
月の裏側への約束
透明なドームに覆われたその空間には青空が投影され、重力は地球の七割に調整されている。
その雑踏の中を、健太とミユキは肩を並べて歩いていた。
「ねえ、健太。次、あれに乗らない?」
ミユキが指差したのは、ドームの天井を突き抜けまっすぐ宇宙へせり上がった後、青い地球へと真っ逆さまに落下する絶叫マシンだった。
「おお、いいね。月面一のスリルライドだろ?」
「わたし、こういうの、ちょっと苦手なんだけど」
「大丈夫! オレがついてるから!」
やがて順番が来て二人は最前列のシートに腰を下ろした。
体を包み込むような特殊なハーネスが装着される。
「カシャン!」
という機械的な音と共にハーネスがロックされた。
ミユキが隣を見ると、そこには先ほどまでの威勢はどこへやら、顔面蒼白になった健太の姿があった。
「あれ? もうフリーズしてる?」
ミユキがからかうように小突くと、健太の肩がビクッと跳ねた。
「し、してないって。ぜ、ぜんっぜん平気だし」
ドームの天井が開き、目の前に広がるのは、ありのままの宇宙だった。
無数の星々が瞬き、あまりにも美しい青い地球が浮かんでいた。
それは実際の映像と宇宙船から見た地球の映像をもとに、AIが生成したものだった。
「ねえ、本当に大丈夫? 今ならまだリタイアできるよ? 『宇宙線の影響で体内の水分バランスが崩れました』って言えば、係員さんも納得してくれるって」
「だ、大丈夫に決まってるだろ」
健太が言い終わる前に二人は最高到達点に達し、一瞬の静寂が二人を包んだ。
眼下には息をのむほど美しい地球の姿が見えた。
カウントダウンのアナウンスが響く。
『3、2、1 』
ゴオォォォオオオオ!
急降下の衝撃と共に、健太の絶叫がヘルメット内の通信機を通じてミユキの耳にダイレクトに叩きつけられた。
「うおおぉおおおお! 地球があまりにも青すぎるうぅぅぅっ!」
健太の悲鳴は遊園地どころか、月の海にまで響き渡りそうな勢いだ。
一方のミユキはというと、思いのほか楽しんでいた。
「きゃはははっ! すごい、本当に地球に落ちていくみたい」
ミユキの体はふわりと浮き上がり、宇宙遊泳のような心地よさに思わず笑みがこぼれた。
隣を見ると、健太も同じように浮き上がってはいたが、その姿はまるで水面に投げ込まれたカエルのように、手足をめちゃくちゃにばたつかせていた。
長いようで短い落下が終わり、ギギギーッ、ガタンッ、と二人はステーションに静止した。
「ああ、楽しかった? ちょっとした宇宙飛行士訓練みたいだったね」
笑顔で息をつくミユキの隣で、健太はシートにぐったりと沈み込んでいた。
まるで真空パックにされた深海魚のようだ。
乗り場を出ると、健太の足取りはまだおぼつかない。
ミユキがそっと彼の腕を支える。
「うわっ、汗でびしょびしょじゃん!」
ミユキが声を上げると健太は慌てて手を引っ込めて売店の方を見た。
「ちょっと休憩しないか? ソフトクリームでも食べよう」
「ふふっ、いいよ」
急に元気を取り戻した健太は、おぼつかない足取りながらも売店に向かって歩き出し、ミユキに向かってピースサインを掲げた。
その指先がまだ微かに震えているのを、ミユキは見逃さなかった。
しばらくして健太がソフトクリームを二つ持って嬉しそうに戻ってきた。
「よかった。その笑顔が戻ってきて安心したわ」
健太は照れくさそうに頬をかくと、ミユキの手をそっと握った。
まだ少し湿った彼の手を、ミユキは包み込むように優しく握り返す。
展望デッキに出ると、夜空に浮かぶ青い地球が月面をやわらかく照らしていた。
白銀の大地に落ちた二人の影は、ゆっくりと寄り添うように伸びていく。
ミユキは健太の不器用さこそ愛おしいと感じていた。
完璧な宇宙飛行士よりも見栄っ張りで怖がりで、それでも一生懸命に格好つけようとする彼の方がずっと輝いて見える。
「ねえ、健太。月の裏側、本当に案内してくれる?」
「もちろん。オレの庭みたいなもんだからな。裏側にはこちら側の住民が知らない駅があるんだ」
ミユキの耳にはその言葉が温かく響いていた。
「へー、そうなの? 行ってみたいな」
見上げる先、地球は静かに光を放ち二人を照らしている。
ここからは見えない裏側の駅。
二人がそこを訪れるとき、何色の光が振り注いでいるのかを、彼らはまだ知らない。
了
以下の企画にお邪魔してます。
#3つのお題に空想のひらめきを
お題 : 「月の裏側にある駅」
