすることはできないけれど、いつか本当に自分の本が東野圭吾さんの作品と並ぶ日が訪れたら、「東野圭吾さんのおかげで、この作品を書くことができました」と言いたい。もしかしたら、その時にやっと、やっとお別れの言葉を言えるのかもしれない。