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いつか「ここは自分のまちだ」と言えるように。「新綱島MICCA」オープニングイベント

    新綱島駅前に商業施設「新綱島MICCA」がオープンした。築170年の古民家を中心に据えた、ちょっと変わった駅前開発。11月3日にはそのオープニングイベントが行われた。

    いくつかの催しがあるなかで、僕はこの古民家の当主や、開発に携わった人たちのトークセッションに参加。そこで語られていたのは、施設それ自体にとどまらない、このまちの「次の100年」の話だったように思う。

    綱島に住んで10年。大した理由もなく移り住み、そろそろ別のまちに引っ越そうかとさえ思っていた僕には、それが妙にまぶしく映ったのだった。

    高層ビルじゃない駅前開発

    駅前開発というと、高層ビルに「いつメン」のテナントが並んで、上層階はマンション。それがお決まりという印象だ。

    でもMICCAはちょっと違う。築170年の古民家がまずあって、それを囲むように二つの建物が新たに建てられた。古民家は、もともとこの地域の名主だったという池谷(いけのや)家の住宅。母屋に対して「はなれ」と位置付けられた新築2棟も、2階建てと高さが抑えられている。

    入っているお店はあまり見たことのない顔ぶれで、ちょっと新鮮。こだわりというか、ふつうの駅前開発とは異なるロジックを感じる。

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    池谷家の当主をはじめとする、開発に携わった面々によるトークセッションは、この日のメインコンテンツのひとつ。これがまあ、とてもよかった!

    会場はお庭にパイプ椅子を並べた青空形式。工事前の池谷家のお庭は鬱蒼としていて、そこにお屋敷があることも窺い知れないくらいだったと記憶しているのだけれど、それがすっかり開けて、気持ちのいい場所になっていた。秋晴れで、風もなくて、とても心地のいい時間だった。

    なにより、当主の池谷道義さんのおしゃべりが上手で驚いた。もちろん中身も興味深いのだけれど、なんというか、それ以前に「熱」があった。

    これは次の100年のスタート

    僕がいちばん心を動かされたのは、「施設のオープンはゴールではなく、次の100年のスタートなんだ」と、登壇者のみなさんが繰り返し言っていたことだった。

    商業施設のオープニングトークとしては、常套句なのかもしれないが。でも、池谷さんの「100年」にはちゃんと根拠があった。

    いまから100年前、大正15年に、東急の前身である東京横浜電鉄が「綱島温泉駅」をつくった。当時の綱島には温泉があり、桃の産地で、桜の名所でもあった。そこに人を呼ぼうと駅ができて、綱島は観光地として賑わうようになる。一方、池谷家のあるあたりは、田畑の広がるただの住宅地だったそうだ。

    そして100年後のいま、同じ東急の新横浜線が通って、「ただの住宅地」の入り口に新綱島駅ができた。池谷さんにとってMICCAは、このまちがもう一度面白くなっていくための「起爆剤」なのだという。

    「ここだけ売れてもダメなんですよ。次に続く人が出てきてほしい」

    自分が儲かって、お店も儲かって、「池谷さんうまくやったな、俺もやろうかな」と思う人が出てくれば、それがまちが変わっていく流れになるんじゃないか。そういう話を、池谷さんは笑いを交えながら、でも本気の熱でしていたように思う。

    根が単純な僕は、この一事だけで心を動かされてしまった。

    この日がもし本当に次の100年の始まりなのだとしたら、僕はすごい瞬間に立ち会っているのかもしれない。なにかの始まりに立ち会えるって、そんなにありふれたことじゃないよね。

    もちろん僕が生きて100年後まで見届けることはないだろうけれど。でも、そこに至る一部始終の、最初のひとコマを体験できたかもしれないんだぜ?

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    「ただの住宅地」で過ごした10年

    「綱島といえば温泉だったよね、桃だったよね。でもいまは、東京と横浜の交通至便な住宅地」

    池谷さんのこの言葉を聞いて、そうそう!と思った。なぜって僕自身、まさにその「住宅地」としての綱島に、この10年間住んできたから。

    綱島に引っ越してきたのは、長男が生まれたタイミングだった。長男は今年10歳だから、僕らが綱島に住むようになって10年でもある。

    もともと横浜生まれの僕だけれど、綱島とは深い縁があったわけではない。縁といえば、はるか昔にかかっていたクリニックがあったこと、たまに桃源のラーメンを食べに来ていたことくらい。

    引っ越し先に綱島を選んだことに、ほとんど意味はなかった。綱島を選んだという意識もそんなになかった。

    僕はフリーランスで決まった勤務先はないし、会社員の妻も、当時は産休から育休のあいだだった。つまり、少なくともしばらくは、地球上のどこに住んでもよかったってわけ。ここに住むことを決めたのは、リノベーションされたマンションの部屋それ自体がとてもよかったことと、あとは鶴見川の土手に惹かれたから。

    かつて桃の産地だったことも、温泉地として栄えたことも、知識としては知っていた。でも、そういうことといまの暮らしとをつなぐ材料は、あまり見つからなかった。

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    住みはじめて、行きつけの店もできたし、仲のいい友達もできた。土手はあいかわらず気に入っている。けれど、まさか10年も住むことになるとは思っていなかった。というか、そろそろまったく別のどこかに引っ越して、新鮮な気持ちを味わいたいという気持ちのほうが強くなっていた。

