軽やかな抜け殻の午後

シロクマ文芸部「待つ時間」
「ねえニコラ、人間の寿命って、だいたい何リットルくらいの空気でできているのかしら?」
ペシャンコになった恋人をコートのポケットに押し込みながら、男は真面目な顔でその問いの答えを探していた。
茜色がすべり込む窓辺の寝台で、アデールが紅茶に角砂糖を落とした瞬間、彼女の左の鎖骨のあたりから「プシュー」という、新品の浮き輪の栓を抜いたような小気味のいい音がした。
「あら」
アデールが指でそこをつついてみると、指先がふわりと皮膚のなかに沈み込んだ。
まるで柔らかい桃色のゴムボールのように、彼女の身体はみるみるうちに空気を失い、ドレスの布地だけが床の上へくしゃりと音を立てて萎れ落ちていく。
数分後、そこにあったのは美しいドレスの抜け殻と、使い古された風船のように、すっかりペシャンコになったアデールだけだった。
「アデール!どうしたんだ」
窓の外を通りかかった恋人のニコラが慌てて部屋に駆けつけ、床に横たわる彼女を抱き起こす。
「分からないわ、ニコラ。でも、とても軽いの。まるで今夜のジャズの旋律みたいにね」
ペシャンコになった彼女の声は、レコードの回転数を少し間違えたように、どこか遠くで可愛らしく響いた。
ニコラは困り顔で彼女を折り畳み、手際よく丸めると、コートのポケットにそっと差し込んだ。
足早に歩くニコラの鼓動が、ポケット越しに心地よいリズムを刻んでいる。
再び誰かの息を吸い込んで、あの豊かな体温を取り戻すまでのこの頼りない待ち時間さえ、ふたりにとっては世界で一番やさしい秘密の隙間だった。
「仕方ない。まずはカフェに行って、ストローで君を膨らまそう。それからジャズを聴きに行くんだ」
アデールはポケットの中で心地よく揺られながら、ふふっと笑った。
少しばかり空気が抜けたところで、今夜のワインの味が変わるわけでも、ふたりの恋が萎んでしまうわけでもなかった。
――むしろ、余計な重さの消えた彼女をポケットに抱えているこの時間は、この街の夜によく似合っていた。
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あとがき
力が入りすぎて疲れてしまったときや、なんだかすべてが空回りしてしまうときこそ、こんな風にやり過ごせたらと思います。
ふと気が抜けてペシャンコになってしまう日も、丸めてポケットに入れてしまえば、世界は案外優しいまま。
ストローで息を吹き返すまでの小休止も、また悪くないものです。
こちらのお題に参加させていただきました◯
小牧幸助さん、よろしくお願いいたします。