    つまり僕は、この土地に大した理由もなく移り住み、ゼロではないけど愛着もそこまで持たないまま10年を過ごし、なんならそろそろ出ていこうと思っていた人間なのだ。

    胸をはって「ここは自分のまちなんだ」と言えるかといえば、どうかな。だから、池谷さんがあんなにも熱っぽくこのまちの過去と未来を語る姿が、本当にまぶしく映ったのだった。

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    「よそ者」が自分ごととして語る、このまち

    池谷さんには、170年この土地とともに生きてきた家の歴史がある。あんな立派なお屋敷を持っていて、容易には動けない文脈がある。まちと自分を同一化するのは、当然といえば当然のことかもしれない。

    でもこの日、このまちの来し方と行く末を思い入れをもって語っていたのは、池谷さんだけではなかった。

    東急でこのプロジェクトを担当してきた久家あかねさんは「担当になるまで、駅前にこんな古民家が残っていることを正直知らなかった」と笑った。設計を担当した再生建築研究所の筒井祥平さんがこの話を受けたのは入社1年目の秋で、「ほぼ学生上がり」だったという。初めて現地を訪れたときには、池谷家の犬にめちゃくちゃ吠えられたらしい。

    つまりふたりとも、もともとは綱島の「よそ者」だったのだ。

    そのふたりが、5年、7年とこの場所に通い、池谷さんと話し続けるうちに、単に商業施設を成功に導くということを超えて、このまちの行く末を自分ごととして捉えるようになった。少なくとも僕にはそのように見えた。

    筒井さんが紹介していた桃の話がまた、(ベタではあるけれども)とてもよかった。

    桃の木は、意外と早く老木になってしまう。だから良い実をつける枝を台木に接いで、新しい木を育てる。この「接ぎ木」を繰り返して、桃は更新され続けてきたのだと、構想の初期に池谷さんから教わったそうだ。

    筒井さんはそれを、古民家と新築の関係に重ねた。新築の建物も、古民家と切り離されたものではなく、同じひとつの池谷家として更新され続けていくものなのだと。

    話を聞きながら、これは建物だけの話じゃないなと思った。必ずしもその土地と深い関係にないところからスタートしても、そこが自分のまちになることはありうる。そういう話でもあるように思う。

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    つくり手の心境を想像し、グッとくる

    彼らの話が深く刺さったのには、おそらくもうひとつ理由があった。それはつくり手へのシンパシーだ。

    つくっているあいだは、つくり手同士の中で完結しているから、ある種無心で邁進できる。でもいざオープンするとなると、自分たちがいいものだと信じてつくってきたものが、本当に地域のひとたちに受け入れられるのか、同じようにいいものだと思ってもらえるのか、そんな大きな不安を抱えながらのことになるんじゃないかと(勝手に)想像するわけ。

    規模はぜんぜん違うけれど、僕が原稿を納品したり、記事として公開したり、誰かに読んでもらったりするときは、まさにそういう心境にある。自分では間違いなくいいものをつくっている自信があるけれど、それが誰かにも同じように思ってもらえるかは、別の話。むしろ、自分がいいものだと信じているからこそ、受け入れられなかったら、自分の存在それ自体を否定されたような気持ちになる。

    久家さんは「開業までの5年間より、正直これからが一番大変」だと話していた。できて終わりではダメなプロジェクトだからこそ、みんなが利用している光景を見ると、かえってその重さがのしかかってくる、とも。

    この日のイベントは本当に雰囲気がよくて、小さな子どもから大人までが思い思いに楽しんでいた。ワークショップを積極的に楽しんでいる人もいれば、古民家のつくりをじっくり眺めている人もいた。そんなことは全部お構いなしに、庭から新築へと駆け抜けていく子どもたちもいた。それがいいなと思った(ちなみにうちの子どもたちは、僕がトークイベントに聴き入っていた1時間、ずーっとベーゴマに夢中になっていた)。

    そうなったのはきっと、空間のデザインとか、イベントの設計とか、いろんな人のいろんな仕事の質が折り重なった結果なんだろうと思う。そういうものをつくれる人たちのことを僕は心の底から尊敬するし、彼ら彼女らがその光景を見て胸を撫で下ろしているところを想像すると、グッとくる。

    でも「それがゴールではなくスタートである」というのだから、重圧とワクワクの大きさは推して知るべし、なのである。

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    つくる側、担う側にまわること

    トークの終わり、久家さんは「新綱島MICCA」という名前に込めた思いを次のように話した。

    この名前には、この場所が「れきし」と「くらし」が重なって、愛着とつながりを育む、みんなの家になってほしいという思いが込められているんですね。

    なので、今日来たみなさまもこの話を聞いたので、もう担い手になられていると思います。この場所への愛着を深めていただいて、誰か一人でもいいので知り合いの方に今日の綱島の話をしていただいて、できれば一緒にご飯を食べに来ていただく。そういうつながりがこの先もどんどんつながっていく場所になってほしいなと思っています

    いい話!その通りだ!と僕は膝を打った。どんな形であれ、単に消費するんじゃなくて、つくる側、担う側にまわること。それが「ここは自分のまちだ」と思えるかどうかの、重要な分岐点なのだと僕も思う。

    ・・・なんだけど、じゃあそう言われて「僕もあらためてこの土地に根を張って、まちづくりの一端を担うぞ!」となるかといえば、そうはならないのが僕の厄介なところで。

    でも、この日このイベントに参加したことによって、少なくとも綱島というまちの見え方が変わり、MICCAという施設に対する親しみの感情が生まれたのは間違いない。

    個人的には、もうちょっとあったかい季節に夜、お庭でアコースティックのライブとか聴けたら最高だなー。

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